第41章 アンナスのわるだくみ
神殿から商人やローマ兵を追い出した後、バラバとヨナの二人は神殿を占拠し、若者に武器を渡し、戦闘態勢に入った。
ヨナは別名、バルヨナと言い、ペテロの従兄弟で、顔かたちもペテロによく似ていた。ヨナはペテロにひとふりの剣を渡し、彼にも一緒に剣で戦うように勧めたが、ペテロはこれを断った。でも、いつかイエスの身辺が危うくなったときに使えるようにと、ある場所に剣を隠しておいた。ペテロは、大司祭に買収された連中が、きっとイエスを殺しにやってくると思っていた。
バラバとヨナは、武装した若者を大勢引き連れて町中を歩き、一緒に戦いたい者たちはおれたちについてこいと叫んだ。多くの人々は、自分の大きな重荷となっているローマの支配や、パリサイ派、律法学者を撃退できればよいとは思うものの、おいそれとは反乱分子の仲間に加わろうとはしなかった。
今は手薄でも、ローマ軍は大挙してエルサレムにやってくることは、火を見るよりも明らかであった。アンナスと大司祭がローマ総督ピラトのもとへ飛脚を飛ばし、ならず者によって占拠された神殿をとりもどすよう要請した。という噂が町中に流れていた。それだけではなかった。ならず者を操っている者は、バラバとイエスであるとも噂されていた。
バラバとヨナによって率いられていた反乱分子は、アントニア砦とシロアムの塔を難なく占拠することができた。その中には、イスカリオテのユダはいなかった。彼はいつも背後に隠れ、イエスの近くにいるほうが良いと考えていた。
ユダの計画を成功させるためには、どうしてもイエスを中心にすえておく必要があったからである。彼の計算では、ローマ軍がやって来る前に、反乱軍に加わる仲間を増やせると考えていた。イエスは鼻持ちならないパリサイ人や律法学者の堕落と偽善を責めて、民衆の心を引きつけてくれたので、大勢の仲間が加担してくれるものと期待していた。
アンナスは、パリサイ人や律法学者を緊急に招集して相談を始めた。彼は、ナザレのイエスという人物が、反乱分子の中心であると宣言した。一人の議員が立ち上がり、この反乱と暴動を引き起こしたイエスが、どんなことを言ったのか、その証拠を示せと言った。
アンナスは、その日に、神殿務めをしていた一人の律法学者に合図をした。彼は直接イエスから聞いたことを話した。
彼は、エルサレムを離れ、荒野へ行き、税金や現金の心配のない平和の国のことを話した。それを聞いた議員たちは、馬鹿か気違いのたわごとだとあざ笑った。アンナスは言った。
「これではイエスがローマに反逆している証拠にはならんわい。全く不十分じゃ。それよりもイエスに直接会って質問攻めにし、何とか反乱の首謀者である証拠をつかまねばならんのじゃ。そうすればピラトが裁判にかけ、彼を死刑にするだろうて」
パリサイ人はこの案に満足し、早速次の日に、どんなワナをしかけたらよいかと相談を始めた。
第42章 痛烈な体制批判
アンナスは、口のたつ七人の代表を選んだ。そのうちの一人は弁護士であった。三人はもっぱら質問にまわり、四人は証人の役割をつとめた。彼らはイエスに言った。
「先生! 私たちの心は卑しくて、とても高まいなことを実践する力はありません。そこへいくと、先生はすべてことを見通すことの出来る偉大な預言者でいらっしゃいます」
イエスは何も言わず、彼らをじっと見据えていた。イエスの威厳に圧倒され、彼らは尻込みしながら言った。
「あなたは、真実なお方で、だれをもはばからず神の道を教えておられることを承知しております。つきましては税金をシーザーに納めるべきかどうか、是非お伺いしたいのですが」
イエスは答えて言った。
「偽善者よ! どうして私を試そうとするのか。あなたがもっているお金を見せてごらんなさい。彼らはそれをイエスに見せると、イエスは彼らに尋ねた」
「ここに刻まれている肖像は誰なのか?」
「シーザーの肖像です」
「では、シーザーのものはシーザーに、神のものは神へわたしたらどうですか」
彼らはひとことも返す言葉がなかった。イエスは税金や金などが要らない神の王国のことを語っていたというので、このようなワナをかけたのであるが、全く歯が立たなかった。しかもイエスの顔からは、霊の光が放ち始め、その神秘的な姿に圧倒されてしまった。
続いて若手のパリサイ人も思い切って質問を始めたのであるが、どんなことを聞いても、彼らが期待していた答えを得ることができなかった。彼らはなんとかしてシーザーや神に反逆する言葉を引き出そうと躍起になっていた。
イエスの実に賢い答えを熱心に聞いていた群衆はイエスに心から喝采をおくった。彼らは、ますますイエスを慕うようになっていった。
七人の代表はアンナスのところへ戻り、ありのままを報告して言った。
「この預言者には近寄らない方がよい、神が味方しているようだ」
アンナスは怒って言った。
「そんな馬鹿な! 我々を寓話でこきおろすような者に、どうして神が味方するのじゃ。神ご自身が選ばれたわしらに逆らいおって!」
彼らの一人が言った。
「群衆は彼をキリストと呼んでいます。今イエスを捕らえるのは決して得策ではありません。群衆に逆らっては混乱を大きくするばかりですからね」
この意見にはアンナスも賛成した。
「このナザレ人は、なかなかの悪知恵がはたらく奴じゃ。だがのう、奴に逆らう弟子を一人でもいいから買収するのじゃ」
さっそくこの案が採択され、実行に移された。イスカリオテのユダに標的がしぼられた。
ユダが一人歩きをしているところを捕まえて、アンナスの家に連れていった。ユダは丁寧に扱われた。長老たちはユダを見て、世俗的な臭いをかぎとっていたので、彼をおだてれば、きっとイエスに逆らうようになるだろうと判断した。
しかしユダは、そんな手に乗らず、イエスの意義をはっきり伝えようとした。イエスは常に平和を愛する人間であると言い切った。剣を取る者は剣に滅びるという原理に徹していると明言した。
アンナスはみんなを帰し、ユダと二人きりになったところで、ユダに話し始めた。いつまでも律法学者やパリサイ人に逆らうようなことは止めて、エルサレムから離れるように勧めた。
話を聞いているうちに、ユダも、イエスが今のようなことをして国を分裂させてしまうことは、よくないと考えるようになった。そこでユダは、アンナスの考えをイエスに伝えることを約束した。
他方、サドカイ派の人々(当時の金権派の議員)もイエスを相手に難問を吹っ掛けていた。
サドカイ人は、死後の復活を信じない俗人たちであった。イエスはユダヤ人の父と崇められていたアブラハムやイサクの神は、今でも生きておられることを論証したので、サドカイ人もたじたじとなり、パリサイ人と同じように大敗してしまった。
イスカリオテのユダはイエスのところへ来て言った。
「先生、お願いですから、もうパリサイ人や律法学者に逆らうことを止めてください」
「エルサレムに住んでいる多くの貧乏人が、飢えて苦しんでいるのです。パリサイ人のやり方をあなたもよく知っているはずです。彼らは背負いきれない苛酷な重税に食料不足がかさなって死んでいくのです」
「今だけでよいのです。先生が当局者のやり方を糾弾すれば、この国は真っ二つに割れてしまいます。先生ご自身もおっしゃっていたではありませんか。〔家の中で対立が起こると、その家は滅びる〕と。ローマさえ追い出すことができれば、パリサイ人や律法学者ガラリと態度が変わってしまいますよ」
「私に、しばらくの間、不正を大目に見て、黙っていろと言うのか?」
「彼らだって神から選ばれた聖職者ではありませんか」
イエスはユダを頭から怒鳴りつけた。
「人々が目の前で死んでいくのに、長たらしい祈りをして何になるというのか! ユダよ! おまえの魂胆は私にはみえみえなんだよ!」
ユダは、バラバと反乱のことだと勘違いをして言った。
「私は剣など持っておりません」
