第3章 暗黒から光明へ
第1節 愛と叡智
1913年10月10日 金曜日

私達の日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば、結局はどちらも学校で勉強している様なものである事、実に大きな学校で沢山のクラスがあり、大勢の先生がおられる事、しかし教育方針は一貫しており、単純な事から複雑な事へと進むようになっている事、そして複雑と言う事は混乱を意味するのではなく、宇宙の創造主たる神を知れば知るほど其の知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来上っている事を悟るようになります。

そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、此方の世界で私達が日頃どんな事をして過ごしているのか、神の愛がどのように私達を包み謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。

こちらの事情で大切な事の一つに叡智と愛のバランスが取れていないといけない事が挙げられます。両者は実は別個のものではなく、一つの大きな原理の二つの側面を表しているのです。いわば樹木と葉との関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。判りやすい説明をする為に、私達が自分自身の事、および私達が指導する事を許された人達の世話をする中でどう言う具合に其の愛と叡智を取り入れていくか、一つの具体例をあげてみましょう。

つい先頃の事ですが、私達は一つの課題を与えられ、其の事で私達5人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わる事でした。

と言うのも、そうしたケースを取り扱う上でしばしば私達の経験不足が障害となっていましたし、又あなたも御存じの通り地上にはそういう人が多いのです。

そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、此方へ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛錬の成果が発揮される場でない事を身を持って理解された訳です。

訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘らず、少しも偉ぶらず、極めて丁重で親切に応対されました。あなた達ならば多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴なお方で、もしもそのお姿たで地上に降りられたら人間はその輝きに圧倒される事でしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としては、さしずめ“燦爛たる光輝に燃え立つような”と言うところでしょう。親身な態度で私達の話に耳を傾けられ、時折静かな口調で“それで?”と言って話を促され、私達はついその方の霊格の高さも忘れて、畏れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

「生徒の皆さん―ここにいる間は生徒としましよう。―お話は興味深く拝聴いたしました。と同時に、そういうお仕事に良くある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさり解決してあげれば、皆さんは心も軽くお仕事に戻る事が出来るでしょう。が、いざ仕事に携わって見ると又あれこれと問題が生じます。

なぜか。それは、一番心に銘記しておくべき事と言うものは体験して見なければ判らない細々した事ばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみて初めてわかると言う事です。では私についてお出でなさい。大事な事を私がお教えしましょう」

私達は先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果実の木の選定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲がりながら各種の植え込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。そしてすぐ側にエジプト寺院のミニチュアの様な石の東屋があり、私達は其の中に案内されました。

天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の一つのベンチに腰掛けると、先生も私達のベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。

床を見ると何やら図面の様なものが刻まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。

「さて、これが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この標のところが今居る場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中で何処をどう通ったか一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りして見るのも良い勉強になりますし、まんざら面白くない事もないでしょう。無事にお帰りになってお会いしたら、先ほどお聞きしたあなた方の問題についてアドバイスいたしましょう」

そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私達は互いに顔を見合わせ、先生が迷路のような道を連れて来られた目的に気づかなかったうかつさを互いに感じて、どっと笑い出しました。それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで、始めはほとんど判りませんでした。

が、その内徐々に判り始めました。それはコロニーの地図で、東屋は其の中心、ほぼ中央に位置しております。が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が四本あって、どの道を辿ればよいか判りません。

しかし私はこれは大した問題ではないと判断しました。と言うのは四本ともコロニーの外郭へつながっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間がかかりますから。

とにかく私の頭に一つの案が浮かび、参考までに提案してみたところみんなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。といって別に驚くほどの事ではないのです。どの方向でも良いから、とにかく外へ出て一番直線な道を進んでみると言うだけの話です。

言い方がまずいようですね。要するにどちらの方角でも良いから一番真っ直ぐな道を取る

と言う事です。そうすると必ず外郭へ出る。其の外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来る事になる訳です。

いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素がない訳ではありませんでした。と言うのも、其のコロニー―はそれはそれは広いもので、丘あり谷あり小川ありで、それが又実に楽しいので、よほど目的をしっかり意識していないと、道が二つに別れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

しかし必ずしも最短で直線的な道を選んだ訳ではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うと、其の外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくって、其の境界の様子からして円形になっている事はすぐに判りました。

そこで左に折れ、其のまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いて行くうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

先生は良く頑張りました、と言って迎えて下さり、その建物の前でテラスに上がり、それまでの冒険談、―私が書いたものより遥かに多くの体験―をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり、「なるほど、結構立派にやり遂げられました。目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通り、あなた方の学ばれた教訓を私から述べさせて頂きましょう。」と言って次のような話をされました。

「まず第一に、行きたいと思う方向確認する事。次に近道と思える道ではなく一番確実と思える道を選ぶこと。其の道が一番早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域にまずやってくる。其の境界線から振り返ると、それまで通り抜けてきた土地の広さと限界の見当がつく。要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールは必ず達成されるものです。

また、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲がりくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合が取れている。―要するに完全な円形になっており、内部は一見すると迷路でごった混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると、全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ている事が判る筈です。小道を通っている時は迷うでしょうけど。

それに、其の外郭を直線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでも、その形からきっと求める場所つまり門に辿り着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。そして今こうして辿りつき、少なくとも概略に置いてあなた方の知的推理が正しかった事を証明なさった訳です。

さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間達にお預けしようと思います。その人達がこの建物や環境をさらに御案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものが沢山あるのです。

その方達と私が述べた教訓について語り合われると宜しい。少し後でもう一度お会いしますので、其の時には為したい事や尋ねたい事があればおっしゃってください」

そうおっしゃって私達にひとまず別れを告げられると、変わって建物の中から楽しそうな一団が出てきて私達を中へ招き入れました。まだまだ続けたいけど、あなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺でやめにしましょう。少しの間とは言え、こうして交信の為に降りてくるのは楽しい事です。あなたを始め皆さんに神の祝福を。母と其の霊団より。

第2節 霊界の科学館
1913年10月11日 土曜日

昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終わってしまったので、今日はあのコロニーでの体験の幾つかを述べて見たいと思います。そこにはいろんな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば一番効果的かを研究するためのものです。昨夜お話した私達の体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓をふくらませることができると思います。

さて、あの後に指導霊の一団の引率で私達はすでにお話しした境界の外側へ出ました。そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取りおこなわれる高級界の神霊の〝顕現〟する場の一つです。

召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群衆が集合し、その天界の低地で可能な限りのさまざまな荘厳なシーンが展開します。そこを通り過ぎて行くうちに次第に上り坂となり、辿り着いたところは台地になっていて、そこに大小さまざまな建物が幾つか建っております。

その中央に特別に大きいのが建っており、私達はそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りもない、ただの大きなホールになっております。円形をしており、周りの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますと、それは天体を彫ったものでその中には地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。

そのほか動物や植物や人間の像も彫られていて、そのほとんどが壁のくぼみ、つまり入れ込みに置いてあります。訪ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとのことでした。私達はその円形施設の片側に取り付けられているバルコニーに案内されました。そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。

これからこの施設がどのように使用されるかを私達のために実演して見せて下さることになりました。腰かけて見ておりますと。青い霞の様なものがホールの中心付近に立ち込みはじめました。と同時に一条の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。

すると地球儀がまるでその光を吸収して行くかのように発光し始め、まもなく光線が引っ込められた後も内部から輝き続けました。と見ているうちに今度は強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。すると地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。

それがホール中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに誇張をしはじめ、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。その時はまだ地上で使われる平面図にすぎませんでしたが、回転するうちに次第に様子が変わってきました。

山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざ波、都市のミニチュア、建物の細々とした部分までが見え始めたのです。きめ細かさがどんどん進んで、人間の姿─最初は群衆が、やがて一人ひとりの姿までも見分けられるようになりました。直径80フィートから100フィートもあろうと思われる球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を一つ一つ再現することです。

