第1章 隠者との出会い
イエスが二十二歳になったとき、浮浪者ヘリと別れを告げることになった。彼にとっては悲しい別離であった。イエスとヘリはアラビアのさすらえる部族の中にとけこんで長い間苦楽を共にしてきた間柄であった。ヘリはいつもイエスのよき兄として彼を見守ってきた。
しかしヘリはいつまでもこのような状態を続けけることはよくないと判断していた。それでお互いに別れることになったのである。ヘリはわざとそっぽを向いている間にイエスは北へ向かって旅立って行った。
年が明けたばかりの頃であったが、日中の砂漠は炎暑地獄で、陽光は遠慮えしゃくなく砂を焦がしていた。たどりついたガリラヤ地方は、まるで別天地のように自然の草木は生き生きと輝き、鳥はうたい、木々は緑の衣をまとい、ガリラヤの湖はほほえみ、野のユリは光り輝いていた。
ああ、故郷へ帰ってきたんだという喜びで胸がいっぱいになるのであった。彼は人間であり、同時に神の分霊でもあった。それで彼は遥か遠くのアラビアにいたときでも、彼の霊体はしばしば肉体を離れ、生まれ故郷を訪れるのであった。
彼は一体どうして荒涼たる砂漠の地で炉の火の中をくぐり抜けるような状態におかれていたときでも、善意を保つことができたのであろうか。照りつける太陽は砂漠にいる人間どもに無数の火の矢を放ち、獰猛なジャッカルは夜な夜な叫び声を響かせ、殊に飢えているときは、浮浪者をも襲うのであった。
幼少の頃からイエスは孤独をいやっというほど味わってきた。エルサレムの街頭で大勢の群集にいじめられたり、ナザレでは、ずるがしこい律法学者に散々ひどいめにあわされたのである。しかしたった一人でアラビアの砂漠を旅しているときのイエスの心は平和そのもので、来る日も来る日も天の父なる神と一緒であった。
イエスは身も心も神の祝福で満たされていたのである。夜中にどう猛なジャッカルが食い物をあさってイエスの寝ているところにやってきても、イエスは目をあけて笑顔であいさつすると、彼らはおとなしくなり、彼らなりのあいさつをしてからイエスを真ん中にして車座になり、静かに座るのであった。
イエスは再び眠りにつき、ジャッカルたちは一晩中イエスを護衛するのである。夜が明けると、神と共なるイエスのもとから離れ、食い物を探しに行くのである。このようにユダヤの地に足をふみいれるまでの間、旅そのものはまことに苛酷なものではあったが、心にはいつも喜びがみなぎっていた。
ある日の夕方、山々に風雨が襲った。南の砂漠からやってきた旅人にはあまり心地よいものではなく、危険でもあった。このような天候は、日ごろどこかにひそんでいる泥棒や狼たちにとって絶好の条件であった。しかしイエスは何ひとつ恐れることなく、心は落ち着いていた。
風雨や寒さをしのぐため穴ぐらに入ろうとして岩山をよじ登り始めた。穴ぐらの入り口の所までたどりつくと、深い渓谷や巨大な山々の光景が一変し、野獣の叫び声が聞こえてきた。
すると一人の男が穴ぐらの前に立っているのが目に映った。その上、灰色の生き物が近くの大きな石陰でうごめいていた。それは一群の狼でイエスに飛び掛かろうとしてどう猛な歯をむきだしていた。
イエスは杖一本も持たず、全くの丸腰であった。そんなとき羊飼いたちは腰をかがめて石を拾い防戦のかまえをとるのであるが、彼は立ったままひとつも恐れる様子もなく、飢えきった狼であることも念頭になかった。完全な愛は欲望をすてさせてしまうのか、歯をむき出していた狼は急に動きを停め、血に飢えた欲望は静まり、すっかりおとなしくなってしまった。
イエスは彼らを見つめ、手を挙げて彼らを祝福した。彼らはイエスのそばにたたずみ頭をあげながら狼の言葉であいさつした。彼らの叫び声は飢えきった時のどう猛な声ではなく、もっとも親しい友人に向けられたあいさつの叫び声であった。
イエスはしばらくの間そこに立っていたが、親愛の情をこめながら彼らに話しかけた。イエスの話し言葉は、ごく普通の人間のものであったが、狼にはよくわかり、喜びの声で応答するのであった。
その声が周囲の岩山にこだまして、何事が起ったのかとあちこちの岩穴から小さな動物達が首をだした。
イエスの体からまばゆい光が放射され、喜びにあふれた彼の心が狼や周囲の岩々に流れていったので、野生の鳥がイエスのまわりに続々と集まってきた。イエスは穴ぐらの前に立っている男の方へと歩み寄っていった。
その男は狼のボスに何やら合図をおくり、すぐさまけもの道に立って旅人の命を守ってやるように命じた。イエスはほほえんでいた。イエスはちっとも恐怖を感じてはいなかったが、この隠者のやさしい心くばりを嬉しく思った。隠者の風格は堂々たるもので、背が高く、痩せすぎであった。隠者とイエスはお互いの顔が見える程近くまで接近した。
そこでイエスはしばらくここにかくまってほしいと頼むつもりであったが、突然言葉につまってしまった。二人の間に影のようなものがおおい始めたからである。その影は暗く、重苦しかった。イエスは身震いした。その時ばかりは震えを抑えることができないほど苦しかった。それが将来どんな悪い兆しであるか知るよしもなかった。
それは、この隠者が水のほとりに立って彼に進むべき道を与える時が来るまで隠されていたのである。
夕方なのに陽の光はおとろえず、岩山の崖を照らしていた。日没の陽光にうつしだされた隠者はイエスよりも十歳も年長に見えた。彼は粗麻布(あらぬの)を身にまとい、髭と頭髪は伸ばし放題で胸のあたりまで垂れ下がっていた。厳しい顔付の中に何事にもくじけない固い岩石のような精神力を秘めていた。