「おまえは、今までパリサイ人と話し合っていただろう? おまえにはまだ分からないのか! ワナが仕掛けられているんだ。賢い鳥撃ちは、間抜けな鳥をワナにかけて、つかまえてしまうのだ」
ユダには馬の耳に念仏であった。
ユダはそそくさとイエスの前を立ち去り、仲間(反乱分子)のところへ行った。
ユダと別れてから、イエスは悲しみながらケデロン川に沿ってゲッセマネの園にやってきた。彼は夜を徹して祈り続けた。弟子たちもイエスのそばに居て、彼を見守っていた。パリサイ人や律法学者に金で雇われた刺客がイエスを殺しにくるかもしれないという噂を耳にしていたからである。
その夜のエルサレムは、荒れ狂う海のように、恐怖に満ちた噂がとびかっていた。ピラトの率いる大軍がエルサレムに近づいていたからである。
翌朝もイエスは、神殿の中で大勢の民衆を前に教えを説いていた。その朝は、今まで見られなかったくらいの大勢の群集がひしめきあっていた。ユダは神殿の隅から、遥か向こうに立っているイエスを眺めながら、祈るような気持ちでイエスの第一声を待ち焦がれていた。
ユダが望んでいたのは、ユダヤの指導者たちに向けられた激しい糾弾を、ローマに対してやってほしいことであった。ひとことでもよいから、シーザーをこきおろしてくれさえすれば、反乱分子が勢いづくと考えていた。
いよいよイエスが大声で話し始めると、ざわめいていた群衆の声がぴたりと止まった。
『大預言者モーセの座に居座っているパリサイ人、律法学者は、ただ口先だけの人間である。いうだけで、何ひとつ行おうとしないやからである。彼らは自分たちでさえ背負いきれない重荷を民衆に負わせ、指一本でさえ軽くするために動かそうとはしないのだ。
その上、大きな聖句箱(註1)を広げ、豪華な衣装を身に着け、大きな飾り縁のついた衣装を見せびらかしているのだ。彼らはどこに行っても上座に座りたがり、おおげさな振る舞いをして、目立つことを好んでいる。彼らの態度は横柄で、鼻持ちならず、近寄る人々に頭を下げさせ、ラビ(先生)と言うように強制するのだ』
『人の上に立つ者は、人のしもべとならねばならないのだ。神ならぬ人間に対して絶対に主と呼んではならない。未亡人を食いものにしているパリサイ人、律法学者こそ呪われるべき人間である。彼らは地獄こそふさわしい所である。
彼らの心は石のように硬く、偽善に満ちており、民衆の目をふさいでしまう呪わるべき者である。彼らは、いつも重箱の隅ばかりをつついているのだ』
イエスの語調の烈しさに、弟子たちでさえ圧倒されてしまった。イエスはなおも続けた。
『パリサイ人、律法学者よ! おまえたちには、白く塗られた墓石のようだ。外側は立派に見えているが、内側はくさりきっており、死人の骨が一杯つまっているのだ』
イエスは、なおも指導者たちのあらゆる悪行を白日のもとにさらし、攻撃の手をゆるめなかった。群衆の一部の者は、イエスの烈しさを嫌い、神殿から立ち去っていった。しかし大半の群集は神殿に残っていた。その中には、偵察のため数人のパリサイ人や律法学者がまぎれこんでいた。それを察知したイエスは、彼らの方をにらみつけながら叫んだ。
『歴代の預言者たちを殺していたやからよ! なおも、この町で預言者を迫害しようとするのか!』
イエスはエルサレムの町のことを深く悲しんだ。神はこの町を暗い世界を照らし出す光としてお建てになったのに、パリサイ人や律法学者の悪行によって、すっかり駄目にしてしまった。この町は早晩崩れ去ってしまうであろう、とイエスは預言した。
槍のような鋭いイエスの言葉は、居合わせたパリサイ人の心に深く突き刺さり、彼らはただ黙っているだけであった。イエスの話が終わり、民衆が去ってから、パリサイ人たちは頭をたれたまま身動きしないで残っていた。彼らは、まるで最愛の友を亡くしたときに、遺骸の前でたたずんでいるかのようであった。
一番あとでイエスと弟子たちは、神殿を離れた。そのとき弟子の一人であったヤコブが、もう一度この美しい荘厳な神殿の中で神の真実について訴えるならば、きっと悔い改めるのではないかと言った。しかしイエスはきっぱりと答えて言った。
「よく聞いておくがよい! この神殿は必ず崩壊するであろう。しかも、粉々に崩れさってしまうだろう」
町の中は群衆の叫び声で騒然としていた。イエスと弟子たちは町から出ていき、真っ直ぐにオリーブ山へやってきた。そこからはエルサレムの町を一望のもとに見下ろすことができた。弟子たちはイエスを囲むように座った。ユダはイエスの足元に座り、一言一句漏らさず聞き取ってアンナスに報告するつもりであった。
弟子たちは、イエスが神殿で語ったことはいつ起こるのかと尋ねた。イエスは重苦しい口調で答えた。最初に戦争の噂が伝わり、国々は互いに争って多くの人々が死んでいく、それから疫病が流行し、地震と飢きんなどにみまわれることなどを預言した。
イエスの声は次第に穏やかになり、イエスの名において弟子たちがどんな働きをするかを話した。福音を全世界に伝える働きのことである。それには、苦しみ、迫害、あらゆる困難がともなうけれども、決して悲しむべきことではないと言明した。聖霊がつねに彼らを慰め、見守り、神の平和のうちに過ごせるように導いて下さることを説いた。
ペテロは喜びの声をあげ、イエスのためなら死ぬまで忠実に仕えると言い切った。イエスはペテロを叱り、彼は数日以内にイエスを裏切るだろうと言った。イエスはなおも未来にやってくる苦しみについて預言した。
『苦難の時代には、子をはらんでいる女や乳飲み子をかかえている女は大変である。二人の者が畑で働いていれば、そのうちの一人は取り去られ、他の一人は取り残されてしまう。神が苦難の時代を少しでもちぢめてくださらなければ、この世で救いにあずかれる者は一人もいないであろう』(マタイ伝・24・19)
イエスの言葉を聞いていた弟子たちは、余りの恐ろしさに震え上がってしまった。
『日は暗くなり、月はその光を失い、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。その後に人の子が神の栄光と霊力を以て現れるであろう』(マタイ伝・24・29)
最後にイエスは、弟子たちが味わわねばならない苦しみについて話した。この苦しみは、すべての弟子たちが、終生受けねばならないことを示唆した。しかしこの時は、この預言を誰一人理解する者はいなかった。イエスの復活直後に、エマオに向かって一緒に歩いていたクレヲパス(クレオパとも言う)にだけイエスが打ち明けたのである。(註2)
各々の時代には、本当にキリストに仕える神の子の数は、極めて少なくても、長い歴史の流れに沿って次第に増え続け、いつの日にか、浜の真砂のようになるであろうと、イエスはつけ加えた。
終生受けねばならない苦しみと言ったのは、なにもイエスと一緒にガリラヤで過ごした弟子たちばかりではなく、どの時代でも、キリストに仕える真の弟子にあてはまる言葉であった。
イエスがオリーブ山で弟子たちに話していた頃、ローマの総督ピラトが強力な軍隊をひきつれてエルサレムに到着した。彼らは最新式の武器を持っていて、あらゆる戦いに対応できるように訓練されていた。ローマ軍は即座に反乱分子が占拠したアントニアの砦とシロアムの塔に攻め入って、あっという間に反乱分子を滅ぼしてしまった。
捕虜になったユダヤの若者たちは、助けを求めたけれども、数人のリーダーと、バラバ、ヨナの二人を除いてみんな殺してしまった。大虐殺が行われたのである。城壁には、殺された若者の鮮血がとびちり、悲鳴が町中に響き渡った。
バラバとヨナが殺されなかった理由は、この二人を拷問にかけ、他に反乱分子がいるかどうかを吐かせるためであった。更にローマの支配によって保たれている平和をdき乱すようなことをすれば、このようにするとみせしめにするためであった。
※註1
