第21章 一羽の雀でさえも
アサフはイエスの邪魔にならないように気を配り、イエスよりも二〇歩くらい離れて歩くようにしていた。

イエスは時々入神することがあるので、口のきけないアサフではあったが離れて歩いていた。二人がある村にやってきたとき、イエスはそこでパン、塩、肉、ワイン、ランプ、油などを買い込んだ。それを見てアサフはびっくりした。

アサフは荷の軽いほうを、イエスは重いほうを背負った。夕方になってヘルモン山は霧にすっぽり包まれてしまった。その夜は北風が吹いて、肌を刺すような寒気におそわれた。そこでイエスは、アサフが着ていた穴だらけの上着を脱がせ、自分の上着をアサフに着せた。

イエスはアサフの着ていた上着をまとったのであるが、穴だらけなので、殆ど着ていないのと同じであった。二人は黙々と山を登り、マナセという貧しい農夫の小屋にたどりついた。マナセと妻はイエスを暖かく迎えた。

二人が足を洗ってから、マナセは旅のもようについて二人から聞こうとしたが、妻が急に泣き出して言った。

「せっかくおいでになったのに我が家には一かけらのパンもなくはずかしくてなりません」

ああ、なんという貧しさであろうか。彼らの家には何もなく、ただ屋根がのっているような小屋であった。そこでイエスは小屋の外に置いてあった荷物を持ってきて開いて見せるとマナセと妻は躍り上がって喜び、鳥のさえずりのような声をあげた。これまでに、こんなごちそうを見たことはなかった。食物が分配され、みんなたらふく食べ、満足した。

食事をすませてからマナセの妻は、イエスが着ていた上着を脱がせ、つくろい始めた。イエスは冗談を言いながらみんなを楽しませた。しばらくぶりで食事らしい食事をしたマナセは元気を取り戻し、自分がいままでに描いていた夢を話し出した。彼はぶどう畑を栽培したかった。

そのことに関する豊富な知識と経験を持っていたからである。彼はため息をつきながら言った。

「私が生きていている間には、この夢はとうてい実現しないでしょう。でもね、誤解をしないでください。私は決して愚痴を言っている訳ではありません。私の背負っている運命として、おそらく餓死が待っているでしょう。これもエホバの神の御心なのでしょうね」

イエスは言った。
「エホバの神は、ちゃんとあなたのことを考えておられるのです。餓死させるようなお方ではありませんよ」

マナセの妻が言った。
「いいえ、エホバの神は私たちを見放されたのです」

「一羽の雀でさえも、天の御父はちゃんと覚えておられます。元気をお出しなさい! あなたがたは雀よりもすぐれているではありませんか」

イエスの言葉によって慰められた夫婦は、打ち続いた悲しい出来事をうちあけた。とりわけ悲しかった事として、五人の子供たちが飢えて死んでしまったことを話した。

夫婦はあまりにも悲しい出来事が続き、神から全く見放されてしまったと思っていたので、イエスが自分たちをからかっているのではないかとさえ思った。

次の朝、イエスとアサフは彼らに別れを告げて旅立った。マナセと妻は山の崖に立って手を振っていた。すると突然イエスがマナセの家に駆け出していって、持っていた有り金全部を家に置いた。マナセと妻に気づかれないようにと思ったからである。直接わたそうとしても、マナセは絶対に受け取らないことをイエスは知っていた。

マナセと妻が小屋に戻ってみると、イエスが言っていた神の恵みが、即座に実現したことを知った。彼の目の前に、すばらしい世界が広がったのである。マナセは、この金でぶどう畑を買い、彼のすぐれた腕と勤労によって、大変な収穫を得るようになった。しかも二人の息子まで与えられ、父母の大きな手助けとなった。

マナセと妻は、この幸せをどうしたらイエスに伝えられるかと考えていた。マナセ自身は、イエスが本来の目的に向かって旅を続けていることを霊の目で察知していた。

第22章 狼から羊をまもる
アサフは悶々と悩んでいた。自分の体が弱い上に、寒さと飢えを恐れていた。イエスは彼を叱って言った。

「信仰のうすい者よ、この世は、神の善を疑う者に対しては何物も与えないのだ! しっかりするのだ!」

それでもアサフの心はおだやかではなかった。その夜は、イエスが最初に訪れた家の門を叩くと、中に入れてもらい、食物にありつくことができた。次の日の夜は、アサフが見知らぬ家の門を叩くようにいわれたので、山の上の一軒家の門を叩いた。すると彼が立派な上着を着ていたにもかかわらず、あっさりことわられてしまった。

その辺りは、実に寂しい所であり、アサフもくたくたに疲れていたので、地べたに座り込み泣き出してしまった。その辺りには、野宿をするような場所がなく、おまけに雨が降りはじめてきた。

雨をよけるような木もなく、途方に暮れていた。そこでイエスは、その一軒の家の門を叩いた。その家の農夫に、泊めてもらえないかと頼むと、快く承知してくれた。イエスはこの農夫の善意を全面的に信頼して話しかけたのである。

その晩は、イエスの話をたくさん聞いて、農夫は大変喜んだ。あくる朝、妻は二日分の食料をもたせてくれた。

そして、よかったら、もっとここに居て欲しいと言った。しかしイエスはすぐに出発し、どこかで羊を飼う仕事がないかと探して歩いた。この辺りは、ぶどう畑とオリーブ畑ばかりで、羊は一匹もみあたらなかった。

二人は更に南東の方向へ旅を続け、ついにヨルダン川の東に近い山岳地帯へやってきた。人けの少ない所で、ゴツゴツした岩山や、深い谷が累々と続いていた。夜になると、ハイエナやジャッカルの叫び声が聞こえてきた。

以前のアサフならば、とてもこんな所にはいたたまれなかったのだろうが、イエスのもとで、まるで牧羊犬のように彼にくっついていた。まわりの岩山は、真っ赤な夕陽に照らされていた。すると、羊の群れが崖からこちらに向かってやってきたので、イエスは羊の持ち主に雇って欲しいと頼み込んだ。

その男は、ヨエルという名で、プリプリ怒りながらイエスのことを泥棒と思ったのか、手にしていた杖をふりあげた。イエスはヨエルのもとから逃れ、アサフのところに戻ってくると、突然、岩山の陰から狼の鳴き声が聞こえてきた。

アサフは腰を抜かしてしまい、もう歩けないという合図をした。一日が暮れようとしている山々の景色は、大小無数の岩がゴツゴツしたシワのように見えて、不気味であった。アサフは殆ど失神していて、イエスの声は聞こえなかった。しかし、イエスが急に岩の間の細い道をよじ登っていくのをぼんやりと見ていた。