イエスの心に再び静けさが戻ってきてからその隠者の後について岩穴の中に入っていった。暗い中にローソクの火が灯っており、そのすぐ側に羊皮紙が置かれていた。それは聖書(旧約聖書)の写しであった。隠者にとって、これは神の民の一人であることを立派に示している貴重な宝物であった。
イエスは数日の間ほんのわずかなイチゴしか食べていなかったので食物を求めた。隠者は責めるような目つきで彼の袖を引っ張った。律法に忠実な隠者にとって食事の前に手を清めないことは許せないことであった。彼は水のあるところまで連れてゆき身を清めさせてから食卓についた。
風は音をたてて吹きまくり狼は穴の外でほえていた。この聖者(隠者)は狼に静まるように話しかけた。もしも狼の言葉を使って大声をはりあげなかったら、この隠者は言語障害ではないかと思えるほどおし黙っていた。
イエスは心の中で、きっと沈黙の期間を守っているのであろうと推察していた。
聖者は常に手を合わせ、唇を動かし、目を天に向けて天地の大神に黙々と祈っていたからである。しかし先刻味わった重苦しい悲しみはイエスから消えうせなかった。イエスが尊敬するこの聖者を目前にしながら彼は落ち込んでしまうのである。何やらこの聖者の将来に不吉なものを感じたのである。イエスはワナワナと震えながら神に強い助けを求めていた。イエスはつぶやいた。
「天の御父は私の中におられる。そして私は天の御父の中にいるんだ」
イエスはこの聖者の中に神の用意しておられる、ただならぬ使命のようなものを予感した。彼の魂は、この世のものとは思えない平安がやってくるまで全身を突きさすような苦しみを味わった。イエスは再びつぶやいた。
「天の御父は私の中におられる。そして私は天の御父の中にいるんだ」
聖者の震えは止まった。額から噴き出していた玉のような汗も止まった。両手を真っすぐにのばしてからやっと休息をとった。イエスはこの厳格な聖者を見つめながら心の中で深く愛していることを覚え、魂の奥深い泉から吹き上げるような口調で言った。
『天にまします我らの父よ、願わくは、御名を聖となさしめたまえ。御国をきたらしめたまえ。御心を天におけるごとく地にも行わしめたまえ』
イエスは生れて始めてこのように祈ったのである。しかも名も知らない隠者の目の前で無意識のうちに語られた祈りであった。
この祈りを聞いていた隠者は、ありありと驚きの様子をかくしきれず、たとえひとことも語ることができなくても、この若者に何かを訪ねようとしているかのように唇を微かに動かしていた。しかし間もなく彼は静かになった。彼は再び平和のうちに瞑想を続けるのであった。
イエスは身を横たえて眠りについた。彼の魂はなおも暗い陰影に包まれて聖者にまつわる謎を解くことができなかった。人間の眠りは一種の覚醒である。人は眠っている間、別の世界(霊界)に行っており、目を覚ました時にはその体験を思いださない。しかし稀に死と苦しみを越えた世界(霊界)の体験を覚えていることがある。
イエスは夢を見ていた。彼は夢の中で一人の老人が香のたちこめている祭壇の前に立っており、天使がこの老祭司のそばにいるのを見た。天使が自分のそばにいることを感じた老祭司は恐怖におそわれ、その場に倒れてしまった。天使は老祭司の恐れを除いてから彼に言った。
彼の妻エルサベツは老齢であるが、近いうちに一人の息子を産むであろうと。天使はその子の名前も告げたのであるが、イエスには聞き取ることができなかった。しかしエリサベツが産む子供の生涯について語られたことはよく覚えていた。
『かれは預言者エリヤの霊と力を以て現れるであろう。彼はキリストの歩む道を準備し、多くの人々の心を幼子のようにし、神に逆らう人々の心を正すために働くであろう』
イエスはなおも夢を見つづけた。一人の若い女が現れた。その清らかさといい、美しさといい他に較べようもない程であった。しかし彼女の名前は明かされなかった。その顔を思いだそうと努めるのであるが、それはただユダヤの田舎にある一軒の家の中のことしか思い出せなかった。
そのうち、エリサベツの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。彼女は機織(ハタオ)りに精を出していた。エリサベツは老女でありながら、子を宿していることがよくわかった。夫のザカリヤは、部屋のすみでひざまずき、声をたてずに祈っていた。祈りを終えてから食事をするのであるが、彼はただ手で合図するだけで、ひとこともしゃべらなかった。
夕方ごろになって、一人の若い女がガリラヤからやってきて、従姉妹(いとこ)にあたるエリサベツの名前を呼んだ。
おだやかに女の挨拶が始まると、部屋の中の雰囲気がガラリと変わってしまった。今までの重苦しい空気が失せてしまい、二人の妊婦が向かい合った。一人は年老いた妊婦であり、他は若い妊婦であった。
若い女の額には昔味わった大きな苦労がにじみ出ていた。それにも拘わらず彼女の顔は明るく輝いていた。その時、美しい声が響いてきた。
『女の中で最も祝福された女よ! 胎内の赤ちゃんも祝福されています!』
イエスが見ていた夢は一瞬、池の水のさざなみのようにゆらいだが、再び平静にもどり、若い女の顔が見えてきた。
すると女は声高らかに神の栄光を歌い始めた。その歌は一種の預言を意味する歌で、過去、現在、未来にわたって変わることのない神の真実がやって来るという内容であった。
(訳者注・聖書では、妊婦マリヤが神の子の誕生という大業をたたえ、自分のような卑しい女が選ばれたことを感謝する歌をうたったと記されている)
イエスはたずねた。
「この歌はどこにあるのですか」
声は答えた。