ギリシャ語で〔フィラクテリ〕といって、聖書の言葉を書きいれた羊皮紙をいっぱい詰め込んだ小箱のことである。当時のユダヤ人は、祈る時にその札を、一つは額に、他の一つは腕につけていたという。一種のお守りである。
※註2
クレオパスは、ルカ伝(42・13)にただ一回だけ登場する人物であるが、非常に霊格が高かったらしく、イエスの死後、弟子たちが伝道した活動内容を本書の著者カミンズ女史に克明に知らせてきた。詳しい内容は『イエスの弟子達』(潮文社刊)を参照のこと。
第43章 ゲッセマネの園
数人のパリサイ人が大祭司カヤパのところへやってきて、イエスがやってのけた素晴らしい奇跡のことを報告した。
イエスは、死んでから四日もたったラザロという若い男の墓の前に立ち、イエスのひと声で死人が生き返り、あごのところまで巻かれていた布を付けたまま、墓の中から歩いて出てきたことを伝えた。
この奇跡の噂が伝わるや否や、イエスの名声と信頼はますます増大していった。
大祭司カヤパは早速長老たちを招集した。あるパリサイ人が発言した。
「このイエスと言う男は、他にも多くの奇跡を行っています。このまま彼を放置しておきますと、民衆は全部イエスについてしまうでしょう。そうなれば、ローマは我が国を全滅させてしまいます。ローマ人は、シーザーを神として拝んでいるからです。シーザー以外のものはご法度ですからね」
集まったパリサイ人は、みんなで大祭司に言った。
「神は死人を生き返らせた、あのナザレ人と共におられます!」
カヤバは答えて言った。
「一人の男が民衆のために死ねば、国は滅びることはないということを知らんのかね」
カヤバの言ったことが、全員の意にかなったので、彼らは早速、密使を送り、イエスを殺害することになった。刺客の一人がペテロに情報を漏らしたので、ペテロはイエスに伝え、とりあえずエルサレムから脱出し、近くの村に身を隠すことになった。そして、なるべく一ヶ所に長く留まらないようにした。
その頃一人の婦人がイエスのところへやって来て、家から持参した高価な油をイエスの頭にふりそそぎ、婦人の髪の毛でそれを拭っていた。この様子を見ていたユダは、すぐさま婦人をとがめ、やめさせようとした。
それは、日ごろから、イエスが貧乏人に重税を課しているパリサイ人たちを散々責めていたことを思い浮かべていたからである。ユダは言った。
「先生、この油を売ればかなりの大金になります。貧乏人のために使えるではありませんか!」
「貧乏な人々はいつでもあなた方の周囲にいるではないか。しかし、今の私はそうではない。このご婦人は、私のために葬りの支度をしてくれたのだ。彼女のしていることは、永久に記憶に残るであろう。福音が伝えられるところには、どこでも、このことが語られるであろう」
ユダは面目を失った。彼はその時からイエスが愛している弟子ヨハネをますます妬むようになった。このことが、最終の土壇場になって、師なるイエスを裏切る引き金になったのである。
ユダはついに弟子から離れていった。彼は事実上、反乱の首謀者であったので、同僚の顔をまともに見ることはできなかった。ユダはバラバが繋がれている牢獄の周りをうろついていた。それからアンナスの家に向かった、世故にたけた大司祭のことだから、きっと良い知恵でもかしてくれるのではないか期待して行った。
ユダはすぐにアンナスの前に通された。しかしアンナスは期待に反してとても不機嫌であった。
ユダがイエスに敵対してくれればという思惑がはずれたからである。何度聞いてもユダの返事は変わらなかった。イエスのことについては、流血を嫌う平和主義者と言い張った。ユダは日ごろから、反乱計画が成功した時には、イエスを王に向かえると話していた。
アンナスはしばらく黙ったまま部屋の中を歩き回っていた。それからおもむろにユダに向かって言った。
「わしはお前の秘密を知っておるぞ。お前が反乱計画を練っておったのであろう。分かっておるのじゃ。だがのう、若者が殺されちまったからには、どうしてそれがやれるというのかね。
わしには、もう一つしか方法が残っとらんように思えるのじゃ。すぐにイエスを探し出し、ローマ軍に引き渡すのじゃ。イエスはきっと反乱の責任を問われ、牢獄にぶち込まれ、総督ピラトに裁かれるだろうて」
ユダは言った。
「私は恩師を裏切るような真似はできません。そんなことをするぐらいなら、死んだ方がましです」
「心配することはない。イエスは決して死にやせん。それよりもイエスの信奉者たちが騒ぎだし、イエスを牢から出せとわめくだろうよ。民衆がイエスのことを神からつかわされた預言者だと信じている限り、彼は無事なのじゃ」
ユダは次第に興奮し、おそるおそる言った。
「私はイエスの刺客を手引きするようなことをしたくありません」
「とんでもない! 勘違いをせんでくれ! わしはあくまでもローマの兵隊を連れてって、イエスを投獄させようというのだ。約束してもよい。あくまでもユダヤ人の反感と怒りを誘うためなのじゃ」
「そんなら賛成です」
それでユダは、このような重大なことを進めるにあたって、銀三十枚を要求した。しかし、狡賢いアンナスは言った。
「どんな商人でも、欲しいものを手にするまでは、金を渡さないもんじゃ。おまえが、ちゃんとローマの兵隊にイエスを引き渡してくれさえすれば、いつでも銀三十枚をくれてやるわい」
そこでユダはアンナスの署名入りの契約書を受け取った。
ユダは、以前から親しくしていた役人のところへ行って相談を持ち掛けた。この役人バルークは、中々のしたたかものであった。ユダはアンナスの密約のことを話してから、何とか獄吏を買収して、反乱のリーダーを逃してもらえないかと頼んだ。バルークは言った。
「そりゃわけないよ。それだけの大金があれば、獄吏を口説いてみせるよ。絶対に大丈夫だ。イエスのことも任せてくれ。ローマの手から救い出してやるからな」
この役人バルークこそ、数日後に発生する悲惨な大事件を引き起こす引き金となった人物である。彼は熱心党の中でも最も腹黒い悪人であった。
ユダは再びバルークのところへやってきて言った。
「食事もろくに喉を通らず、夜は一睡もできないんだ。もう何が何だかわけがわからなくなってきた!」
「銀三十枚さえあれば、バラバを解放できるんだぜ」
「でも心配なんだよ。一歩誤ればイエスが殺されちゃうんだ。バラバの総決起も、イエスの救出も皆ダメになっちまうんだ」
「おまえは信じないのか? イエスは神の子じゃなかったのかい?」
「勿論そうだとも」
「考えてもご覧よ。神は天使の大軍団を送りこんで、必ずイエスを守ってくれるさ。シーザーの誇る軍隊でも全然歯が立つもんか」
このバルークの言葉を聞いてユダは安心し自分の計画に確信が持てるようになった。
イエスの弟子たちは、このような裏工作がユダによって進められていることを知らなかった。しかしパリサイ人の憎悪が増すにつれて、イエスの身辺に危機が迫っていることをみんな感じていた。彼ら一同は、互いに励まし合いながら言った。
「我らの先生を見捨ててはならない! 先生の為なら、生命を捨てようぢゃないか!」
ペテロはついに隠しておいた剣を持ってきた。もしどこからか刺客が飛び出して来たらこれでやっつけてしまうんだ、と意気込んでいた。キラリと光る刃は、ペテロの勇気をさそった。
その夜、夕食の席についていた時、イエスは弟子たちに言った。
「あなたがたのうち一人が私を裏切ろうとしている」
みんなは深い悲しみに包まれ、一人づつイエスに尋ねた。
「先生それは誰でしょうか?」
イエスは答えて言った。
「私と一緒に皿の中に指を浸している者がそうです。人の子は預言された通りに死んで行くのです。私を裏切る者は、生まれて来なければよかったのに」
ユダは十一人の顔をじっと見据えていた。彼の指は、なんと皿の中に浸され、反対側の手は、イエスの手を握っていたのである。ユダはゆっくりと手をひっこめてから言った。