イエスはさっきの羊飼いと何やら話をしていたかと思うと、散らばっていた羊を呼び集め、アサフのいるあたりまで誘導してきた。イエスは言った。

「このあたりで狼の鳴き声が聞こえたんだ! 急いで羊を囲いの中へ入れよう!」

そのとたん狼の恐ろしい声が響いてきた。羊飼いはもみ手をしながら言った。

「このあたりはいつもこうなんだ泥棒、野獣、悪霊がゴロゴロしている地獄なんだから」

イエスは羊飼いをどやしつけた。

「羊がうろうろしないうちに羊を呼び集めるんだ! おまえは羊の名前を呼んで早く安全な所へ連れて行くんだ!」

「いやなこった! それよりも一緒に逃げようじゃないか!」

「羊飼いのくせに羊を見殺しにするやつがあるか!」

「おれはこいつらの奴隷じゃないんだ」

「とにかく羊を呼び集めなさい!」

「おれは雇われた者だから、こいつらと殺されるのは真っ平ごめんだ!」

そのときアサフは、二匹の狼が岩陰にいるのを見て、地上に身を伏せた。金で雇われた羊飼いは、羊をすてて山の方へと逃げてしまった。二匹の狼は、ここぞとばかり岩を飛び越え、羊の方へ向かっていったので、口笛を鳴らし、鳥のような美しい音を奏でたので、羊は頭をもたげ、イエスの後についていった。

イエスは手早く囲いの所まで連れていき、一匹ずつ中に入れた。後を見ると、三匹の羊が草むらの中で震えていたので、やっとのことで二匹までは囲いの中に入れることができた。しかし最後の一匹は、すでに狼に囲まれていた。

イエスは手にした牧杖で一匹の狼を叩いたが、他の狼はイエスの肩に飛び掛かり、イエスを地上へ倒してしまった。

二匹の狼とイエスはしばらくもみ合っていた。イエスの体からは血と汗がしたたり落ちていた。イエスは狼が狙っていた羊の方へヨロヨロと歩み寄った。狼は再びイエスに襲いかかり、イエスを地上に投げ飛ばしてしまった。この様子を見ていたアサフは立ち上がり、恐怖心もどこかに吹っ飛んでしまい、長年の間口が聞けなかった彼の口が開かれ、しわがれ声で叫び続けた。

アサフは無我夢中で石を拾いあげ、狼めがけて投げつけた。びっくりした狼は谷間に向かって逃げていった。アサフは気絶して倒れているイエスのもとへかけより、助けようとしたとき、蚊の鳴くような声でイエスが言った。

「傷だらけの羊を介抱してくれ! 早く囲いの中へいれてやりなさい!」

イエスは再び気を失った。

第23章 天国はどこに
羊の持ち主、ヨエルは、安全な場所にある岩山の上から、この様子を見ていた。最初の狼がイエスを襲い、最後の一匹の羊を助けるために自分の命を投げ出した様子を見て、イエスの勇気に驚愕した。

ヨエルはひきつけられるようにイエスの方へ歩いて行った。山々には夕やみがせまっていたので、ヨエルとアサフは倒れているイエスを担いで、崖の下にあるヨエルの家まで運んできた。ヨエルは娘のエスターを呼び、傷を洗わせた。彼女は傷をきれいに洗った後で、バルサム香油(鎮痛剤)を塗り、包帯を巻き、少量のワインをふくませた。

イエスは我にかえったけれども、ひどい熱が出てうなされていた。次の日には熱は引き、順調に回復していった。イエスとヨエルはすっかり打ち解けて、ヨエルは自分の悩みを打ち明けた。

「私の娘の亭主は泥棒に殺されてしまったのです。彼らは、あなたと同じように羊飼いの仕事をさせてくれと言って家にやって来たのです。彼らを家に入れると、途端に我が家の物を奪い、娘の亭主を殺してしまったのです。それからというものは、私は誰も家に入れまいと決心したのです。それで先日は、あなたのことを追い返したのです」

こう言いながらヨエルはイエスにあやまり、自分の羊を狼からまもってくれたお礼に何をしたらよいかと尋ねた。

「私は昔ガリラヤでよく羊と一緒に歩き、彼らのことを学びました。でも、やはり彼らの特性を充分に知ることができませんでした。ですから私は、もう一度羊の群れを預かり、山の上で彼らと一緒に暮らしてみたいのです」

「それは大変孤独な仕事です。しかも忠実な羊飼いは、常に泥棒や狼の危険にさらされるんですよ」

「肉体を滅ぼそうとする者はこわくありません。私はむしろ、あなたがおっしゃった孤独が欲しいのです。でも今雇っておられる羊飼いを追い出してまで、その仕事をくださいと言う訳にはいきません。彼を失業させたくありませんからね」

「いや、彼はおそらく戻っては来ないでしょう。とても臆病でしたから」

そこで話は順調にまとまり、イエスは羊を飼うことになり、アサフはヨエルの土地で土を耕し、種を蒔き、農作業をするようになった。ヨエルは大変喜んだ。こんな僻地では、ろくに人を雇うことができなかったからである。

エスターには、四人の子供がいた。父親は不幸にも若くして殺されてしまった。イエスは、まるでこの一家を救うために神からつかわされたように思えた。イエスは早くもめいめいの羊に名前を付けて、上手に手名付けてしまった。彼は、どこに牧草地があるのかを素早く見つけ出した。

寒い冬に岩だらけの山岳地帯で牧草地を見付けるのは容易なことではなかった。更にイエスは、羊の毛を刈りこむコツや、子羊を産ませる術を心得ていたので、雌羊のお産を助けてやったのである。

イエスはエスターの長男に羊の扱い方や愛しかたなどを教えた。ヨエルの家族は逆境の悲しみから次第に脱け出し、幸せな日々を送るようになった。昔の忌まわしい思い出もうすれていった。少しでもそんなことを口にしようものなら、イエスはたちどころに楽しい話や冗談で吹き飛ばしてしまうのであった。

そして天の御父を信じて、少しでも心安らかに生活するようにすすめた。ヨエルはひとつだけ自慢することがあった。

彼は昔この場所を選んで土台をすえ、岩だらけの土地を緑地に変え、自分の手で立派な家を作った。この家は彼にとって夢のように美しいものであった。一つ一つの石を吟味して、上手く加工しては積み上げていくのに、どんなに苦労したかを話した。ヨエルは言った。

「ここからは一望のもとに谷間が見えます、だから泥棒や野獣が這い上がってくる姿がよくわかるのです。私は王様になったような気分で見下ろしていられるのです」

「それはどうですかね。土台をもっと固めるほうがよいのではないでしょうか」

イエスはかがんで一握りの土をつかみ、手のひらからこぼれ落ちる土を見た。ヨエルは腹を立てたが、反論する余地がなかった。夜になると、イエスはヨエルの孫たちと遊び、彼らが寝るまでいろいろな話を聞かせた。ひかえめな母親は、羊の皮でイエスの上着をぬいながら話を聞いていた。