『隠された詩篇の言葉です。聖霊がこの女の口を使って歌わせているのです。』
歌声は次第に大きくなり、家の外まで響き渡り、大勢の人の耳にまで達した。年老いた女は水瓶を取ってきて、わざわざ訪ねてきてくれた若い女の足を洗ってから、親しく話し始めた。
その光景はイエスの夢から次第に消えてゆき、暗い穴ぐらの中で眠っていることに気がついた。もうすでに朝を迎えていた。彼が眠っている間、隠者はひざまずいて祈っていた。隠者の顔には恐怖の影は消え失せていた。
夕べ見た夢は鳥の翼のように彼の心を天に向かってはばたかせ、天の御国に導いていったのである。イエスがそこで見たものは、余りよく分からなかったようである。それもそのはず、過ぎ去った昔のことについては、何にも知らされていなかったからである。霊界では、すべての事実が忠実に記録され、永遠に保存されているのである。
第2章 隠者の変容
イエスには二つの考えがあった。ひとつはガリラヤにいる母や叔母のマリヤ・クローパスの所に行くことであった。もうひとつは、生まれて始めて出会った高潔な聖者と共にこの山の中で暮らすことであった。
しかし彼のガリラヤへの思いは強く、ついに故郷へ帰ることにした。ある日の朝まだ暗いうちに起き上がり隠者に別れを告げた。隠者は眉をひそめ、イエスに合図をおくった。それはここに止どまっていなさい、出てはならないという意味のサインであった。しかしイエスは故郷が自分を呼んでいると言った。
隠者は悲しみに満ちた目付きで、ここに止どまって欲しいというサインを示した。穏やかで礼儀正しい若者は、心から求めている隠者の願いをはねつけることはできなかった。
イエスはいったん旅立つことを断念し、水のある所に行って身を清め、隠者の赴く後について行った。そそり立つ岩の裂け目をくぐり抜けるように歩いて行くと、あまり広くない平地にやってきた。あたり一面に夕べの露がたまって水たまりができていた。隠者が好んで訪れる庭で二人とも太陽が中天にあがるまで働いた。
穴ぐらに帰ってから隠者はイエスのためにとっておきの食事を用意した。野生のハチミツとイナゴであった。食事をすますと隠者は瞑想に入った。それから一時ほど眠った。彼は夜通し瞑想を続けるので、ひるごろに一時間程眠ることにしていた。イエスは彼のそばでじっと見守り彼が妙な夢を見ていることを感じた。
隠者が眠りから覚めると、例の庭に行き、ひざまずいて祈り始めた。イエスも一緒についていった。しかしイエスは沈黙を破り、天の御父に対して喜びの賛美を歌い始めた。イエスの歌声はフルートのような音の響きではなく、ガリラヤ湖畔に押し寄せる波のような深い音色であった。押し黙っていた隠者も沈黙を破り、歌い始め、周囲の山々までも歌声に耳を傾けるのであった。
『主をほめたたえよ、主のしもべたちよ、ほめたたえよ、主の御名をほめたたえよ。
今よりとこしえに至るまで、主の御名はほむべきかな。
日の出ずるところから、日の入るところまで、
主の御名は、ほめたたえられる』(旧約聖書、詩篇113の1-3)
この時のイエスは、再び光に包まれていた。陰気な隠者でさえ賛美の歌には逆らえなかった。隠者は従来の戒律を破り、立ち上がって岩によりかかり、イエスの賛歌にじっと耳を傾けていた。
突然イエスは涙ぐんだ。その涙は、あたかも砂漠で出合った泉のように、彼の魂の渇きを癒した。日没までそのままで瞑想を続けた。その時のイエスには、完ぺきな形で神が宿っておられたと、後になって弟子に語ったと言われている。イエスが成人して始めて行った奇跡である。
三日間この二人は一体となって、すべてのものを分かち合った。その後は沈黙の戒律が破られるようなことは無かった。しばしばイエスに質問したい衝動にかられることもあった。しかし偉大な精神の持ち主は、最後まで沈黙の誓いを破ることは無かった。二人は深い神秘的なものによって固く結ばれていたのである。
イエスのガリラヤへの思いは断ちがたかった。日の出にさえずる鳥の声のように、彼の心をさそった。三日目になってイエスは再び天の御父に対して喜びの詩篇をうたった。谷間はすでに暗くなっているのに、彼の放つ神秘の光が輝いて、不毛な岩山を明るく照らしていた。イエスは隠者に言った。
「あなたと一緒にいる間、これからどうするかを考えてきましたが、もうその心配はなくなりました。私はやはりここから出てまいります」
隠者はうなずいた。イエスは続けて言った。
「真理を真剣に求める求道者には、二通りの生き方があります。一つはあなたのように選ばれた方が瞑想のうちに生きる道です。常に沈黙を守り、めったに口を開くことはありません。話すとすれば、罪のない鳥や獣たちに知恵を授ける時でありましょう。断食と瞑想によって霊性を高め、真理の道を追求するのです。
しかし悪霊は町の中にたくさんいるように、荒野にもいるのです。聞くところによりますと、荒野が彼らの住みかというじゃありませんか。だからこそ、よほどの強い魂でなければ荒野で平静に暮らすことはできません。」
隠者は深くうなずいた。隠者も悪霊との戦いで疲労と憂うつに悩まされてきたからである。
イエスはなおも続けて言った。
「私が、もう一つの道を選んだのは、このような悪霊を恐れているからではありません。私は人々の間で暮らしたいのです。荒野で暮らすことは私自身の救いだけに専念することになります。瞑想のうちに真理を求めることができたとしても、私はあなたの弟子となってここに留まることはできないのです。私には天の御父から託されていることを遂行しなければならないのです。」
イエスが最後にのべた言葉には、特に力がこめられ、第三者の疑いをさしはさむ余地はなかった。