その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で忙しく働いている人間の様子まで見えるようになりました。広い草原や砂漠、森林そこに生息する動物の姿まで見えました。さらに回転して行くうちに、今度は内海や外洋が見えてきました。あるものは静かに波うち、あるものは荒れ狂っております。そしてそこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私達に声を掛けられました。おっしゃるには、私達が見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みで有れば過去へ遡って知性をもつ存在としての人類の起源まで再現できますと言うことでした。是非その見事な現象をもっともっと見せて頂きたいともうしあげると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる機器のあるところへ行かれました。

その話の続きは後にして、今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。そのホールは暗くありません。全体が隅々まで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

さて程なくして回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私達は長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て来て平地で集落をこしらえるようになった頃の地上の全生命─人間と動物と植物の太古の姿を目の当たりにし始めました。

さて、ここでお断りしておかなければならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないと言うことです。当時の現象は"国家"と〝世紀〟の単位でなく〝種〟と〝累代〟(*)の単位で起きておりました。何代もの地質学時代がありました。人間が鉄器時代、とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白い事が発見されます。あらかじめある程度知識をもつ者には、どうもそうした名称がでたらめであることが分かるのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の一、二の地域に当てはまるかもしれませんが、決して全体が氷で覆われていたわけではないことが、その球体を見ていると判るのです。それも大てい一時代に一つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が氷で覆われていたのです。が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そうしてさっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。(*地質学的時代区分を二つ以上含む最大の単位─訳者)

どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬわが地球なのかと思い、それにしては自分達が何も知らずに居たことを痛感していると、その球体が自然に小さくなって、もとの壁の入れ込みの中へ戻りやがて光輝が薄れていき、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物の様になってしまいました。

この現象に興味をそそられた私達が係の人に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途があること。あのような美しい現象を選んだのは科学的訓練を受けていない私達には美しさの要素の多いものが適切であるからと考えたからであること、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、其々の天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっていること。等々でした。

壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されると言うことでした。地球儀と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中央部へやってきます。そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味ではその間だけは生きた動物となっているのです。それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線─本当の科学的名称を知らないので仮にそう呼んでおきます。─を、当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。すると動物の内臓が丸見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物あるいは人間の内部組織の働き具合を実に見応えのあるものだそうです。

そのモデルに別な操作を施すと、今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形体まで遡って行くことができます。つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きたまま見られと言うわけです。面白いのはその操作を誤るとまちがったコースを辿ることがあることで、その時は初期の段階が終わった段階で一旦元に戻し、もう一度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くということがあるそうです。

また、研究生が自分のアイディアを組み入れた進化のコースを辿らせてみることもできるそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じことができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとのことでした。

一度話に出た(86p参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生が一人でこしらえたそうです。勿論ここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかもしれません。

今日はこれくらいにして置きましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなり過ぎるので止めにします。

何か聞きたい事があるみたいですね。その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私が述べた言葉は聞こえなかったようですけど。
ではさようなら。明日またお会いしましょう。

≪原著者ノート≫最後のところで言及している勉強会の事について一言述べておく必要がある。前の週の月曜日の事である、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向かい合って着席していた。聖歌隊の至聖所側一番端で私に右手になる位置でE婦人が着席していた。そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締めくくりの言葉を述べて居る最中に私に母親が両手を大きく広げ情愛あふれる顔で祭壇から進み出て、私のすぐ後ろまで来たという。その姿は輝くように美しくまるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったと言う。E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、余りの生々しさに一瞬自分以外のものには見えていない事を忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたと言う。私が質問しようと思っていたのはその事だった。

第3節 霊界のパピリオン
1913年10月13日 月曜日

例のコロニーでの、貴方の喜びそうな体験をもう一つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味ぶかいものでした。全体として一つのグループを形成している各種の施設を次々と案内していただいていると、屋外パピリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで、囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横三フィート、高さ四フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形などがいろいろと刻まれてありました。