イエスはオス羊の角でワインや油をたくわえておく容器を作った。イエスはなにかにつけてアサフに様々な生活の知恵を教えた。荒れ地の中で、羊を養うために必要な牧草地を探す方法などもその一つであった。

羊が草を食べている間、イエスは山際で石のように、じっとして動かなかった。しばらくのあいだ瞑想してから、立ち上がり、何やら口の中でつぶやきながら、そこらじゅう歩き回った。それはまるで神と話し合っているように見えた。

アサフの目には、美しい平和の翼を付けたイエスが天高く舞い上がっていくように映った。しばらくして我に戻ったイエスがアサフのところにきて言った。

「天国は、あそこにあるとか、ここにあるとかいうものではないんだよ。アサフ! 人の心の中にあるんだよ。それを見つけた者は、全財産を売り払っても、それを欲しがるようになるんだよ」

このとき初めてアサフは、イエスがなぜ一人で人里離れた荒野や山を旅したがるかを知ることができた。

争い、不満、苦痛などが充満している町の中から遠くはなれた所に神の王国を見つけようとしていたのである。アサフは別人のように変わり、以前のように臆病ではなくなっていた。心は強められ、豊かになり、常にだれからもこわされることのない喜びと光を見いだしていた。

第24章 砂上の楼閣
長い日照りが続き、一滴の雨も降らなかったので、その年はぶどうが大打撃を受けた。草は枯れ、地上はカラカラに乾いてしまった。イエスはまず羊を干ばつから守るために遠くにでかけ、わずかな草でも生えている所へつれて行った。そんなある日のこと、突然天がひらけて二日間も雨が降った。

それはまるで空から洪水が落ちてきたように烈しかった。慎重なイエスは二日の間羊を動かさず、雨があがるのを待って、二日目にヨエルの家に向かった。

イエスがヨエルの家に戻ってみると、足もとにある地盤に小さな割れ目が入っていて、雨水が流れだし、次第に幅が大きくなっていく気配を感じた。そこでイエスは言った。

「これはいけない! 軟弱な地盤がやられてしまうかもしれない。もう一度大雨や嵐が来れば、ひとたまりもなくさらわれてしまうだろう」

そばで聞いていたヨエルが言った。
「そんなバカな! 私はしっかりした地盤の上に家を建てたんですよ。そう簡単に雨や風にやられる訳がない」

イエスは答えた。
「あの山の頂上で、たしかに嵐がやってくる兆しを見たんです」

ヨエルはすっかり腹を立ててしまい、そんなことを言うなら、さっさとこの家から出て行ってくれと言い出した。すごいけんまくで怒鳴り散らす様子は、まるで彼の中に悪魔が入ったみたいであった。

しかしイエスはひとことも言わず、そっと立ち去った。あとでアサフには、ヨエルの怒りは恐怖心からでたものであるから、ちっとも気にしなくてもよい、それよりも嵐がくることのほうが心配であると語ったそうである。

イエスは、とりあえず羊の群れを牧草地のある山岳地帯につれて行った。昼になった頃、案の定、大風がふきはじめた。黒雲が空いっぱいに広がり、たえまなく雨がたたきつけるように降り続いた。イエスは羊をまもるために、徹夜で頑丈な仮小屋を作った。

ものすごい嵐がひと晩中荒れ狂っていた。イエスは一匹づつ羊の体に手をあてながら、震えている羊を勇気づけた。烈しい風雨であったので、人の声も消しとんでしまう程であった。谷間から谷間へ、山から山へと荒れ狂っていた。

明け方になってから嵐は次第に遠ざかり、空に光が見えるようになった。イエスは羊の仮小屋の入り口をしっかりとめてから谷間へでかけて行った。そこはまるで悪魔が勝手気ままにあばれまわった跡のように見えた。

雨水がごうごうと凄い音をたてながら流れていた。ヨエルの家がたっていた山に行ってみると、はたせるかな、エスターと子供たちがまわりの岩や草にしがみついていた。ヨエルが建てた美しい家は倒れ、無残にも瓦れきの山となっていた。砂の上に建てられた美しい家は、一回の嵐で崩れてしまったのである。

ヨエルは瓦れきの山のそばで、頭を叩きながらうめいていた。イエスが声をかけても返事もせず、ただ気が狂ったように叫び続けていた。イエスは彼のプライドが深く傷つけられたことを知っていた。

そこでエスターや子供たちを元気づけ、嵐の最中に作った仮小屋につれていった。仮小屋をアサフに任せ、イエスは水に流されたヨエルの大事な家具や道具などを運びあげた。また食糧をひろってきて火をおこし、家族が飢えないようにしてやった。ヨエルをつれてきて焚火のそばに座らせても、彼はひとことも、口をきかず、ただイエスの言うとおりに従うだけであった。

彼らは冬にこのような災難にあったのである。イエスとアサフは、そこからかなり離れた所に頑丈な岩山をみつけた。二人は羊のめんどうをみながら、その場所に家を建て始めた。

挫折したヨエルは何もかも虚しくなり、もうここを引き払ってどこかへ行きたいとエスターに話していた。彼女も子供のことを考えると、ひどく心配になった。イエスは傷ついたヨエルに暖かく説得に務めたので、ヨエルはついに立ち去ることを思い止まった。いよいよ新しい家の壁が立ち上がると、ヨエルも手伝うようになった。

ただ黙々と土を掘ったり、材木や石をけずったりした。ときには遠くまで出かけて行き、乾燥した材木を買ってきてイエスにさしだした。こぶりの家ではあるが、岩の引っ込みにぴったりと密着した堅固な家ができ上った。

その夜のこと、ヨエルはイエスのもとへやってきて、静かに語りだした。

「我が師よ、愚かな私であったことをどうかお許し下さい。この家の半分はあなたのものです。私どもと一緒にお暮しください。嵐や洪水がおしよせてきてもびくともしない地盤に家を建てることがどんなに大切なことであるかがよく分かりました。あなたは本当に賢い方でいらっしゃいます。それにひきかえ、私は何と愚かだったのでしょう」

イエスはほほえみながら言った。

「何もあやまることなんかありません。これはすべてあなたとエスターのものです。私はもうここを去るときがきたようです。私はこの地で平和を見いだし、しかも大変力づけられました。ですから、私のほうがあなたがたに、心からお礼を言いたいのです」

第25章 良い羊飼い
ひ弱で無能だったアサフは、ピリポ・カイザリアの山で鍛えられ、とても有能な石工になっていた。いよいよ家の内側の大工仕事が始まった。イエスは余り大工仕事は得意ではなかった。そこでヨエルはイエスをからかって、これでも本当に大工の子なのかと言った。イエスも大声で笑いながら言った。