「それは私でしょうか」
「そうです」
弟子たちは騒然となり、ユダを責めたてた。しかしイエスは皆を鎮め、全く別なことについて語り始めた。あまりの雄弁さに、暫くの間ユダのことを忘れていた。突然ユダは立ち上がり、外に飛び出して行った。
弟子たちは彼の後を追いかけようとしたが、イエスはそれを止めた。ペテロは剣を握り締めながら大声をあげたので、イエスはペテロに言った。
「ペテロよ! あなたは夜明け頃、鶏が三度鳴く前に、三回も私を知らないというでしょう」しかしペテロは、ただ剣を振り回して英雄気分になっていた。
あたりがすっかり暗くなってから、一同は歩き始めた。しばらくの間、一人の男が後ろからついてきたことを知らなかった。彼らは、ケデロン川のほとりまでやってきて、再び決意のほどを表明し合っていた。イエスにもしものことがあれば、自分たちも一緒に死のうではないかと誓い合っていた。
イエスは八人の弟子にたいして、ゲッセマネの園の入り口あたりで待機するように命じた。あとからついてきた男が、園の中に入ってきたので、イエスは声をかけた。
「さあ! 急いでおまえの仕事を始めるがよい」
その男はユダであった。ユダはさすがに恥じて、園からでようとはしなかった。
イエスは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて、ゲッセマネの園の中へ入って行った。
イエスは低い声で語った。
「私の魂はとっても苦しんでいます。ここで待っていてください。どうかわたしを見守って、祈っていてください」
その時ペテロの親戚に当たるマルコと言う若者が弟子たちのところへ偵察にやって来た。彼は小柄な男であった。彼は心からイエスを救世主と信じていた。それで一度でもよいからイエスと一緒に歩きながら話したいと望んでいた。イエスが危ないと知ると、彼は帯の中にナイフを隠し、麻布の上着を羽織って、家からかけつけてきた。
彼は園の木陰に隠れ、一晩じゅう眠らず監視を続けていた。彼は、後に著述家になって、この時の模様を詳しく書き残している。(訳者注-〔マルコの福音書〕と言う書名で、新約聖書に収録されている)
三人の弟子たちからすこし離れた木の下で、イエスは地上にひれ伏し、神に祈った。
『御父よ、あなたはおできにならないことは、一つもありません。どうかこの苦しい盃を取り除いてください。・・・しかし何よりも、あなたの御心が行われますようにお願いします』
イエスは立ち上がり、三人の弟子のところへ来てみると、彼らはぐっすりと眠っていた。イエスはペテロを起こして言った。
「おまえも寝ていたのか。ちょっとの間でも見張っておれなかったのか。霊は熟していても肉体は何と弱いのだろう」
イエスは再び木の下にもどって同じ言葉で祈り続けた。二度目に来てみると、三人とも眠っていた。彼らは、ユダが悔い改めて自分の計画を断念したのではないかと考えているうちに、心がゆるんでしまったのである。しかも深い悲しみと心労が重なってヘトヘトに疲れてしまったのである。
イエスは三度目に木の下にひざまずいていた。苦しみが絶頂に達した時、全身から血のような汗がしたたり落ちた。この様子を木陰から見ていたマルコは、もう我慢ができなくなり、イエスの方へ飛び出そうとした。しかし、イエスは急に立ち上がり、再び三人の弟子のところへ来て言った。
「もうゆっくり眠るがよい。時が来たようだ。ごらんなさい! 人の子が罪人の手によって裏切られるであろう! 私を裏切る者が、そこまで来ているのだ」
この言葉で眠っていた弟子たちはとびおきた。慌てたペテロは剣をにぎりしめ、イエスの横に立ち、護衛しようと意気ごんだ。
ユダは夕食後アンナスの家に行った。屋敷の庭には大勢の人が集まっていた。イエスを憎んでいるパリサイ人もいた。でも大部分の人々は、町のひとたちであった。アンナスの前に通されるや否やユダは抗議した。
「約束が違うじゃありませんか! どこにローマの兵隊がいるんですか?」
「おまえの計画をもう少し活かすために、もっと大量の人間を増やしたのじゃ。イエスを大司祭のところへ安全に送り届けるには、ローマ兵だけでは心もとないのじゃ。反乱と言うことを聞いただけで奴らは頭に血がのぼり、イエスをたたきのめしてしまうかも知れんのじゃ。
それにだ、この連中を使ってな、総督ピラトの面前でワイワイ大声を上げさせ、祭りの習慣に従って、バラバを釈放してもらうのじゃ(注)。そうなれば、奴は反乱分子を結集してイエスを救出できるのじゃ。大祭司カヤパも文句なくイエスの為にユダヤの王座を用意することになるだろうて」
このずる賢いアンナスの甘言にユダは満足した。それで彼は群れの先頭に立ち、ゲッセマネの園へと誘導していった。
(訳者註-国民的一大行事であった[過越祭(スキコシノマツリ)の時に、罪人の恩赦があった)
第44章 ユダの接吻
その夜は真っ暗であった。寒い北風が吹いていた。町には人影が全く見られなかった。民衆はローマの軍隊を恐れ、ユダヤの指導者をも恐れていた。アンナスの密使は、いたるところで人々の耳にささやいた。
「イエスは大悪人だ。しかも悪魔のまわし者で、三日以内にエルサレムの神殿をぶち壊してしまうそうだ」
とまことしやかに吹き込んでいた。イエスのことを慕っていた人々も次第に不安になり、自分たちもイエスの弟子だと思われやしないかと恐れた。
ユダを先頭に大きな群れが町から出ていった。彼らはケデロン川へ通じる道を通って行った。手にかざしているタイマツの炎が無気味に揺れ動き、園の入り口あたりを明るく照らしだしていた。
ユダが先頭に立って臆面もなくイエスに近づいていたとき、イエスは三人の弟子と話していた。暗闇の中で逮捕すべき人物(イエス)を間違いないように、あらかじめ手筈がととのえられていた。手筈とは、ユダが接吻することであった。イエスに接吻することは、弟子の中で最高の地位を占めることを意味していた。
イエスが愛していたヨハネ、ヤコブ、ペテロよりも上位にたてると思っていた。だからこそ三人の弟子が見ている目の前で、イエスに接吻できたときは、勝利の喜びにひたり、天にも登る心地であった。
あとになってからユダが告白したところによれば、あのときの接吻は、決して裏切りの行為ではなく、彼にとっては救いの行為であったという。神はたとえそれが一瞬であったとしても、ユダのために救いのひとときをとっておかれたのであろう。
接吻が終わってからイエスはユダに「友よ!」と言った。それから同行の者に言った。
「あなたがたは、泥棒でもつかまえるつもりで剣や棒をもってきたのですか? 私は毎日神殿の前に立って、隣人への愛と平和を説いていたではありませんか」
イエスの体から放たれている神秘の光に人々はたじろいだ。一人の男が棒でおどしながらイエスの肩に手を触れた。ペテロは怒ってその男を地上にねじ伏せ、持っていた剣を抜いて男の耳を切り落としてしまった。イエスはペテロに向かって言った。
「剣を鞘におさめなさい! 剣をとる者は剣で滅びると言ってきたではないか!」
ペテロの刃傷沙汰が起こっている間に、イエスは逮捕され、縄でしばられた。その様子を陰から見ていた若者マルコはイエスに近寄ろうとしたとき、一人の男が目ざとくマルコを捕え、二人はもみ合っていた。マルコは着ていた麻布の上着をはぎとられ、素っ裸のまま暗闇の中へ消えていった。
普段は勇気あるマルコであったが、そのときだけは恐怖におそわれ山々を歩き回った。彼はイエスを助けることができなかったことを悔やみ、泣き伏してしまった。彼も十一人の弟子たちと同じようにイエスを見捨ててしまったのである。
逮捕されたイエスの一行の遥かうしろの方からペテロはついて行った。一行が大司祭の官邸にはいるとき、どさくさにまぎれてペテロも官邸に潜入した。大祭司の下僕が火をおこしながら話し合っているのが聞こえてきた。