「私の目的は、第二の道を歩むことです。人との交わりを通して神の務めを果たすのです。なんといっても、あらゆるタイプの人間と交わることによって、人の歩むべき道、究極の真理、生命の尊厳を見いだすことが必要なのです。このようにして、私は神の御心を実現していけると思います。
母や兄弟がいるナザレに参ります。でも彼らと一緒に暮らすつもりはありません。他に私の住む所を見つけ、自分の手で働きます。仕事はなんでも厭いません。大工、農夫、漁師、羊飼い、それもなければ、さまよえる人でもよいのです。きっとガリラヤの人々が味わっている悲しみ、苦しみ、心配事などが分かってくると思います。
そこで、解決するドアをたたかせるのです。重荷を少しでも軽くして心が休まるようにしてあげるのです。貧しい人々や年老いた人々の必要としているものを少しでも満たしてあげたいのです。人はみな同じであり、特に汚れた人がいるわけではありません。乞食も取税人も罪人といわれている人も、不義密通している女も、みんな等しく神の子なのです。」
イエスが話し終えると、隠者は頭を振りながらイエスの別れの言葉に反対する動作を示した。苦悩に満ちた顔つきで狭い所をうろつき回った。ついに彼は立ち止り、イエスの顔を見据えながら彼の袖を引っ張った。それは荒々しい動作であった。彼は手でこの山々や空を差しながら、第一の道を選ぶべきであると強く示した。
その道こそイエスにとって最も良い道であり、救いとなることを伝えた。イエスは再び威厳をもって語り始めた。
「人間の一生は、別離の連続といってもよいでしょう。私達二人は、神の愛によって一つに結ばれてはいますが、魂は全く別なのです。私の魂は隣人に向かって深く愛することを求めています。
私は人々から離れて暮らすわけにはいかないのです。しかしあなたは生まれつき預言者としての素質が与えられています。このような荒野の静けさの中で沈黙を守り、瞑想によっていやがうえにも魂は成長し養われることでしょう。とにかく、この道こそあなたにとって最もふさわしいのです。
けれども私の目的は預言者になることでもなく、またそのような素質もありません。私は隣人を愛するためにうまれたのです。どうして人里はなれた荒野で暮らすことができましょうか。
ある商人が商用で旅立つときに、二人の使用人を呼んでいいました。一人の男には三タラントのお金を預け、別の男には一タラントのお金を預け、自分が帰って来るまでに何とか努力してお金をふやしておくように言いました。主人が帰ってくると、三タラントのお金を預かった者は、五タラントにして主人に差しだしました。
別の男は、お金を布にくるんで土の中に埋めておきました。彼はその一タラントを主人の前に差し出すと、主人は激しく怒って言いました。天の御父は、我々みんなに賜物を与えておられるのだ、折角の賜物を使わずにしまっておいては駄目じゃないか、それを何倍にもふやすんだと」
隠者はため息をつきながら両手を挙げてイエスを祝福した。お互いに別れることを同意したからである。隠者は言い知れぬ悲しみを堪えながら聖書を開き、慰めの言葉を求めた。イエスは最もふさわしい言葉を読み上げた。
『見よ! われ、なんじの前に使者をつかわす。彼なんじのために道を備えん』(旧約聖書マラキ書、三の一)
イエスは続けて言った。
「女から生まれた者の中で、来るべき預言者よりも偉大な方はおられません。あなたは、その来るべき預言者なのでしょうか」
この問いに対して隠者はなにも答えなかった。合図もしなければ、体を動かすこともしなかった。そ知らぬ様子を見せてはいたけれども、実際はそうではなかった。深い悲しみが隠者を襲っていた。
突然あたりが静かになった。ジャッカルや狼さえも鳴き声を出そうとしなかった。まるで神が世界中の音をすべて消してしまったのではないかと思える程静かになった。すると隠者の顔が恐ろしい程まばゆく光り輝いていた。その光は、彼の頭や手足、そして全身から放たれていた。
彼は崖のふちに真っ直ぐに立ち上がり、雲に届かんばかりに背丈が伸びていた。その姿は実に威厳に満ちており、見守る者にとって預言者を代表する偉大な人物のように感じられた。
イエスは地にひれ伏し、顔を地に向けて深々と頭を下げ、心から謙そんの気持ちをあらわした。その光景は、まるでエリヤかモーセがそこに居合わせているようであった。輝きと静けさのうちに彼らの魂は互いに深く交わり合っていた。
清らかなひとときが去ってから隠者は崖のふちを立ち去り、岩穴の中へゆっくりと歩み、深い眠りについた。イエスは、ひとり残って暗い夜空を見上げながら、たった今体験した出来事について思いふけっていた。
果てしない疑問が解けぬまま、イエスも穴ぐらに戻り、隠者と一緒に眠りについた。
第3章 破られた農夫の夢
日の出と共にイエスは旅支度をととのえ、沈黙のぬしに礼を言って、別れの挨拶をした。この時の二人にとって、もはや別れの悲しみはひとかけらも感じられなかった。聖なる雰囲気が二人を包み込んでいたからである。昨夜の不思議な体験が二人に魂をまったく一つに結びつけてしまったのである。
イエスの姿が見えなくなってから、隠者は例の崖のふちへ行き、北の方角に広がっているガリラヤ地方に手をのばし、何時間も長い間祝福を続けていた。沈黙の誓いを守る期間中であったので、彼は喜びと感謝の気持ちを言葉であらわすことができなかったからである。暑い陽がさしこむ昼頃になって、ようやく神への感謝と賛美を終えた。