「そのうち又ナザレにもどって、もう一度修行をしてこなくちゃね」

ヨエルは言った。
「哲学者の手では、一生かかってもだめなのではないですか」

二人は大笑いした。このようにイエスのいるところには、いつも喜びと笑いがあった。

時の流れは早く、このあたりは美しい春の景色と、新鮮な緑に囲まれていた。ヨエルは羊と一緒に野山を歩きたかった。そこで孫のナタンに羊の世話をさせるために、イエスは一匹ずつ羊の名前を呼ぶように指示した。ナタンは誇らしげに羊の名を呼び、実に見事に羊をあしらった。ヨエルはとても嬉しかった。

エホバの神がこれ程までに、豊かにしてくださったことを心から感謝した。そこでイエスはヨエルを連れだし、近くの岩の上に腰をおろした。そこでイエスはヨエルに言った。

「二日以内にお別れをしなければなりません」

ヨエルは突然暗い顔になり、悲嘆にくれていた。イエスはなおも続けて言った。

「そろそろ人間社会にもどるときがきたようです。ここは本当に天国です。できるなら一生ここで、あなたがたと一緒に暮らしたいと思うのですが、天の御父が私を呼んでいるのです。又この世の社会が私を呼んでいるのです。天の御父の御心に従わねばならないんです」

「誰が一体この羊を飼うのですか」

「ナタンがいるではないですか。彼はもう立派な羊飼いになりました」

「では、どうか私をつれてって下さい。地の果てまでもあなたに従ってまいります。あなたの御言葉は何ものにも較べようもなく美しく、すばらしいのです」

イエスは言った。
「この家をどうするつもりですか? この家を捨てるとでも言うのですか?」

ヨエルは返答に苦しんだ。二兎を追う者は、一兎も得ずの苦しみであった。

ヨエルは言った。
「この家を捨てるつもりです。そしてあなたの後についていきたいのです」

「宝のある所には、心が引き付けられるものです。あなたもきっと家のことを思うようになりますよ。それは、私はもっとはっきり天の御父の御心が知りたいのです」

ヨエルは仕方なく思い止まった。そしてイエスがいなくなることを深く悲しんだ。

その日の夕方、ヨエルの家からかなり遠くに住んでいたアブネルという男が近づいてきた。アブネルは、日ごろからヨエルの囲いから毛並みの良い一匹の若い雄羊を盗み出そうと狙っていた。彼は夕暮れに斜面をこっそり登ってきて羊の囲いに近づいた。ヨエルとイエスは一旦羊の群れからはなれ、食事をとりに家に帰った。

イエスは羊の面倒を見ているナタンと交代しようと思い、ヨエルと一緒にでかけていった。ヨエルは言った。

「私の孫はまだ子供です。あなたがいなくなれば、きっとお手上げになり、今度の冬がくるまでに羊はみんな死んでしまうでしょう」

ヨエルはイエスがどんなに羊を愛しているかをよく知っていたので、なんとかイエスを引き留めようと必死になっていた。二人は羊の囲いまでやってくると、何とアブネルが若い雄羊を囲いから引きずり出そうとしているではないか。イエスはヨエルにシーッと言って、しばらく様子を見守っていた。羊泥棒が何度声をかけても、羊は見向きもしなかった。

そこでアブネルは羊の首にロープをかけて引きずり出そうとした。ちょうどその時、孫のナタンが近づいてきて、羊の名を呼ぶと、アブネルのロープをふりきってナタンの方へかけよった。若い羊飼いは、やさしい言葉をかけて、おびえている羊を慰めた。

日はとっぷりと暮れ、あたりは夕闇に包まれていた。イエスはヨエルに言った。

「ごらんなさい。あの若い羊飼いのすばらしいこと! 良き羊飼いは、羊の名前を知っており、羊は呼ばれればちゃんと答えます。よそ者には目もくれません。これで私も安心してここを立ち去れます。羊の友として生まれてきたような若者の手にまかせます」

ヨエルは無言のままでいた。もうイエスを留める手立てがないことを悟ったからである。ヨエルはイエスが手伝ってくれた新しい家を守ることにした。

第26章 バルトロマイの弟子入り
その夜のヨエルは自分の若い頃の話をした。彼の父ナタンはエルサレムからエジプトに移住し、高利貸しをやって随分金をもうけた。それがかえって厄介なことになった。彼はその地で要職についていたローマの高官に、かなりの金を貸し、しつこく返済をせまった。

ローマ人は部下の者に夜陰に乗じて家に忍び込ませ、ナタンと息子ヨエルを砂漠まで連れだし、当時おそれられていた部族に奴隷として売り払ってしまった。父ナタンは、その地であえない最期をとげ、ヨエルの前で息を引き取った。

ヨエルは部族のすきを見て、そこから逃げ出し、エジプト第二の都市と言われたアレキサンドリアへ行った。

そこでは平和に暮らせるだろうと思っていたのであるが、生活習慣があわず、おまけに、苦しんで死んだ父の幻影に悩まされた。彼はユダヤに帰り、ヨルダン川の東にそびえたつ山岳地帯に入り、人里離れた場所で生活を始め、ようやく恐怖から逃れることが出来た。彼は娘エスターの長男に、幼い時から字を教え、教養を身につけさせたと言う。

これを聞いていたイエスの体は、次第に光を帯びてきたて、まばゆいばかりに輝いていた。イエスの姿は、預言者のような威厳を保ち、ヨエルのために建てられた新しい家を祝福した。

イエスの輝いた預言者のような姿を見たのは、ヨエルとその家族の者がはじめてであった。

明くる朝早く目をさましたヨエルは、もうイエスの姿を見つけることはできなかった。暗いうちに家を出て、別れの辛い思いを少しでもなくそうという気配りであった。

ナタンは弟に羊飼いと農夫の心得を教えた。弟が一人前になったので、ナタンは旅に出て、一日も早く師なるイエスを探し当てたいとヨエルに言った。ヨエルは躍り上がって喜んだ。ヨエルはナタンを祝福してから言った。

「今すぐ行くがよい! 一日も早く見つけて、ここにおいで願うように言いなさい。あの方は、この世の汚れを知らないお方だ。今頃はきっと何かと困っておられるにちがいない。明日の朝早く旅に出るがよい」

世俗の汚れを知らない若者は、ナザレに向かった。そこでは、イエスがエジプトに行ったという噂を耳にしたので、早速エジプトを目指して出発した。エジプトについてから、あちこち探し回ったが、全然みあたらなかった。誰もイエスの消息を知る者はいなかった。一つだけ良いことにめぐりあえた。

アレキサンドロスに住んでいた彼の従兄弟が彼を暖かく迎えてくれたことである。彼はしばらくこの家に滞在した。

敬けんなユダヤ人である従兄弟は、ユダヤのベッサイダからここに移り住んでいた。彼の名は、ナタニエルと言って、ナタンと同じ名前であり、彼の方がいくらか年上だった。ナタニエルは、イスラエルに与えられている神の約束のことや、将来の希望についていろいろ教えてくれた。