彼らはイエスのことについてささやいていた。イエスは大罪人であり、不敬罪にとわれ、拷問にかけられたあとで死刑になるのではないかと話し合っていた。時間がたつにつれて、そこにじっと座っているのが怖くなってきた。疲れ切った肉体と極度の恐怖心は、ペテロの体からねこそぎ力を奪っていた。
彼は近くにいる者に呼び止められ、イエスの弟子ではないかと疑われると、そうではないと三度も否定した。彼もまた、マルコと同じように、離れた場所に行って、男泣きに泣いた。
第45章 大司祭カヤパの裁判
イエスが逮捕された夜、パリサイ人は緊急会議を招集し大祭司の官邸に集まった。大祭司カヤパがまず口火をきった。
「我々は、このナザレ人を正しく取り調べなくてはならない。無実なものを罰するわけにはいかないのである」
たてまえはじつに立派であった。長老たちはみんな大祭司のことを誉めたたえた。
イエスが真ん中に立たされると、縄がとかれた。それでイエスはやっと真っすぐに立てるようになった。長老たちは豪華な衣服を身に着け、仰々しい太い帯をしめていた。イエスが立ち上がると、彼の魅力に圧倒された。大祭司は、ごく低姿勢にイエスの吟味を始めた。イエスは堂々と答えて言った。
「私は、毎日神殿で丁寧に教えてきました。そのときは誰も私を捕えませんでした。どうして同じことを何度も聞くのですか?」
そのとき一人の獄吏(ゴクリ)がイエスの顔をたたいて言った。
「大祭司にちゃんと答えられないのか、なんだ、その態度は!」
カヤパは手荒な行為をたしなめ、証人を喚問した。イエスに恨みを抱いているパリサイ人で、金で買収された証人が立ち、うその証言を並べたてた。
これらの証言によれば、イエスは若者たちを煽動して武器を与え、シーザーに逆らうために、アントニア砦とシロアムの塔を占拠させ、自らをユダヤの王と称えているとのことであった。更にイエスは、革命の指導者として、殺人や虐殺を容認している冷酷な人間であるとのことであった。
一人の正直なパリサイ人で、ヨセフという者が発言した。
「獄中ですべてを告白したバラバの言葉によれば、反乱の真犯人は、バラバとヨナの二人であるとのことです。イエスは平和を愛する者であるとも証言しています。私もその証言は本当であると思います。
仲間のパリサイ人たちが、先日イエスに直接会って質問したことがあります。そのときイエスは〔シーザーのものはシーザーに、神のものは神にかえしなさい〕ときっぱり答えているのです。どちらかといえば、イエスは我々パリサイ人の言動について批判をしているのであって、なんら死にあたるようなことは言っておりません!」
この発言を聞いていた他の議員たちは、顔をしかめながら、ぶつぶつ言っていた。大祭司カヤパは、手を挙げて静かにするように制した。偽りの証言は、次第につじつまがあわなくなり、カヤパをいらだたせた。イエスは冷静に構えていた。
いよいよカヤパの義父にあたるアンナスの出番がやってきた。彼はうその証言が出つくしたところで、用意しておいた二人の証人を手招きして、大祭司の前に立たせた。
一人の証人は、イエスが神殿の門前で商人たちを蹴散らしたときの模様について語った。その証言によれば、イエスは門前で乱暴を働いた直後、若者たちをそそのかして二つの要塞を占拠させ、表面では平和愛好家のようなことを言ってしばらくれている、何と言っても許せないのは、「この神殿を滅ぼしても、三日以内に再建して見せる」と豪語している、とのことであった。
二人目の証人は、ごく手短にイエスが語ったことについて紹介するだけであった。このことについて大祭司が責めたてても、イエスはひとことも答えなかった。室内の空気は騒然となり、怒りの声が渦巻いていた。次第にひそひそ話がかわされるようになり、いつしか、イエスを死刑に処する要求へと変わっていった。
アンナスはカヤパと何やらひそひそ話をしていたが、急に大祭司カヤパは立ち上がり、イエスをにらみつけながら叫んだ。
「生ける神の御名においてわしに答えてみよ! おまえは、神の子、キリストなのか?」
「そのとおりです。人の子は神の右に座し、天の雲にのってやってくるのを見るでしょう」
イエスのこの言葉にみんなは絶句した。大祭司は自分の着ていた衣を裂きながら叫んだ。
「こやつは神を冒pしおった! これ以上何の証言も要らんわい! どうだみんな聞いたか?」
一同は立ち上がり、口々に彼をののしって叫んだ。
「奴は死刑だ!」
ずる賢いアンナスはカヤパの耳元でささやいた。カヤパは立ち上がり、厳粛な法律の定めについて説明した。それは国の最大の祭り、過越祭のときに人を殺してはいけないことになっていると言った。カヤパの言うとおり大きな祭りが目の前に迫っていた。
一人のパリサイ人が野獣のようにイエスに襲い掛かり、イエスを殴りつけ、顔につばきをかけた。こぶしで体を叩きながら叫んだ。
「おい! イエス! おまえが預言者なら、おれが何という名かあててみろ!」
イエスは相手のなすがままにしていた。大多数の者は、毅然としているイエスの気高さに圧倒されてシーンと静まった。イエスの顔から血が床下にしたたっていた。カヤパは不作法な長老の仕草に顔をしかめていた。カヤパは再びイエスを縄にして議場から出した。
イエスは『我が父、我が神よ』と祈っていた。朝方になって、一人の護衛がつぶやいて言った。
「この方の寝顔は、とても冒p者には見えない。汚れのない方だ」
第46章 総督ピラトの対応
アリタマヤのヨセフという金持ちがいた。彼もユダヤの議員の一人で、ひそかにイエスの弟子となっていた。彼は、緊急会議で再三にわたり、イエスの弁護をした。議会が閉会になってから、彼はその足で総督ピラトのところへかけつけた。ピラトは彼の親しい友人であった。ときはすでに夜が明けていて、ピラトは目覚めていた。
ピラトはユダヤ人の不穏な動きに頭を悩ませていた。そこへヨセフがやってきたので、渡りに舟と部屋に案内した。もしかしたらヨセフから解決の糸口を引き出せるかもしれないと考えた。
ヨセフはうちとけて何もかも話した。これはパリサイ人と祭司たちの策謀によるものであることを説明した。それはイエスが彼らの偽善にみちた悪業ぶりを直言したからであると言った。
更にヨセフは、イエスが民衆に語りかけた新天地に関する説教のことを説明した。金も税金も要らない王国、即ち神の愛によって運営される王国をつくる話のことである。ピラトは笑いながら言った。
「詩人の夢だね。それは、この世では不可能だよ」
ピラトは溜め息をつきながら言った。
「この世で大事なことは、厳正な正義が実際に行われることだ。ローマはそれに重点をおいているのだ。詩人がその役目に手をつければ、たちどころにその国は崩れてしまうだろうよ。でも、わしはその預言者に少なからず興味をもってるのだ。ローマの裁判は、夢を描く人物を守り保護する義務を持っている。
我々のやり方は、偽善や利己主義によって真実を曲げるようなことはしないからね」
ピラトの言葉によってヨセフは勇気づけられた。ヨセフは、同胞の権力者が真実を曲げているだけではなく、大ぴらにふみつぶしていることを深く悲しんでいたからである。
イエスが眠っている間に、パリサイ人と律法学者は協議を重ね、相談がまとまった。
彼らは総督ピラトにイエスを渡し、十字架にかけさせようという内容であった。そこで大勢の人間がピラトの所におしかけ、カヤパの前で言った嘘の証言を何度も繰り返して訴えた。
「総督ピラト閣下! このままに放置されますすと、奴は国中を堕落させてしまいます。シーザーへの税金も払うなと言ってます。イエスは反乱の張本人なのです。奴は自らメシヤと称し、王であると豪語しているのです」
総督はイエスに尋ねた。
「あなたはユダヤの王ですか?」
「おっしゃるとおりです。でも私の王国は、この世のものではありません。霊界にある王国なのです」