イエスは山から谷間へ降りてゆき、歌をうたいながら自由の身になったことを喜んだ。道すがら珍しい花を見ては、その形の美しさに驚嘆した。彼は鳥に向かって話しかけ、鳥もイエスの甘い澄んだささやきに聞きほれるのであった。
イエスは時々笛や歌声で鳥に応えることもあった。彼は喜び勇んで旅を続けた。
一人の少年が旅の仲間に加わった。まだ十四歳にもならない子供であったが、ガリラヤのことをあれこれと語ってくれた。この時に少年にはまだ知るよしもなかったのであるが、将来イエスの七十人弟子の一人に加わることになるのである。この少年とは道の曲がり角の所で分かれた。昼近くになった頃、ペトエルという名の旅人と出会った。
彼はちょうどエルサレムへ巡礼にいくところであった。ペトエルの目的は、捧げ物を奉納してから、一人で荒野に行き、断食と祈りをしながらメシヤ(救世主)の到来を待つことであった。イエスは昨日までの三日間を山の中に立て籠もっている不思議な隠者のもとで過ごしてきたことを話して聞かせた。ペトエルは驚いて言った。
「こりゃ驚いた! あの隠者と三日間も一緒だなんて!」
イエスは彼にたずねた。
「どうしてそんなことを言うんですか」
ペトエルは答えて言った。
「あの聖者は、もっか沈黙の誓いを立てているので、誰ひとりとして彼に近寄ることができないんですよ。彼はこの地方では、とても偉大なお方として知られているのです。彼は罪も汚れも無い清いお方で、みんなから『イスラエルの希望』と言われているのです。私も彼の弟子の一人なのです」
イエスは更に訪ねた。
「名前は何とおっしゃるのですか」
「ザカリヤという祭司の子供、ヨハネといいます。それが実に不思議なことがあったんだそうです。彼が生まれる時、偉大な人物が出現したことを顕す不思議なしるしがあったとか言われているのです。そんな訳で彼は非のうちどころのない青年時代を過ごし、他の者のように誘惑にも負けず、いつも人里離れた所で清らかな生活を続けているのです」
イエスはすかさず言った。
「あなたは、そのお方を何とお考えですか」
「今は言えません。旅の若い方、あなたの部族(イスラエルの十二部族)も名前もうかがっておりません。このことはどなたにも言わないでいただきたいのですが」
イエスは絶対に口に出さないと約束すると、ペトエルは答えて言った。
「実を申しますと、ヨハネは来るべきメシヤであると確信しているのです」
「どうしてそれが分かるのですか」
「彼の力あふれる霊力といい、清らかな生活ぶりといい、それは実に素晴らしいからです。それに今やイスラエルの回復のためにメシヤがおいでになる時が熟しているからです」
イエスはこのことを耳にしてからは、ひとことも口を開かなかった。まるで鷲が岩の上に留まって、高いところから谷底を見つめ、鋭い観察をしているかのようであった。ペトエルは言った。
「あなたは一体どこからいらしたのですか。家族はどこにおられるのですか」
ペトエルは同じことを三度も聞いた。イエスはゆっくりと口を開いて言った。
「私はナザレの者です。私の母はそこに住んでいます」
ペトエルはすかさず言った。
「ナザレには善人は一人もいないというじゃありませんか!」
ペトエルの表情は次第に暗くなっていった。明らかにナザレ人と一緒に歩いているという不快感をあらわしていた。
イエスは、ほほ笑みながら言った。
「霊は、思いのままふるまいます。ですから、善なる霊は地域や部族などによって縛られることはありません。私の母などはナザレに居ながら、それは素晴らしく善良な女です。
それだけではありません。ナザレの大部分の人々は実に正しい生活をおくり、エルサレムで名高い義人よりは、遥かにすぐれているのです。ナザレ人は、どちらかといえば、単純なのですよ。農夫ですからね」
ペトエルはすっかり度肝を抜かれてしまった。彼は愚かにも、汚れたナザレ人といううわさだけを信じ、そのような人間と一緒に旅をしてはたまらないと思っていたのである。自称聖人ペトエルは、どうしても一緒に旅をしたくないというので、イエスは
「兄弟よ、神様の祝福がありますように」
と言って、ペトエルから離れていった。
このあたりでは、旅人が休んだり眠ったりするのは、暑い真昼の頃である。盗まれるような物を持っていない時には、日没後も旅を続けるのである。月が上がり始めるころ、イエスは心地よい眠りから目を覚まし、月光の中を歩き始めた。しばらく行くと一組の男女と一緒になった。
男は女の数メートル先を歩き、ずた袋を背負っていた。女は幼児をおんぶしながら、よろめくように歩いていたが、ついに倒れてしまった。彼らは砂漠の国境あたりからやってきて、すっかりやつれていた。女がしきりに「イクサ!」と呼んでいた男にイエスが声をかけたが、そっけないそぶりを見せるだけであった。
幼児が泣き始めたので、後ろを振り向くと、女が倒れていた。イエスが駆け寄ってやさしい言葉をかけ、背中の幼児をおんぶしてあげようかと申し出た。
イエスが幼児の顔をのぞいてニッコリ笑うと、幼児はたちまち泣き止み、おだやかな顔になった。イエスは女に水を飲ませ、幼児の面倒をみたので、女はすっかり元気をとりもどし、ポツリポツリと自分の身の上を話し始めた。
イサクと結婚して荒野の果てに、ひとにぎり程の土地を耕していたのであるが、凶作続きで悩まされていた。
悪いことは重なるもので、ある日のこと盗賊の一味がやってきて、彼らの小さな家に火をつけ、わずかな持ち物までもすべて奪われてしまった。その後も干ばつが続いたので、イサクはついに力尽きてしまい、なんでも恵まれている王の都エルサレムに行こうと言い出したと語った。イエスはため息をつきながら女に言った。