「ある日、必ず神の子が王としてやってくるんだ! そのときイスラエルは、長い束縛から解放され、ユダヤの国は汚れたローマから救われるんだ」

とナタニエルは叫んだ。二人は同じ名前であることを嫌って、ナタニエルは〝バルトロマイ〟と呼ぶことにした。バルトロマイは、旧約聖書にメシヤ到来のことが多くの預言者によって語られていることを話した。来る日も来る日も、二人は熱心に語りあい、いつ神の子が到来してイスラエルを救って下さるのかと首を長くするのであった。

ある日のこと、バルトロマイはアレキサンドリアでの仕事が終わったので、ナタンと一緒にベッサイダに帰ることになった。故郷に帰るとバルトロマイは、自分の親しい友人たちにナタンを紹介した。

友人といっても、昔イスラエルの希望のことついて話し合った彼の仲間たちであった。彼らは二階座敷で話し合った。

その中で親分格のピリポが立ち上がり、一日も早くイスラエルの救いの日がくるようにと祈った。そしてその日というのは、バルトロマイが主張してきた、〝メシヤ到来〟のことであった。それぞれ主張のちがう者が集まっているにも拘わらず、とても親しい間柄であった。それはみんなが神の子に是が非でも会いたいという悲願で結ばれていたからである。

ナタンはバルトロマイにイエスのことを話した。ナタンの家にやってきてからのことすべて話して聞かせた。特に狼から羊を救ったことも話した。それで彼は、ナザレに探しに行ったが見つからず、エジプトにまで行ったことを話した。ナタンは言った。

「このナザレ人ぐらい純粋なお方をみたことがありません。あの方は、霊的能力も抜群で、立派な人格をそなえていました」

バルトロマイは黙って聞いていたが、心ひそかに驚きを感じていた。彼は瞑想しながらナタンの言うことを思いめぐらしていた。すると突然ナタンの目に一条の光がさしこみ、胸が熱くなるのを覚え、口走った。

「天の御告げです。イエスは神の子です」

バルトロマイは顔をしかめながら言った。

「あの方はナザレの出身だといったね」

「そのとおりですとも」

「そんならメシヤじゃない! ナザレにはとても汚れた者が多く、今でもそうだと言うではないか」

「出身地によって、その人のことをとやかく言うのは、とても恥ずべきことだと思います。父親の犯した罪だの、母親が淫らであったといって、その子には何の罪もありませんよ。売春婦から良い子が生まれ、飲んだくれの父親から清らかな乙女が生まれることもあるんです」

この言葉にバルトロマイは一瞬たじろいだ。一徹な彼にはこのことが理解できなかったからである。議論に疲れてしまったナタンは、翌日ベッサイダを出発し、再びナザレ人を探すことにした。

ナタンはバルトロマイと話し合ってひどく時間を無駄にしたことを後悔した。このことを感じたバルトロマイは腹を立て、メシヤはエルサレム出身の名門の家族から生まれるはずであると言い張った。しかもヒレルのような聖賢でなければならないとも言った。しかしそうは言ったものの、ナタンの言ったことが心にひっかかっていた。

次の朝いよいよイエスを探しに旅立とうとしていたナタンは、高熱におそわれ倒れてしまった。当時この地方をおそった疫病にかかってしまったのである。年寄りはバタバタと死んでいった。これから花を咲かせようというナタンもついに熱病におかされ、帰らぬ人となってしまった。

彼を深く愛していたバルトロマイは呆然としてしまい、失意のどん底に突き落とされてしまった。ナザレ人のことについて白熱した議論を重ね、彼に散々毒づいたことが悔やまれてならなかった。バルトロマイは誰とも口をきかず、ピリポや友人に会おうとしなかった。彼はつぶやいた。

「すべては空しい。空の空である」

彼は暗い部屋の中で四十日も閉じこもっていた。古参の家令が心配して外の空気にふれるように勧めた。その頃は日差しが強く、地上のものすべて焼きこがしてしまう程の勢いであった。彼はイチジクの木の下で、じっと座っていた。身動きもしないでひたすら神に祈り続け、生命は決して空しいものではないという徴(しるし)を求めていた。ついに彼の祈りはきかれた。

二人の者がそば近くいるのを感じた。一人は死んだナタンの守護天使であった。何の徴がなくても守護天使の動きだけで、すべてが許されたことを知った。彼は故意にナタンを責めた訳ではなかった。あまりにも単純で、自分の確信が強すぎたためにナタンを責め立てたのであった。

幻が消え、二時間ほどが過ぎた。一人の男が急ぎ足でやってきた。見ると着ているものは粗末であるが、顔は喜びに輝ていた。ピリポであった。竹馬の友である。彼は一秒でももどかしそうに、口早に言った。彼は、ついにモーセや預言者たちが予告していたイスラエルの王者に出会ったと言った。バルトロマイは尋ねた。

「その方のお名前は?」

「ヨセフの子、ナザレのイエスだよ」

バルトロマイは心が病んだ。先日のことでナタンとけんかをしたばかりであった。昔からの言い伝えにこだわって、再び口を開いて言った。

「ナザレからは何の良き者が出ようか」

ピリポは彼をひきずるように連れていった。ベッサイダの町はずれに渓谷があり、そこでイエスは、アンデレ、ペテロ、そのほかガリラヤの漁師たちと話していた。ピリポが彼らのところに近づくと、イエスは突然立ち上がり、バルトロマイを指しながら言った。

「生え抜きのイスラエル人を見てごらんなさい! 彼には不純なところはひとつもないのだ」

こう言いながらイエスはバルトロマイの過去のことを」すべてすっぱぬいた。バルトロマイはすっかり仰天してしまい、イエスに尋ねた。

「いつ私のことをご存じだったのですか?」

「ピリポがあなたを呼びに行く前に、イチジクの木の下でお目にかかりました」

バルトロマイは、さっき、イチジクの木の下で祈っているときにナタンの守護天使と一緒にいた者は、この方の霊であったにちがいないと確信した。あの時に、この世のものならぬ平安を体験したからである。バルトロマイは、今までさげすんでいたナザレの人の前にひれ伏し、首を低くさげながら叫んだ。

「先生! あなたこそイスラエルの王者、神の子です」

ナタンの守護天使から何もかも聞いていたイエスは、バルトロマイの手を取り、彼を引き起こしながら言った。

「私が、イチジクの木の下にいるあなたを見たということで、やっと信じてくれましたね。でもあなたは、もっと偉大なことを経験するでしょう。天が開け、神に仕える天使たちが人の子(イエスのこと)のために登ったり降りたりする様子を見るでしょう」

イエスはバルトロマイに対して、自分は人の子であると同時に神の子であることを示そうとした。この時からバルトロマイは、十二人弟子の一人に加えられ、イエスの死後、彼はペルシャまで行ってイエスの教えを広めることになるのである。

バルトロマイとイエスの出会いの日の後で、イエスはヨルダン川へ行き、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのである。