「霊界に在る王国とは、詩人の夢よりもすばらしいものでしょうね」
ピラトは、ひどく疲れていたけれども、イエスに好感を持つようになった。イエスの方が、体制の賢者よりもずっと頼もしく感じられた。
長老たちはじっとピラトの返答を待っていた。ピラトは彼らに言った。
「この人には何の過ちもないではないか!」
彼らはますます興奮して絶叫した。
「奴はみんなを引っdきまわしているんです。ガリラヤで引っ掻きまわし、ユダヤ中を攪乱しているんです。奴は至るところでシーザーの権威をふみつぶしているんですよ!」
ピラトは顔をしかめながら尋ねた。
「この人はガリラヤ出身なのか?」
そうです。ナザレ人です。
ピラトは思わぬ言葉を耳にしてギクリとした。皇帝シーザーのことに触れたからである。それで彼は早速、法的管理の責任者であるガリラヤの王ヘデロのもとに送り込むように命じた。ヘデロはとても喜んだ。
ヘデロは、かねてからイエスに会いたいと思っていたからである。イエスの名は、ガリラヤでも奇跡と名演説家として知れ渡っていた。しかし、どんなことを質問してもイエスは何ひとつ答えようとしなかった。
大祭司や律法学者たちは、イエスが自らをユダヤの王と称していることで、いきりたっていた。彼らの権威が踏みにじられたという訳である。しかしヘロデ王は、ピラトと同じようにイエスの霊的側面にひかれていた。ヘロデ王は、ピラトよりもイエスのことに関しては多くを知っていた。
イエスがどんなに素晴らしい奇跡を起こしたか、真理についていかに多くのことを語ったかを知っていた。それでヘロデ王は、何とかイエスの命を救おうとして、わざとイエスのことを気狂い扱いにし、十字架刑に処する値打もないと言い張った。そこでヘロデ王は、イエスに紫色の衣を着せ(王の制服)、神の子イエスに深々と会釈をして、偽りの敬意を払うように命じた。
ヘロデ王は、ひそかにピラトのもとへ使者をつかわし、このナザレ人は祭司たちの妬みをかって、不当な扱いを受けていると伝えた。この二人はすっかり仲良くなり、なんとかイエスを救ってやりたいと願っていた。一方は預言者と称し、他方は夢見る詩人と称しながら。
第47章 ユダの遺書
イエスが逮捕された直後に、ユダは大祭司の会計係から約束の銀三十枚を受け取った。これで夢が実現するものと狂喜したユダは、早速バラバを解放するために獄吏のところへ走った。獄吏はすでに町へでかけていなかった。町へ行ってみると、とんでもない噂が流れていた。彼らの一人がユダに耳打ちした。
「もう金なんか要らないよ。祭司たちが直接バラバの解放をピラトに願い出ているそうだ。こないだまでは、バラバは英雄だともてはやしていたんだが、ある筋の話によると、ローマの兵隊がバラバの手足をもぎ取ってダルマにしちまったそうじゃないか! そんな役立たずをピラトがくれたって何にもなりゃしねぇぜ! ひでえもんだよ! 今じゃ、みんなぶるっちゃってね、イエスどころじゃないんだよ。
それにさ、パリサイ人が金をばらまきやがって、イエスの悪口を言わせるんだから、たまったもんじゃねぇよ。
あんなキリストなんかいるもんかって言ってるぜ! イエスがつかまったときなんか、奇跡のきの字も起こらず、天使にまで見放されてしまったんだから、しょうがねえさね」
ユダは気狂いになってエルサレムじゅうを歩き回り、あらゆる情報を集めた。
ついにユダはバルークのところへ行った。彼は大祭司の下僕と一緒に待ち受けていた。バルークは悲しげにバラバの不首尾を嘆いてみせた。ユダはもどかしそうに尋ねた。
「うちの先生はどうなったんですか?」
「大祭司カヤパが彼を死刑にするためにピラトのところへ送り込んだのだ。平和を強調していた奴のことは、もういいかげんに忘れたらどうなんだね」
これを聞いたユダは、頭に血がのぼり、わめきだした。バルークが彼に言った。
「イエスって奴は、ずいぶん臆病なんだってね。ペテロが剣を抜いて戦おうとしたのに、それを止めさせたそうだ」
ユダはうなるように言った。
「だけど、彼は神の子じゃないか! なんだって神の天使すら現れなかったんだ! どうして神の子が見捨てられちまったんだよ?」
「奴は、ただの人の子だったのさ」
「ただの人だって!」
ユダは、大声をはりあげながらバルークのもとから飛び出していった。そのときから、ユダはイエスがキリストであることを信じなくなった。
ユダはわめきちらした。
「おお! なんてこった! そういえばイエスが言ってたっけ、〔この者は生れてこなければよかったのに〕と」
ユダはその足でアンナスの家へ急いだ。アンナスは数人のパリサイ人と楽しそうに話をしていた。民衆がどうやらイエスの死を望んでいることを耳にしていたからである。ユダは彼らの間に割り込むようにしてアンナスの前に立った。頭を下げず、怒りをこめて銀三十枚をアンナスの足元へたたきつけた。
「私は汚れ無き人を裏切ってしまった。おまえはその代償を返せ!」
アンナスは言った。
「わしたちには何の関係もないこった!」
アンナスは下僕に命じて、ユダをその場からほうり出してしまった。ユダは大声で祭司たちを呪い続けた。ユダはバルークのところへ行き、一通の手紙を手渡してから、どこかへ消えていった。その中には次のように書いてあった。
<僕は、師イエスを心から愛していた。他のどの弟子よりも深く愛していた。ペテロやヨハネよりも愛していた。僕の命をイエスに捧げよう。イエスのいないこの町は僕にとって砂漠と同じだ。彼がただの人であっても、僕は愛している>
彼の遺書であった。
その夜、群衆がバラバの救済とイエスの死を求めて叫んでる頃、イスカリオテのユダは、エルサレムから離れ、寂しい所で首を吊り、自殺した。
バルークが彼の死体を見つけ、銀三十枚で陶工の土地を買い、埋葬した。
銀三十枚は、まさに彼の血の値となった。
第48章 ピラトの妻の夢
ヘロデ王は再びイエスをピラトに送り返した。ピラトは部下に茨の冠を作らせ、イエスの頭にかぶせた。祭司たちが見ている目の前で、ローマの兵隊はかわるがわる頭を下げ、
『ユダヤの王イエス』と叫びながら手にしている棕梠の葉でイエスの顔を叩いた。
ピラトは言った。
「もうこれで充分であろう。わしもヘロデ王も、この人には何の過ちも見いだせない。従って祭りの習慣に従ってイエスを釈放する」
祭司たちは譲らず、バラバの釈放を強く迫った。法廷の外にむらがっていた群衆も、口々にバラバの釈放を叫び続けていた。ピラトは段の上に立って尋ねた。
「イエスはいったい何をしたというのか?」
群衆はただ、
「十字架にかけろ!」
とわめくだけであった。彼らは又次のようにも言った。
「この責任は我々と子孫が負うのだ! このナザレ人を十字架にかけろ!」
ピラトが法廷にいる頃、ピラトの妻が使いの者をよこして彼に伝えた。
「このイエスという方にはかかわらないでください。昨夜はこの方のことでひと晩じゅう夢でうなされましたので」
ピラトが妻の真意をただすために席を離れようとした時、アンナスと二人のユダヤ人がピラトに言った。
「我々の法律によれば、彼は死なねばならないのです。彼は自分のことを神の子と言ったからです」
まわりが余りにも騒々しいので、ピラトは再び法廷に戻りイエスに質問した。
「あなたはどこから来たのですか?」
イエスは何も答えなかった。彼の態度にいら立ったピラトはきびしい口調でイエスに言った。
「生かすも殺すも私の権限にかかっているのですぞ!」
イエスは言った。
「天から与えられた指示がなければ、私を左右することはできません。私をあなたの手に渡した者は大きな過ちを犯しているのです」
ピラトの頭は混乱した。彼は真っ直ぐ妻のところへ行った。
ピラトの妻は、大変賢い中年夫人で、愛する子供たちに最善の知恵を授けたいと願っていた。アリマタヤのヨセフは彼女のよき友で、彼からイエスについて多くのことを聞いていた。イエスには、まだ一度も会ったことはなくても、イエスのことを信頼し、彼女の信仰のよき糧となっていた。そこで夢の中で示されたことを夫に語った。