その真上のドームの中央部に通路があり、そこから入っていくとその施設の器械の操作室に出るとの話でした。私達をその文字盤(と呼んでおきましょう)の周りに並ばせて、案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へとはいられました。何が起きるか分からないまま、私達はジーとその文字盤を見つめておりました。すると様子が変化し始めました。まず空気の色彩と密度が変わってきました。

辺りを見ますとさっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。さまざまな色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに一本一本分れ、判然とした形態を整えていきました。すっかり整え終わった時、私達は周りは林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風に揺られているのです。

やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交う綺麗な羽をした小鳥の姿が目に入りました。林は尚も広がり、美しい森の趣となってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。やがて上の方から案内の方の声がして、文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうち誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で一番頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物を構成する成分を解説しているものです。と言いました。

その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっと無理です。ですが分かって見るとなるほどと納得がいきました。その後案内の方が再び私達の所へ来られ、その建物の使用目的を説明してくださいました。ここの研究生たちが〝創造〟についての進んだ科学的学習を行うためには、創造に使用される基本的成分について十分に勉強をしておかねばならないようです。それはあたり前と言ってしまえば確かに当たり前のことです。

この建物は研究生が最初に学習する施設の一つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合わせやその比率などの参考資料が記されているのです。案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法でこしらえたものでした。進歩してくるとその装置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。つまり一つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置を使わずに自分の意念だけで造れるようになるわけです。

そこで私達は、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。するとまず第一に精神と意思の鍛錬が目的であるとのことでした。その鍛錬は並大抵のものではなく、大変な努力を要するとのことで、それが一通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、それでもさらに多くに段階の修練を積まねばならなりません。

その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは、いくつもの界でそうした修練を経たのちの事です。その暁にはある一人の大霊、大天使、能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属する事を許され、父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加することになります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとのことです。

お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造―物質か霊的かは別として─の事かも知れないと考えたりしました。が、そんな高い界の事は現在の私達にはおよその概念程度のことしか掴めません。しかもそこまで至るには人智を絶した長い長い年月を要するとのことです。勿論そういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私達五人の女にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。

でもたとえ辿るべき宿命は違っていても、さまざまな生命活動を知りたいと思うものです。すべての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく壮大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶ別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。

私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に丸みを持たせる働きをし、双方が相俟って完成美を増すことになると言うことでした。勿論その完成美といってもその界の能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げると言う意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって完璧な完成ということはあり得ないのです。
やがて私達はこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。

―何故その方のお名前を出されないのですか。

お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いので、これ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しない事に致します。

―そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。
そうなのです。でも私達がこうして霊界の説明をするときの霊的状況の真相がもし理解できれば、手間が掛るほど間違いが少ないと言う事が判って頂けると思います。例のアーノル様のコロニーでの私達の体験と教訓を思い出して下さい。

―それにしても、名前を出すと言う事が何故そんなに難しいのでしょうか。難しいものであると言う事は再三聞かされておりますが。

その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもない事のように思えるでしょうけど。こう言う説明はどうでもいいでしょう。あなたもご存じの通り古代エジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主観の英語系民族(アングロサクソン)が考える以上に深い意味があったのです。

名前に何の意味があると言うのか―そう思われるかもしれませんが、私達霊界人から見ると、そして又(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。名前によっては、それを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、此方へ来てそれを知ったのです。それで私達は、あなたには多分愚かしく思えるかもしれませんが〝名前〟と言う実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。もっとも、物分かりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。

こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりする事さえ、あなたが想像する以上に困難な事があるのです。その辺の事情は説明が難しいのです。こちらの四次元世界の事情にもっともっと通じて頂かないと理解できないでしょう。この四次元と言う用語も他に適当な言葉がないから使用しているまでです。では二三の例を挙げて、それで名前の問題は終わりにしましょう。

その一つは例のモーゼが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(*)ですが、今日まで誰一人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。