第27章 故郷ナザレに帰る
イエスはアサフをつれてナザレに帰っていった。しかしそこには母も家族もカナへ移ってしまったことを知った。家はそのまま残っていたので、さしあたり大工仕事を始めることにした。ナザレでは、もう昔のようにイエスに敵対する者もいなかった。

クローパス夫妻は二人を暖かく迎えた。昔イエスを憎んでいた律法学者もパリサイ人も死んでしまったし、ほとんどの人がペストにやられてしまったそうである。今の若者たちは、大工ヨセフの子供たちのことには全く関心もなく、日々の糧を得ることだけで精一杯であった。ガリラヤでは、もっぱらメシヤ(救世主)がそのうち現れるという噂で持ちきりであった。

クローパスの息子ヤコブは大工になりたかったので、それで母はイエスに大工の仕事ができるように教えてほしいと頼んだ。イエスは弟トマスのような腕はなかったが、アサフに手伝ってもらい、どうにかこうにか生計を立てるところまでこぎつけた。

他の兄弟のシモン、ヨセフ、ユダは農業にたずさわっていた。彼らは単純な男たちで、家族共々とても幸せな暮らしを送っていた。

クローパス一家は、小さな家に住んでいたが、だれも文句ひとつ言わず、両親の指示に従って平和な生活をしていた。彼らはみんな温かい心を持っており、それぞれの分をわきまえていた。イエスはただ一人沈黙を守っていた。ナザレの人々とは交際せず、口もきかなかった。大工仕事の件で話がくるといつもヤコブが応対した。

さて、マリヤ・クローパスは、イエスが来たるべき預言者であることを確信していたので、イエスだけは特別に彼の私生活を尊重するようにしていた。しかし、三度も病人を癒してほしいと頼んだのであるが、そのたびに断られて、ついに彼女はイエスを責めて言った。

「あなた程の勝れた霊覚者が力を出し惜しみするなんて、ほんとにおかしいわ! かわいそうな病人を救ってあげたらどうなの!」

彼女の心は広く、実によく他人のために尽す人であった。

ある日の夕方、みんなが夕食をすました後で、一人きりになったイエスはマリヤ・クローパスに言った。

「あなたがおっしゃっていたことをずっと考えていました。でも預言者は、故郷では敬われないと言うではありませんか」

「みんなから尊敬されなくたっていいじゃないの。そんなにやりたくないのなら仕方ないわ、それとも力がなくなってしまったの?」

「まだ私の出番がやってこないのです」

彼女はイエスが並の人間ではないこと、そして彼が生まれる前に、母マリヤに現れた大天使の御言葉などを詳しく話してやった。彼女は最後に言った。

「さあ! 慈悲は隣人から始めるものよ! 赤の他人よりまず親しい隣人から救ってちょうだい!」

ついにイエスは彼女の熱心な説得に根負けし、いよいよナザレの人々を相手に天の御父の使命を現わすことになった。それ以来彼女は、再びそのことに関して、しつこく言うことを止めた。彼女は誰よりも深くイエスのことを愛していたからである。

その時からクローパスの息子たちは、安息日に会堂には行かず、山野を歩きながら礼拝をするようになった。イエスも彼らと一緒にでかけることがあった。明日のことを全く心配しない純情な農夫たち、そしてこの世に宝をたくわえようとしない信仰のすばらしさは、会堂で礼拝する以上にタボルの山々で神の祝福を受けたのである。

彼らは常にゆったりと暮らし、ゆとりをもって多くの人々のために尽し、すべての人々に礼儀正しく振る舞ったので、仕事熱心な農夫の間ではうわさの種となった。

イエスも常にクローパスの兄弟と行動を共にしていたので、みんな仲良し五人兄弟と言うようになった。イエスもクローパスの息子の一人と見なされていたからである。

第28章 イスカリオテのユダ
以前にイエスが危篤の病人を癒した盗賊の首領の弟は、イスカリオテのユダという名前であった。彼は当時、右翼で有名な熱心党の一派、シカリ(Sicarii)に属していた。その頃のユダは、イスラエルに不当な重圧を加えていたローマを憎んでいた。

しかしイエスに癒され、イエスが洞窟から去ってからは、どうしてもイエスの印象を追い払うことができなかった。

どのように努力しても消すことができなかった。党の仕事に熱を入れようとしても、イエスが語った様々な金言が耳についていて、もやもやとした雲が絶えず彼を覆っていた。それでユダは、村や町を訪れる時には、必ずイエスのことを聞いてまわるのであるが、誰一人としてその消息を伝えてくれる者はいなかった。

この二人が再会したのは、町の中ではなく、ちょうどイエスが天の御父と交わりをしていたタボル山の傾斜面であった。

ユダは長い旅のあと、イスラエルの故事豊かなタボル山にたどり着いた。彼はロバからおりて山の方へ登っていった。すると突然後ろの岩山に一人の男が立っているのに気がついた。彼は、まるで岩の一つのようにじっと立っていた。ユダはその男の顔を見た瞬間、記憶がよみがえってきた。彼は駆け寄りながら大声で叫んだ。

「先生! 先生! ついにあなたを見つけましたよ!」

「先生と言わないでください」

イエスはそっぽを向いてしまった。しばらくの間沈黙が流れた。しかしイエスは目をあけて若者を見ると、とても悲しそうな顔をしていた。それでイエスは彼のもとへ行き、手を取って言った。

「ぶっきらぼうな態度を許して下さい。私の平和がみだされたものですから、つい」

「この不正な世の中に、平和とは臆病者の拒絶でしかありません」

とユダが答えた。イエスはほほ笑みながら静かに言った。

「あなたはまだ平和というものを知らないんです」

ユダはすっかりうなだれてしまった。胸を突き刺すようなイエスの言葉に参ってしまったのである。イエスは哀れむように彼を慰めた。過去の生活からにじみでるような話をしたのである。

二人は向かい合って座った。ユダは自分の過去のことを話しだした。

ユダの父は〝シモン聖人〟と言われ、ガリラヤでは有名であった。父はとても純粋で、立派な人であった。ローマに対する反乱がおきたとき、直接その運動には加わらなかったけれども、ローマ軍に追われた反乱分子を洞窟にかくまってやった。

そして毎日食べ物を運んで養ってやったのであるが、一人のガリラヤ人に裏切られ、ローマ軍に捕えられてしまった。彼はひどい拷問を受け、母と子供の前で、はらわたを流しながら殺されてしまった。

この時のことが目に焼き付いて、いつも苦しめられていた。これ以来ユダは、イスラエルをローマから救い出すことだけを唯一の目的として生きてきたのである。彼は兄のように、盗賊として他人を殺傷するようなことはしなかった。

子供の頃、一人でエルサレムへ行き、朝早くから夜おそくまで、身を粉にして働き、小金をためていった。彼はその金であちこちを旅行し、秘密結社を組織して、機が熟したときに指導者を迎え、改革の烽火(のろし)をあげようと思っていた。ユダは言った。