「私は前に王の都に住んだことがあります。そこには飢えと不毛しかありませんでした。そこへいくと、ガリラヤには、暖かい人々がいて、静かな緑野が広がっています。どうですか、私と一緒にガリラヤへ行きませんか。
緑野は、ふんだんに小麦、オリーブ、ブドウ酒を産んでくれます。あなたの夫はそこで仕事を見つけ、一家が食物と喜びに満たされるようになるでしょう」
二人の話は次第にはずんできた。荒野で生まれた娘の将来のことなどを話しているうちに、女の足も軽くなっていった。
突然彼女の夫が立ち止り、後ろを振り向いてイエスに子供を背中からおろすように命じた。イエスはその通りにしてから言った。
「母親の体力が弱っていますから私におんぶさせてください」
夫イサクは妻に向かって、みだらな奴だとののしり、イエスの顔の左側を思い切りたたき、地上に倒してしまった。妻は夫にイエスを叩かないように哀願した。彼の顔がまるで野獣のように腫れ上がってしまったからである。イエスはよろよろと立ち上がりイサクに言った。
「兄弟よ! 左の頬っぺたを叩いたように、右の頬っぺたも思い切り叩きなさい。それで気が晴れるのなら」
イサクは大声で叫んだ。
「おまえは臆病者の上に、おれの妻をたらしこもうとしてるんだろう」
「とんでもない! 私よりも弱りはてているあなたをぶちのめすことと、あなたが元気な私を叩くことと、どちらがたやすいと思いますか。私の霊が〔他人の重荷を背負いなさい〕と告げているのです。さあ、どちらがやさしいかを答えてごらんなさい!」
イエスが話している間、彼のほほの裂け目から血が流れていた。毅然として彼に語りかけているイエスの姿を見ているうちに、この野蛮な男は路上にすわりこんでしまった。思いもよらないイエスの態度に驚いてしまったからである。
同時にイサクは、イエスがただならぬ人間であることに気がつき、これ程汚れのない真っすぐな人はいないこと知った。イサクは言った。
「あなたは乞食のような恰好をしておられますが、本当に勇気のある気高いお方です。とんでもない乱暴をしてしまいましたことをどうかお許しください」
イエスはほほ笑みながら、今までどおり子供をおんぶして歩き始めた。イサクはこれ以上イエスに迷惑をかけたくないと思っても、イエスがあまりに陽気にふるまっているので言い出すことができなかった。
彼らは、なおも旅を続けた。その夜は、ある馬小屋で一緒に寝ることにした。次の日も旅を続け、イエスは子供をおんぶして歩き、イサクの熱心な話に耳を傾けていた。
イサクは小さな子供の時から親に叩かれ、飢えに苦しみ続けてきたことを語った。死海の周辺の土地は干からびて、ほんのわずかな作物しかとれず、農夫はいつも食料不足に悩まされ、死の恐怖にさらされているのだそうである。イサクは暗い声で言った。
「わずかな食料をためておいても、いつも強盗がかっさらっていきます。だから私はだれをも信用しないどころか、近づいてくる者はみんな泥棒に見えるのです。それで近づいてくる者を叩きのめして自分を守るしかないのです。今も私はすっかりあなたのことを誤解して、妻の手から子供をさらっていくのではないかと思い、乱暴をしてしまったのです」
イエスはなるほどと思った。しかしイサクはなおもかたくなな性格を改めようとしなかった。イサクは自分のいだいている夢を語った。
「エルサレムには何でも豊かにあるのです。私はそこで仕事をみつけ、宝を手にしたいと考えているのです。私はなまけものではありませんから、朝から晩まで働きたいのです」
イエスは答えて言った。
「エルサレムには、あなたのように夢見る者が大勢おります。彼らは一日中よく働いてもわずかな給料しか貰えず、家族のためのパンを買うぐらいしかないのです。それよりも、私と一緒にガリラヤへ行きましょう。
エスドラエロンの緑が果てしなく広がっていて、そこから労働者たちは、くさるほど穀物の収穫を得るのです。ガリラヤの北の方へ行くと、ブドウやオリーブの実がたわわとなっているのです。あなたもそこへいけば、宝物ではなく必要なもののすべてと喜びを見つけることができるでしょう」
しかしイサクは、妻がどんなに願ってもイエスの勧めを受け入れようとはしなかった。イサクには、いまだにエルサレムの宝のことがすてきれず、ついにイエスの手から子供を引き離し、エルサレムの方へ向かうと言ってきかなかった。
イエスはこの夫婦に暗い影がさしているのを見て心は重かった。ろくな目にあわないことが分っていたからである。女はイエスに祝福の祈りを求めた。そして彼女は言った。
「私たちは、この方が示して下さった素晴らしい忍耐力をみならわなくっちゃね!」
女は地にひれ伏し別れを告げた。イエスは手を挙げて祝福した。
「女よ、この世では得られない平安がいつまでもあなたとともにありますように」
女はなにも言わず夫のあとについて行った。イエスは突き出た崖の上に立って、彼らが歩いている姿を見ていた。この時は、夫が幼児を抱いていた。イエスの霊力によって観察された夫婦の暗い影は、まことに凶事となって現れた。
エルサレムに行ったイサクには、彼のような農夫を雇ってくれるところは全く無かった。夫婦は力尽き、幼児はついに病死してしまった。母親もひとかけらのパンも尽きて餓死してしまった。大勢の群集の中にあっても、女は穏やかに息を引き取ることができた。それはイエスの祝福のお蔭であった。
第4章 ナザレの家族たち
ナザレでは、ヨセフの家は栄えて豊かであると、もっぱらの評判であった。それは、マリヤが気の毒な人々に心から親切にしていたからである。しかし村の人々が考えているほど楽な暮らしではなかった。乞食がやってくると、マリヤは手ぶらで彼らを去らせることはなかった。