(*この説話は旧約聖書出エジプト記三章)に出ているが、ステイントン・モーゼスの「霊訓」の最高の指導霊イムペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マキラによると、これは紀元前130年頃の予言者今でいう霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、其の時の言葉はNuk-Pu-Nuk,英訳すればI am the I amすなわち〝私は有るがままの存在である〟となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという。

次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名前を明らかにしておりません。新約聖書に置いても同じように殆どが〝天使〟と呼ばれているだけです。名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(*)も、その深い意味は殆ど理解されておりません。
(*)同じく「霊訓」によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも“守護救済”の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエル悪霊、邪霊集団と“戦う天使団”の最高霊であると言う。

―ところで、あなたの名前、―そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かす事を許されているのでしょうか。

勿論許されておりますが、賢明ではありません。明かした方が良ければ明かします。でもさしあたってはさし控えます。理由は良く判って頂けなくても、あなたの為に良かれと思っての事である事は判って頂けるでしょうから。

―結構です。あなたの判断にお任せします。

その内あなたにも判る日が来ます。その時は「生命の書」(*)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に与えするものです。軽々しく口にされておりますが、その真意は殆ど、あるいは全然理解されておりません。

(正式にはBook of Life of the Lamb)で「キリスト生命の書」。天国へ召されるのを約束された聖人を意味するとされている。)

ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらんことを。ルビー(まえがきを参照)が間もなく行けるようになると言って頂戴、と私に可愛らしく告げています。指示を書きとめられるようになってほしいなどと言ってますよ。まあ、ほんとに無邪気な子ですこと。皆さんから可愛がられて。ではさようなら。

第4節 暗黒街からの霊の救出
1913年10月15日 水曜日

自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在する事を知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実身と愛と美を説明するとしたら、あなたは何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊である事を得心させようとなさる事でしょう。

そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味を持つ事に気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとする事でしょう。なにしろ其の世界は死と言うベールをくぐり抜けた後に例外なく行きつくところであり、否応なしに暮さねばならないところだからです。

そこで私達は、もし地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上限りの果敢(ハカ)ないものではない事を理解してくれれば、私達のように身を持って死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ち構えている事を知った者からのメッセージを、一考の価値のあるものと認めてくれると思うのです。

さてその死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞りなく神の御国での仕事に勤しむ事になるのは何でもない事の様で、実はただ事ではないのです。

これまで私達は地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での訓練と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調し過ぎる事はないという認識を得ております。多くの人間は死んでからの事は死んでからで良いと多寡を括っておりますが、いざこちらへ来て見るとその考えが認識不足であった事に気づくのです。

―今お書きになっているのはどなたですか。

あなたの母親と霊団のものです。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。また何時かお出でになるでしょう。霊団とともに通信においでになられた時はお知らせしましょう。では話を続けましょう。“橋”と“裂け目”の話は致しました…。

―ええ、聞きました。それよりも、アーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからの事はどうなりました。他に面白いエピソートはもうないですか。

いろいろと勉強になり、知人も増え、お話した事より遥かに多くの事を見学したという以外には別に申し上げる事はありません。それよりも、ぜひあなたにお聞かせしたいと思っている事があります。あのコロニーでの話を続けてもいいですが、これも同じように為になる話です。

〝裂け目〟と〝橋〟―例の話を思い出して下さい。(41P参照)。その橋―地上の橋と少し趣が異なるのですが、引き続きそう呼んでおきましょう。―が暗黒界から延びてきて光明界への高台へ駆け上がる辺りで目撃したエピソートをお話しましょう。

私達がそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する一人の女性を迎えるためでした。その方は“光”の橋を渡ってくるのではなく“裂け目”の恐怖の闇の中を這い上がってくると言うのです。私達にはもう一人、すぐ上の界から強力な天使が付いてきて下さいました。特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団の御一人でした。

―お名前を伺いたいのですが。

ビーニ・・・いけません。出てきません。後にしましょう。書いているうちに思いだすかもしれません。

到着してみると、谷を少し下った岩だらけの道に一個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っている事が判りました。やがてその光が小さくなり始め、谷底へ降りて行かれた事を知りました。それから少しすると、谷底から上へ向けて閃光が発せられ、それに呼応して“橋”に幾つか設けられている塔の一つから照明が照らされました。