「あなたこそ、これを実現して下さる方であると思います。どうか〝海の道〟にいる兄のところへ行って下さい。兄と相談の上、是非あなたを指導者にしたいのです」

イエスは答えた。

「あなたのお兄さんは盗賊ではありませんか。私は平和を好む人間です。その私を暴力と殺しの世界へ連れていこうというのですか。私は、一介の卑しい大工に過ぎず、しかもこの世の王国よりも天の王国を求めているのです」

「それでは自分のことばかりで、他の人々の幸せを思わないのですか」

「そんなことはありません。天の王国を求めている人々と一緒にすべてを分かち合うのです。どうやらあなたには、その資格がないようですね」

ユダはすっかりしょげかえってしまった。彼はイエスが好きなので、どうしても自分の目的に従わせ、党の立派な相談役として起用したいと願っていたからである。大いなる期待と野望をもって、わざわざタボル山にまで来たにも拘わらず、イエスの拒絶にあって、彼の夢は一瞬にして崩れ去ったのである。

しかしこんなことで引き下がるようなユダではなかった。もう一度このタボル山で、二週間後に再会する約束をとりつけて帰っていった。〝海の道〟へ帰り、兄と相談するためであった。

第29章 ユダの野望
イスカリオテのユダには、シモンという友人がいた。彼は背は低く、風采もあがらない男であった。シモンは、ユダのことを慕っていたので、何でも彼の言う通りに従い、イスラエルの救済計画に専念していた。

この二人は何もかも正反対の性格であった。シモンは臆病なのに対して、ユダは大胆で決断力があり、一方は女性的で、他方は荒々しい烈しさがあった。ユダは肩幅が広く、背丈も高く堂々としていたので、シモンは彼のことを〝ユダヤの王子〟とか、〝ユダヤの獅子〟とも呼んでいた。しかし時々ユダは獅子のようではなかった。

金銭のこととなると、彼の態度が変わるからである。父が殺されてから、飢餓に苦しめられていた頃のことを思いだしてしまうのである。その上、彼は自分のために金を集める気はなく、いつも公共のため、特に金持ちにいじめられている貧乏人を救いだすために金を使うのであった。

例の約束の時がやってきて、四人の者がタボル山に集まった。その顔触れは、ユダ、シモン、イエス、アサフである。シモンは渋々ついてきた。ひとつには、自分の好きなユダの心をとらえてしまったイエスをねたんでいたからである。

ユダはもうイエスのことばかりを考えて、シモンの入る余地はなかった。会見の場所に近づくと、シモンの目に〝イスラエルの槍〟という名で知られている高い岩にもたれている男が映った。彼は余り背が高くなく、ほっそりとしていた。ユダのような器量もなく、風采もあがらなかった。

しかしユダとの挨拶が終わり、彼のほほ笑んだ顔を見たとき、今まで味わったことのない魅力を感じた。黒く澄んだ瞳、細面の顔、こげちゃ色の髭をはやしている彼は、霊の光を放っていて少なからず圧倒されてしまった。

それでシモンは挨拶しようとしても、ひとことも口をきくことができなかった。しかし不思議なことに、今までいだいていた妬み心がすっかり消えていることを感じた。イエスはシモンに言った。

「あなたのたった一人の友達に良く頼んでおきましょう。本当に頼りになる友達は、あんただっていうことをね。ユダがあなたから離れていくのではないかと恐れることはありません。どちらかが死んでしまえば別ですが」

ユダが近寄ってきたのでイエスは話しを止めた。しかしシモンは、イエスが自分の心を見通していたことを知り、ユダから離れないですむと思って安心した。四人の男は約束とおり〝イスラエルの槍〟という岩のもとに集まった。彼らは眼下にエスドラエロン高原を見下ろしていた。まさに緑の海であった。

彼らの周囲には、山や森があり、アサフにとって戦争や暴力とは無縁な平和の世界そのもののように感じられた。しかしユダには通じなかった。彼はとうとうとしゃべりまくった。この次はエリコに近い砂漠で会合を持ちたいと言った。

その砂漠には、ユダヤ全土から熱心党の代表者がやってきて、盗賊の首領(兄)を交えて相談し、ローマの支配を止めさせる時期について話し合いたいと言った。イエスはユダの長い話が終わるまで静かに聞いていた。そしておもむろに言った。

「ゴール人のユダが反乱を起こした時のことを振り返ってごらんなさい。剣をとる者は剣で滅びてしまうんですよ!」

「あのユダは、まだ機が熟していないのに立ち上がったから失敗したのです。部下も貧乏人ばかりで、からっきし戦い方も知らなかったのです。それにローマ軍と戦うには、余りにもひどい武器しか持っていなかったのですよ。

それにひきかえて、我々同志は、しっかりと武装し、よく訓練されているんですからね。我々は百姓の集団ではなく、立派に戦える軍人なんですよ」

それからユダは、ぜひともエリコの近くに集まって、熱心党の話し合いに来てほしいとイエスに懇願した。イエスは返事をしないで、エスドラエロン高原のほうを指さしながら、このような平和な世界に暴力をもちこむことは賢くないと言った。ユダは口から泡を飛ばしながら自分の計画を話し出した。

ローマを追い出して、サマリヤ、ユダヤ、ガリヤラを一つの国に統合したいという計画であった。それが実現すれば貧富の差が無くなり、まるで家族同然に一つに結ばれる。

しかも能力と労働に応じて報いられ、老人や病人を大事にする社会となる、などと主張した。ユダは言った。

「先生! すべてがうまくいくのです。悲しみも苦しみも飢えもなくなり、それこそ先生が言われた平和な世界が実現するのです。けれどもローマ軍に支配されている限り、それは絶対に実現できません。

先生! 物欲と奴隷制度を好む異教徒の手からイスラエルを救うために、ローマをぶちのめしてしまわなければ、王国はただの夢に終わってしまいます」

「私の目指している王国は、この世のものではありません」

「我々はこの世で生活しているんですよ! しかも政府機関が我々の生活を左右しているんですよ! 良き支配者が立派な人民を育て上げ、神の御心に沿った歩みが始められることが大切なんです。そのためには、どうしても力が要るのです」

ユダはなおも一方的に言い続けた。

「私は人々の心をつかむことができません。私はいつも孤独です。鳥や子供さえも近づいてはくれません。しかしあなたはみんなから愛されています。そのようなお方と一緒になれば、もうユダヤは我々のものです。きっと人々は、我々のために命がけで従ってくれるでしょう。もうローマも敵ではなくなります」

「しかし、我々は一つにはなれません」

「そんなことはありません。あなたはユダヤ王国の預言者としてお立ちになり、私は法律部門を受け持つのです。二人だけが行政をつかさどり、二人が偉大な魂となるのです。我々二人の英知によって立派にこの世の王国を打ち建てるのです」