『私は多くの国を訪ね、多くの人々が苦しみ、飢え、拷問にかけられている様子をみておりました。彼らが受けた苦しみを自分のことのように感じ、もう耐えられなくなりました。彼らが死んだあとに、彼らの子供たちが大きくなり、親と同じような目に遭って死んでいくのです。
私はもう耐えられなくなり、慈悲を与えて下さいと絶叫したのです。すると、一人の若者が現れ、修羅場にいた私のそばに立ったのです。私はその方に聞きました。どうしてこの人たちは、何代も何代も苦しめられるのですかと。すると彼は次のように答えたのです』
「彼らは、イエス・キリストの名において苦しめられているのです」
私は言いました。
「でも彼は愛の人ではありませんか?」
「そうです。でも彼らの先祖がイエスを殺した罰を受けているのです」
「子供には罪はないのではありませんか?」
「権力者の心が、代々伝わり、人間の心をむしばむのです。彼らは迫害を喜び、弁解を好みます。この心を引き継いだ無数の男女や子孫が苦しむのです。かつては神の子を十字架の上で殺したというかどで」
「この流れを変えることはできないのでしょうか?」
「それは絶対にできません。人間の心に悪が巣くっている限りはね」』
ピラトの妻は彼の手を取って、二人の子供が遊んでいる庭の方へ連れていった。ピラトはこの光景を眺め、なおも妻が語ることに耳を傾けていた。
「もしもあなたがイエスを糾弾し、十字架にかけるようなことをなさったら、この呪いは、私たちの子供にまでふりかかってくるのよ」
ピラトは言った。
「それよりももっと弱ることがあるんだよ。私がこのナザレ人を生かしておくと、シーザーのおとがめを受けることになるんだ。彼は自分のことをユダヤ人の王であると言って、ローマ皇帝の上位に立つことをほのめかしているんだ。アンナスも、そんなことをすれば、おまえはシーザーの部下じゃない、などとおどすんだよ」
妻は、夫の前にひれ伏し、どうかこの方を責めないように、と涙ながら訴えた。ピラトは、それには何も答えないでそこを立ち去った。
再び法廷の席に戻ってから、彼は水と洗面器を用意させた。
法廷の内も外も「殺せ! 殺せ!」、「イエスを十字架にかけろ!」という怒号が飛び交って騒然としていた。総督が立ち上がり、両手をあげると、場内は静かになった。彼は水で手を洗いながら言った。
「私は、この正しい人、イエスの血に関しては潔白である。私はこの人に何の罪も見いだせない。従って死刑の宣告は下さないことにする」
ピラトの指示に従い、兵隊たちはイエスに鞭をあて、葦の棒で叩いた。ピラトは、この程度ではイエスの命は助からないと直感していた。妻が信奉している預言者を何とか助けてやれないものかと全力を尽くしたのであるが、すでに場外では暴動が起こっていることを知り、ピラトはついにイエスをユダヤ人の手に渡すように命令した。
このようにピラトは死刑の宣告を下さなかったことにより、彼の子供たちが呪われずにすんだのである。呪いは結局ユダヤ人の上に及んだのである。妻は悪によって善が滅ぼされようとしていることを嘆いた。
第49章 奇跡は起こらなかった
イエスが十字架を背負って歩いていると、数人の信奉者と女たちがイエスのそばに近づいていた。イエスが倒れそうになっていることを察知して、シモンという名の男が十字架をかついだ。近づこうとした女たちは、役人の手で押し止められてしまった。イエスの親族であることがばれてしまったからである。
そんなことではびくともしないマリヤ・クローパスであったが、彼女は今にきっと奇跡が起こると信じていた。同行の母マリヤも、弟子のヨハネも、そのうちに天使が助けにやってくるとささやいていた。
そうすれば、イエスは十字架から降りてきて、みんなの前で神の栄光を現わすであろうと信じていた。彼らは、イエスの声が聞こえるくらいのところを歩いていたので、イエスの悲痛な嘆きを聞くことができた。
「私のために嘆くんじゃない、それよりも、これから大きな災害が降りかかろうとしているエルサレムのために嘆きなさい!」
イエスが死刑執行人の手によって十字架にかけられると、真っ先に愛する弟子ヨハネを呼び、自分の母の面倒を依頼した。女たちは十字架のそばに近寄ると、そこにはイエスの血と汗がしたたり落ちているのを目撃した。
陽の光は消えうせ、あたりが暗くなってきても、奇跡は起こらなかった。おしかけてきた祭司や律法学者のあざける声だけが響いていた。彼らはイエスに向かって言った。
「おまえが神の子なら、今すぐこの十字架から降りてみろ! 他人を救っても自分を救えないとはね!」
また他の者のがやってきてののしった。
「あの罪状を見てみろよ!〔ユダヤの王、イエス〕なんてぬかしやがる」
彼らは口々にピラトのことをののしった。ピラトは、イエスのような人間を殺そうとしたユダヤ人を軽蔑していたので、わざわざ、このような罪状を十字架の上部にはりつけさせたのである。
イエスはついに静けさを破るように大声で叫んだ。
『父よ! 汝らを許して下さい。訳もわからないで、こんなことをしてるのですから』
二人の盗賊も同じように十字架にかけられていた。一人の盗賊は、イエスにつけられた〔神の子〕という称号をあざけ笑った。他の盗賊はそれをたしなめてから、イエスに向かって懇願した。こんな寂しい夜に死んでいく自分を救って下さいと。イエスは彼に言った。
『今日あなたは私と一緒にパラダイスに行くでしょう』
暗闇が一層こくなってきた。夕暮れが近づいていた。十字架のまわりに集まっていた群衆は、異様な暗黒に恐怖を感じ、災害が下りるのではないかと恐れ、我さきにと散って行った。そこにはローマの兵隊だけが居残っていた。イエスを愛する女たちが十字架に近づいた。今こそ奇跡が起こって欲しいと祈り続けた。
兵隊はランプに火を灯しあたりを明るくした。兵隊たちは、イエスの着ている衣を分けるためにくじをひいていた。あたりはシーンと静まり、ときどき十字架上から盗賊の唸り声が、聞こえていた。
女たちは、なおも天使がきてくれることを祈り続けていたが、何の変化も起こらなかった。イエスは依然として、苦しみ悶えながら十字架に吊るされていた。
ついに暗闇が去って青白い光があたりをおおい始めた。イエスは突然叫んだ。
『天の御父よ! どうして私をお見捨てになったのですか?』
マリヤ・クローパスは地上に身を伏せ、とめどもなく涙を流しながら泣いていた。彼女にはもう天使が来ないこと、そして死んだラザロが生き返ったような奇跡は起こらないことがわかったのである。
イエスはもう帰らぬ人となり、敵を粉砕するために戻っては来なかった。十字架から少し離れたところにたたずんでいる女たちの耳に、さっきの叫び声が聞こえた。彼らはイエスの魂が安らかに去れるように祈った。
隊長の命令で、一人の兵隊が葦の棒の先に酢をつけて、イエスの口にふくませた。それを口の中にふくんでからイエスは言った。
『すべては終わりました。私の霊を御手にゆだねます』
突然大きな地震が起こった。ローマの兵隊は恐れを感じながら十字架を見上げつぶやいた。
「本当にこの方は神の子であった!」
マダダラのマリヤは、他の女に対してもう死者のために祈ることは止めようと言った。イエスは死んでいるのではなく、眠っているからだと言った。彼女たちは、そんなことは信じられないと言って、嘆き悲しんだ。
彼女たちはアリマタヤのヨセフが自分のために用意してあった墓をイエスのために提供し、遺体を引き取ることについて、ピラトの許しを得ていた。墓の入り口に大きな石が封印されてから、女たちは家に帰った。二人の女だけが夜を徹してイエスのために祈っていた。一人はマリヤ・クローパスで、もう一人はマグダラのマリヤであった。