それはサーチライトに似ていない事もありません。それが谷底の暗闇へ向けられ、一点をじっと照らしています。するとビー・・・、私達について来られた天使様が私達に〝暫くここにいるように〟と言い残してその場を離れ、宙を飛んですばやく塔のてっぺんへ行かれました。

次の瞬間其の天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の一人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ降りて行くのを見かけたと言います。私には見えませんでしたが、間もなくその通りだった事が判明しました。

ここで注釈が要りそうです。その証明は見えやすくする為のものではありません。(高級霊は自分の霊眼で見えますから)その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用が有るのです。

最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して、常時見張っている塔から照明が当てられたのも、その為の合図だったのです。私には判りませでしたが、其の光線には生命とエネルギーが充満しており、―これ以上うまい表現が出来ません。―谷底で援助を必要としている霊の為に発せられた訳です。

やがて二人の天使が件(クダン)の女性を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常に強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。後で聞いたところによりますと、途中でその女性を取り戻そうとする邪霊集団と遭遇したそうで、信号を送って援助を求めたのは其の時でした。

お二人は其の女性霊を抱きかかえるようにして歩いてきましたが、其の女性は光の強さに半ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも、似たような体験はあります。

例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が終結した話(48p参照)をしましたが、今度の光景はある意味でそれよりも厳粛さがありました。と言うのはあの光景にはただただ喜びに溢れておりましたが、今目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。

三人は遂に橋に辿り着き、そこで女性は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り、回復した後に私達に引き渡されたのでした。

この話には私達にとって新しい教訓が幾つかあり、同時にそれまで単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。その内の幾つかを上げてみましょう。

まず女性霊を救出した二人の天使を見ればわかる通り、霊格の高い天使が苦しみを味わう事が無いかのように想像するのは間違いだと言う事です。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(ヤ)られます。

ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、やはり光明と善の勢力の組織がしっかりしていて、かつ杖に見張っておりますので、現実にそうした大変な事態になった話を聞いた事がありません。

しかし彼等との戦いは真実“闘い”なのです。しかも大変なエネルギーの消耗を伴います。これが第二の教訓です。高級霊でも披露する事があると言う事です。

しかし、その苦痛も疲労も厭わないのです。逆説的に聞こえるかもしれませんが、高級霊になると、必死に救いを求める魂の為に自分が苦しみを味わう事に喜びを感じるものなのです。

又例の照明の光―・エネルギーの活力の光線とでも言うべきかもしれません。・―の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害を被った筈です。あの様な光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。

更にもう一つ、其の光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかと思える遠く深い谷底から叫び声が聞こえてきました。それは何とも言えない不思議な体験でした。と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けてと御慈悲を求める声も混じっていたのです。

それらが混ざり合ったものが至る所から聞こえてくるのです。私にはそれが理解できないので、後で件の女性霊を待っている間にビーニックスBeanix―こう綴るより他にないように思えますのでこれで通します。綴って見るとどうもしっくりこないのですが―その方に何の叫び声で何処から来るのかお聞きしました。

するとビーニックス様は、それは良く知らないが霊界にはそうした叫び声を全部記憶する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとの事でした。叫び声の一つ一つにその魂の善性又は邪悪性が込められており、其々に相応しいものを授かる事になる訳です。

件の女性をお預かりした時、私達はまずは休養と言う事で、心の休まる雰囲気で包んであげるよう心がけました。そして十分に体力が回復してから、用意しておいたホームへ御案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。

私達はその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から二三の質問がありました。何とあの暗黒界に実に二十年以上もいたと言うのです。地上時代の事は断片的にしか聞いておらず、一つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させる事は賢明ではないのです。現在から少しずつ辿って霊界での体験を一通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係―原因と結果、種まきと収穫―を明確に認識しないといけないのです。

今日はこの程度のしておきましょう。ではさようなら。神の祝福と安らぎを。