次男のトマスは、今では一家の大黒柱であったが、母が乞食に親切であることに文句を言った。イエスが荒野に行ってしまってからというものは、貧者の手助けをすることによって自分を慰めていた。そのために、マリヤは生活を切り詰め、食べ物さえもろくにとらず、本当に飢えている人々に与えようとするのであった。
その上、夜おそくまで機(はた)を織り、町からやって来る行商人に買ってもらい、小銭を貯めては病人や困っている老人に救いの手をさしだすのであった。
ガリラヤの女たちは、中年になると太ってくるが、マリヤは例外で骨が見えるほど痩せていた。それで働き過ぎた時など空腹でしばしば倒れるのであった。そのたびにトマスは小言をもらすのであるが、母はやさしく言うのである。
「ねえトマスや、ガリラヤの人々はみんな一つ家族なのよ。たとえ乞食であろうと、従兄弟のように思わなくちゃね。おまえもよく知っているだろう、血を分けた者が飢えていたり、ボロをまとっていたら、助けてやるじゃないか」
トマスは言った。
「だけどね、お母さん! おれたちが稼いだものは、うちの家族のためにとっておかなくちゃ! 凶作のときのためのもね」マリヤは言った。
「前にイエスが家にいた頃にこんなことを言っていたよ。〔明日のことを心配することはない。明日は必ず何とかなるものだよ〕てね。それからまた草むらの中から一本の白い花を抜き取って見せて〔ほら! この花を見てごらんよ! 天の御父がすべての生き物を養っていて下さることが分るだろう。神への信仰があれば明日のことをくよくよ考えなくてもいいんだよ〕とも言っていたよ。
そのときはまったく馬鹿な女だったからイエスの言っていることが分らなかったのさ。でもね、いまになってそのことが分ってきたんだよ。素晴らしい真理なんだよ。〔我々はみんな一つの家族、そして我々はその枝である〕ってね」
マリヤは最後の言葉を何度も繰り返し、溜め息をつきながら言葉をきった。
トマスはイエスへのねたみを感じながら言った。
「おやじが寝込んでから、もう四年にもなるんだぜ! 手足が動かず、ベッドから起き上がることもできないんだよ! 僕も弟のヤコブも一生懸命働いて、おやじの面倒を見、家族を支えているというのに、兄貴は家出して家のために何一つしてくれないじゃないか。家族のことをほったらかしにするような浮浪者なんかどうでもいいじゃないか!」
マリヤはトマスのねたみを感じながら言った。
「トマス、よくお聞きよ。おまえの父ヨセフの職業は立派で、とても繁盛していたじゃないか。それをそっくり引き継いで働かせてもらっているのはお前とヤコブだよ! しかもこの家から長男イエスを追い出したのはどこの誰なのさ! お前じゃないか! あのときにお前が父さんに言ったこと覚えていないのかい!
〔僕を取るか兄貴をとるか〕と父さんに迫ったのはお前じゃないか! 母さんはね、今でもイエスがどこに居るかが分かれば飛んでいきたいのよ、ティベリヤでもどこでも行きたいんだよ! 腹黒いナザレの大先生〔律法学者〕のワナにかけられた時も、イエスはガリラヤから出ていったんだよ。
村じゅうの人々からこっぴどくやられたのはイエスのせいじゃないことは分かっているんだよ。トマスや、よーくお聞きよ! 私の長男イエスはたしかに変わり者で、ときどき変なことを口走ることがあったよ。でもね、このことに関しては(イエスの家出)イエスが本当に家族のことを思っていたからだということを考えてみるんだね!」
トマスは口をとがらせながら言った。
「母さんはイエスのことを一番愛している。僕なんか母さんのためにどんなに働いても、いつも二番目なんだから」
「馬鹿な子ね! お前も本当に良い息子として愛しているのに。でもね、だれも風向きを変えられないように、霊のおもむく愛の方向を変えることができないんだよ」
マリヤは心おだやかに言葉を結んだ。トマスは腹をたてながらも母の言うことには何一つ逆らうことはできなかった。幸いイエスが家に戻らないので、彼は内心満足していたことも事実であった。しかしいったん心の内に芽生えた憎しみというものは、雑草のように大きく成長するのである。
憎しみの感情を少しでも和らげるために、まだ成人していない弟セツに当たり散らすのであった。セツはまだ十六歳の少年でどこか風采がイエスに似ていた。それでセツを見ていると、どうしても兄のイエスのことが思いだされ、セツに八つ当たりするのである。
トマスにはサラという妻がいて、家族のことはみんな彼女にまかせていた。サラは生来の怠け者で、いつもゴタゴタの種であった。まるで草むらにひそんでいる蛇のように残酷であった。
おしゃべりで、いつも不平をならし、夫のトマスをそそのかしては、庭付きの大邸宅に住みたいとうるさくせがむのであった。夫のトマスは友達に借りた金を返済するために、がむしゃらに働かねばならなかった。
ある日のこと、弟のセツがトマスの所へやってきて、ルツという女の子と結婚したいと言い出した。ルツは貧しい未亡人の娘であった。トマスは、まだ見習い期間中だから、あと二年間働かねばならないと言った。更にまた、借金があるうちは、これ以上家族の人数を増やすわけにはいかないとも言った。
セツは言った。
「僕はもう子供じゃない。一人前の男として自分が決める権利があるんだ。両親さえ許してくれれば僕は結婚したいんだよ」
そこでトマスはふせっている父ヨセフのところに行き、セツの結婚を許さないように説得した。しかしマリヤは言った。
「私は結婚の邪魔はしないわよ! そんなことをすればセツは家から出ていって、それは酷い生活を始めることになるわよ。彼のような若い者には、とても辛い世間だからね」