しかしイエスに復活の栄光に輝く日がやってくることを信じていたのは、マグダラのマリヤだけであった。彼女はまえには売春婦であったが、イエスによって救われた女であった。
一週の初めの日(日曜日)の朝、まだ暗いうちに、マリヤ・クローパスは、イエスの遺骸に油を塗るために、香料と一緒に墓へ向かった。マグダラのマリヤも同行した。その朝は、まさに聖なる夜明けであった。十字架にかけられてから三日目の朝、全人類を清め、祝福する最初の光がさしこんできた。
二人の女は、パリサイ人たちの手で墓の入り口にしっかりと封印された大きな石が、わきに転がっているのを見て驚いた。昨夜から徹夜で墓の番をしていた護衛は、地上でぐっすり眠っていた。それで二人の女は、難なく墓の中に入ることが出来た。
薄暗い墓の中に、白衣を着た一人の男がいる気配を感じたのであるが、間もなく消えうせてしまった。そこに天使が現れて彼らに言った。
『どうして生きている方を死人の中に見いだそうとしているのですか? ナザレのイエスはよみがえったのです。ここにはおりません。中をよく見てごらんなさい』
天使は女たちに、この良い知らせを弟子たちに伝えてあげなさいと言った。女たちはイエスに会えると思っただけで、恐怖心が喜びに変わっていった。
墓から出たとたん、彼らの頭に不安が走った。マリヤはつぶやいた。
「ひっとすると、死体が盗まれたんじゃないかしら。ぐずぐずしちゃいられないわね」
しかし、マグダラのマリヤは違っていた。もしかしたら霊園の広い庭でイエスに会えるかもしれないと思った。彼女は一人で庭の中に入り、一人の白髪の老人が木々の間を歩いているのが見えた。彼女は失望のあまり、そこにたたずんで泣いていた。しかし、なおもそこでイエスに会えるという希望を捨てなかった。
ついに報いられる瞬間がやってきた。その白髪の老人こそ、復活したイエスであった。
『マリヤよ! 私だ。でも今は近寄らないでください。天の御父のもとに昇っていないので』
彼女は庭の出口でマリヤ・クローパスと合流し、弟子たちのところへ知らせに行った。弟子たちは彼女たちのいうことを信じようとしなかった。ペテロだけが恐怖心を吹き飛ばし、墓へ行き、イエスの体がないことを確認した。ガリラヤからやってきた信奉者たちも墓へ行ってみると、輝くような衣を着た二人の男(天使)が、一人は頭の部分に、他は足の部分に立っていた。もちろん体はどこにも見当たらなかった。
女たちはイエスがよみがえったことを証言しても、十一人の弟子たちは信じようとしなかった。殊にマグダラが墓の庭園でイエスと話し合ったことを信じなかった。彼らは、まだ聖霊によって信仰が与えられていなかったからである。
イエスはクレオパスという弟子と、もう一人の弟子と一緒に、エルサレムを離れ、エマオという田舎に向かって歩いていた。この二人の弟子は、一緒に歩いている老人がイエスであることを知らなかった。
この老人の語る知恵の豊かなこと、ただただ驚くばかりであった。しばらくすると、一軒の宿屋にさしかかったので、二人の弟子はここで一緒に食事をしたいとさそった。彼らは昨日から何も食べていなかった。彼らが食事の席につき、この老人の穏やかな話を聞いていると、落ち込んでいた二人の心が慰められるのであった。
ユダヤの習慣に従って、食前の祈りをこの老人にしてもらうことになった。老人がパンを取りあげて、神の祝福を求める祈りをささげ、パンを二つにさいたとき、二人の目が開け、この老人がイエスであることを知った。すべての仕草や祈りの声で、彼らは同時にイエスであることを察知した。その瞬間、彼らの目からイエスの姿は消えていた。
このようにして、復活したイエスは、さまざまな形で弟子たちの前に姿を現した。クレオパスに姿を現した翌日、イエスはついに十人の弟子がそろって夕食をしてるときに現れた。
イエスは彼らの不信と頑固な心を責めた。それで十人の弟子は、始めてイエスが復活したことを信じ、イエスに心からあやまった。それでイエスは彼らの不信を許してから言った。
「聖霊を受けなさい!」
イエスは更に彼らに対して、この「良き知らせ」を文字に記し、全世界の人々に伝えるようにと言った。それからイエスは姿を消した。
このときに居なかった弟子トマスだけはイエスが復活したことを頑強に受け入れなかった。
「あなたがたは単にイエスの幽霊を見ただけで、本当に復活したんじゃありませんよ」
別名デドモといわれていたトマスが、このことを口にしたときに、イエスは弟子のど真ん中に姿を現した。そしてトマスの腕を取り、十字架にくくりつけられた時の釘の跡(手と足)に彼の指を入れさせ、胸を突き刺した槍の跡に手を入れさせた。それから又イエスは、魚を食べ蜜をなめながら言った。
「幽霊には肉や骨はないが、おまえの見ている私はどうなのか?」
さすがのトマスも返す言葉がなかった。トマスはゆかの上にくずれおち、イエスの足元にひれ伏し、大声で泣きながら許しを求めた。トマスは、ついに自ら掘った墓穴からはい出すことができたのである。もちろん彼は許された。
イエスは到るところで、多くの人の前に姿を現した。姿を現すたびごとに、イエスの容姿から天使の放つような光を増していった。
多くの信奉者たちは、もう一度イエスに会いたいと願っていた。そこでペテロは、町から離れた寂しい所に連れていった。約五百人程であった。ヤコブはみんなに静かにして待つように促した。そこへイエスが現れた。彼は両手を挙げて彼らを祝福した。イエスはこの人々から、必ずユダヤ、サマリヤ地方だけでなく、地の果てまで私の証人として出かけて行く人がいると語った。
更に人間の肉体は、死ねばチリになるが、自分の復活のときと同じように、霊は生きるのであると強調した。
イエスは十一人の弟子をそばに呼び、大切なことを伝えてから、両手を高く挙げ、最後の祝福を与えた。雲が彼の姿をつつみこみ、視野から消えて行った。
二人の天使が現れ、イエスが天の御父のところに挙げられたことを伝えた。弟子たちはイエスが約束した平和な心が与えられるのを待っていた。
第50章 復活という現象
後になって確認されたことであるが、イエスの体は次元の高い物質に変化したため、肉眼には感じられない存在となり、墓より消えて他の場所に現れたのである。
死刑執行人の兵隊が、槍でイエスの胸を突き刺したときに、『銀の糸』〈シルバーコード〉(肉体と霊体を結んでいる紐)が切れてしまったけれども、神の霊力と天使の助けによって、イエスの肉体は依然として霊の支配下に置かれていたので、死後四十日も腐敗せず、新鮮に保たれていたのである。
霊的修行に精通した隠者の証言によれば、その時のイエスの体は、顕幽両界(二つの世界)にまたがって生きていたそうである。従って、復活してから四十日のあいだ、イエスは超常的な速さでどこにでも出現することができた。
勿論、弟子たちの前に現れるときには、鈍重な地上の速さに戻さねばならなかった。更に、上層界の速さにきりかえたときには、クレオパスと歩き、パンをさいて祝福の祈りをしたイエスの姿は、人間の視野から消えてしまうのである。
たった一度だけ、イエスは復活ができないようなことを言ったことがある。それは、十字架にかけられる直前に、ゲッセマネの園で語った言葉である。
『天の御父よ、どうして私をお見捨てになったのですか?』
クレオパスにしても、マグダラのマリヤにしても、復活直後のイエスと出会っていながら、最初はまったく識別できなかったのである。それは十字架に吊るされたときの大きな苦しみと、銀の糸の切断という大変な経験が、彼の顔付をすっかり老け込ませてしまったのである。
このような偉業を成し遂げたイエスであったからこそ、『生と死の主』及び『父の独り子なる神の子』などと言われるようになったのである。その偉業とは、死も彼を滅ぼすことができなかったということである。