イスカリオテは延々と語り続けた。初夏のタボル山を背景に、彼の夢と野望が沸々と湧いて出てくるのであった。日没の頃になって、ようやくユダの話が終わった。イエスがユダの望んでいるエリコに行ってもよいと言ったからである。ユダは勝ち誇ったように静かになった。それから彼はそれぞれの帰路についた。

その日の夜、イエスはマリヤ・クローパスにこの一件の全てを話して聞かせた。善良なマリヤはとても心配になり、そんな危ない無謀な計画に頭をつっこまないように忠告した。

「ユダという男はね、本当に孤独なんですよ。私は彼から悪霊を追い出してあげたいんです。そうすれば鳥も子供たちも慕ってくるようになるでしょう。だからエリコに行くことにしたのです」

マリヤ・クローパスは言った。

「それはできっこないわよ。憎悪と暴力をたくらむ人っていうのは、必ず裏切るものよ。どんなに崇高な目的をもっていてもね」

彼女は溜め息をつきながら黙ってしまった。

第30章 熱心党の密談
イエスはマリヤの熱心な説得があったにも拘わらず、アサフをつれてエリコに旅立った。今度の旅では、いつもの彼のように寓話を話したり、イスラエルの古い歌をうたったりはしなかった。イエスの顔つきは暗く、心の中で何かと闘っているように思えた。このことをアサフは、シモンと再会したときにまっ先に語った。シモンは言った。

「あなたの先生は、ご自身の道を進むにあたって、いちどきにたくさんの重荷を背負っておられるんですよ。

でもね、きっと彼とイスカリオテの二人は反乱軍のリーダーになって、神の王国を打ち立てて下さると信じているんです。イスカリオテの兄貴は、かつての大軍の将ヨアブのようになり、私自身は、律法の権威者ユダにお仕えすることに決めているんです」

シモンはイエスのところへ行き、案内役を申し出た。三人は強い日差しによってバリバリに避けた岩の上を歩いて行った。そのあたりには一本の草も生えていなかった。水もなく、天からの露さえも降りず、そこは実に荒涼としたベルゼブル(悪魔の大王)の王国のようであった。

寂しい場所におおよそ三十人程の熱心党の代表らが集まって、イスカリオテの兄の首領を囲んで話し合っていた。

彼らの話を聞きながらアサフはシモンに耳打ちした。

「ユダは自分が訓練した軍隊の力を自慢しすぎていますね」

事実、武器は十分に備わっていたが、それをうまくこなせる人間はとても少なかった。それよりも,反乱ののろしをあげる瞬間のために、あらゆるものを犠牲にしてもよいという一種の信念がみなぎっていた。彼らはこのことについて長々と話し合っていた。ユダは突然イエスの方を指しながら叫び出した。

「諸君! 我々のために現れた預言者、王者を見てください! この方は多くの病人を癒す奇跡の人である。彼はこの私を分厚い死の扉から救って下さった方である。その上、絶妙な話法によって人々の心を動かす奇跡を行う方でもある。〝鳩の谷〟の洞穴では、乱暴な連中の心をとらえ、てなずけてしまわれた。

この方にユダヤ中を回って、民衆に天の王国について語っていただきたいのだ。彼らがこの方を預言者であり、我々のリーダーであることを知れば、我々は立ち上がれるのだ。それからローマ軍をエジプトへ追い出し、異教徒を追い出せば、天の王国が出来上がるのだ。この偉大なるメシヤを見てください!」

熱心党のやからは大声を張り上げながらイエスを褒めたたえた。

しかしイエスは彼らの叫びを押しとどめ、そんな要求は受け入れられないと言っても、彼らはただワイワイ言うだけで、イエスの声に耳を傾けようとしなかった。イエスは悲しそうにつぶやいた。

「兄弟よ! あなたがたは私のことを知らないのです。平和をつくりだす人こそ本当に祝福に預かれるのです。そのような人は、神の子と称えられるでしょう。この世の力に頼る計画は、理性をにぶらせ、人を狂わせてしまうのです」

イエスはユダを睨みながら堂々と言った。

「あなたは、自分の所へ帰りなさい! そして首領である兄に従うのです。天の王国は、人々の心が大きく変わらなければ決して与えられるものではありません。律法や規則などでは必ず失敗するでしょう。

天の王国は神のものですからね。心の中に王国を迎え入れる用意のできている者だけに与えられるものなのです。たとえ農夫であっても卑しい人間であってもね」

ユダは腹を立て、あたりかまわずどなりちらした。

「あなたは私を裏切りましたね! 分かっていたんです。あなたはガリラヤの中でも最も卑しいナザレ人だということをね」

「おお! その卑しい人間こそ、神の祝福が受けられるのです。天国は彼らのものですからね」

この途端、熱心党のやからは一斉に立ち上がり、イエスに襲いかかろうとした時、今までの様子を岩の上からじっと監視していたローマ軍がかけ下りて来て、熱心党のやからを取り巻くようにして近づいてきた。それに気がついた熱心党のやからは、アリの子を散らすように逃げ去り、大小無数の洞穴めがけて潜り込もうとした。その場には、イエスだけが取り残されていた。六人程の兵隊がイエスの方へ近寄ってきた。見ると丸腰のイエスを見ていった。

「おまえは誰だ?」

「私は大工で平和を愛する者です」

イエスの気高い顔を眺めながら他の兵士が叫んだ。

「こいつは熱心党のやからじゃないぞ! それよりも狐みたいに穴に潜り込んだ奴らを捕まえるんだ! 急げ!」

その兵隊は熱心党のやからが逃げ込んだ洞穴の方を指さした。兵隊はすぐさま洞穴の方へ行った。あとからやってきたローマの兵隊は、道端で祈りを捧げている男の姿を見た。彼らはその男の祈りを妨げないように立ち去った。

彼らは聖人とみなしたときには、うやまうように命令されていたからである。間もなく谷から谷へと大きな叫び声や、唸り声が響きわたった。まさに死の天使がそこら中の谷間を通りすぎていった。十五人以上の熱心党のやからが殺されてしまった。そしてなおもローマ軍は、生き残った者を追いかけて行った。

死体をついばむハゲタカがゆっくりと上空を旋回していた。日が暮れようとしていた頃、イエスはあちこちを探し回り、ついにアサフの死体を見つけることができた。無残にも突き刺さっている槍からは、血がしたたり落ちていた。

アサフは眠るように横たわっていた。イエスは彼の霊がすでに肉体を離れていることを知った。彼を静かに葬れる岩穴を探し、死体をそこへ運ぼうとした、するとそこへシモンがやってきてイエスに声をかけた。彼はじっと岩陰に隠れ、イエスのあとを追ってきていた。

「先生、アサフの遺体を運ぶんでしょう。手伝いましょう」

「そうなんですよ。ハゲタカのえさにはしたくないんでね」

二人はアサフの死体を安全な場所へ運んだ。ピリポ・カイザリアからずっとイエスの跡についてきたアサフは、ついにこの地で世を去った。