マリヤには、トマスがイエスを追い出してしまった苦々しい思い出が鮮明に焼き付いていた。またもやセツまでも家から追い出してしまうことは絶対にしたくないと思った。その夜マリヤはセツを説得したが、セツはどんなに頼んでもあと三箇月なら待ってもよいが、トマスの言う二年間はとても無理だと言い張った。
マリヤの生涯には心配が尽きず、ついにセツは家を出てルツと結婚すると宣言したのである。マリヤは、セツには生活力が乏しいので家族を支える力のないことをよく知っていた。それからは、マリヤにはいつも休まる時が与えられなかった。ちょうどその頃、イエスは砂漠からガリラヤへ向けて旅を続けていたのである。
第5章 家族との再会
ガリラヤの山々や谷間は、日没の美しい輝きの中で、金色と朱色の花輪飾りにおおわれているように見えた。その輝きの光景の中にイエスの姿が映っていた。村の入り口あたりで水差しを運んでいる女が歩いているのが目にうつった。イエスは昔から老人と女性には優しかったので、彼女のそばに駆け寄り、水差しをもってあげましょうと申し出た。
その女は顔を上げ旅人にほほ笑みかけた。すると突然、彼女の微笑は泣き声に急変した。イエスが腕でしっかりとだきしめながら言った。
「お母さん! お母さん! 私ですよ! 家に帰ってきたんですよ!」
あくる朝、二人は野原へ行って木の下に腰をおろした。二人ともあふれるような喜びの気持ちを抑えながら話した。
それでもマリヤの声は鳥のようにはずんでいた。その声がイエスの心にしみわたるのであった。それは喜びの極致であった。
「ねえイエス! お前の声はすぐわかったわ。でもお前の顔はすっかり大人になっているので本当に分からなかったわね。ナザレを出ていった頃とはまるで違うんだもの」
マリヤの言ったとおり、イエスの顔は樫の木よりも浅黒く、砂漠の焼け付く陽光によって真っ黒に日焼けしていた。余り上背はなかったが、堂々たる男に成人し、目の輝きには威厳があった。マリヤはこのような息子を産んだことにしみじみと誇りを感じた。二人は、日が没し月が上がってきた頃には全く一つに結ばれていた。
後になって、この時の思いでを弟子のヨハネに次のように語ったという。
『あの時が私の生涯にとって最も嬉しい時であった。心が全く一つにとけあっていたので、何ひとつこの世の煩いが侵入してくることがなかった』
月が丘の上高くこうこうと姿を現す頃になって、マリヤはしばらく黙りこくっていた。満たされた思いに満足していた。それから彼女は、今までのことについて語り始めた。ヨセフの病気のこと、医者からも見放されてしまったことなどを話した。さらに、トマスとセツの兄弟喧嘩、サラが妹いじめをすることなどをつけ加えた。
イエスは母に何とか家中の者がみんな円満に暮らしていけるように努力することを約束した。母は言った。
「だけどトマスのことが心配なの。きっと、おまえを歓迎しないと思うわよ、なんといっても頑固なんだから。おまえがナザレに居た頃のことを思うと本当に自信がないわ」
イエスは言った。
「すべては時が解決してくれますよ。そんなにくよくよすることはありません。トマスには特に用心してかかりますからね。私はね、お母さん、平和をもたらすために帰ってきたんですよ。でもまだ私の本当の使命を果たす時はきておりませんけどね」
マリヤはこの言葉を聞いて安心した。案の定、イエスが家に帰ってからサラの心をとらえ、とても良い印象をみんなに与えたので、サラの心は静まり、トマスもイエスを快く迎え入れた。
イエスがナザレの家に帰ってきてから、家中の者が喜びにつつまれ、ぎくしゃくする者は一人もいなかった。セツとトマスでさえ仲良く話し合っていた。イエスはまた一銭のお金も受け取らないでトマスの大工仕事を手伝った。トマスも長男が心から協力してくれることを喜び、とても鼻が高かった。
イエスはすべてのことにおいて控え目にふるまった。ただ母マリヤにだけは親愛の情を傾けていた。家の中では自分が長男ぶることを一切さけ、家の主人はトマスであるという態度をとり続けた。そんな訳で兄弟たちは次第に自分の悩みをイエスに打ち明けて相談するようになり、イエスも根気よく話を聞いてやった。ただ聞くだけであった。
セツはイエスのもとにやってきて、相談をもちかけた。
「お兄さんが帰ってきたので母さんがとても喜んでいますから、僕の結婚も許してもらえると思うんですが」
イエスは、今までのいきさつをすべて聞いてからセツに言った。
「おまえは、トマスにあと二年間働くと約束したそうだが、どんな事情があるにせよ、それを破るのはよくないのではないか」
「だけど母さんは許して下さいました」
「この家をきりまわしているのはトマスだ。いくら母さんが許してくれたとしても、トマスの許しがなければ駄目なのではないか」
セツは苦しみながらわめいた。
「約束だのなんだの、もう僕には通用しないんだ! ルツと一緒の時だけが僕の慰めと生きがいなんだよ! もう二年も待てないよ!」
イエスはじゅんじゅんと話してきかせ最後に言った。
「セツよ、本当の愛は肉欲をすててしまうことなんだよ。おまえは恋する人のそばに朝な夕な行きたいと思っているだろうが、本当に彼女を愛しているならば、おまえが一人前になって、正式に求婚する時が来るまで待つことなんだ」
セツは顔をしかめながら熊のように歩きまわった。セツは叫んだ。
「もう聞きたくない! 兄さんだっておれのことを止められやしない! もう待てないんだよ。おれだって一家を構えて妻を食わしてやれることぐらいできるんだ!」
イエスは手に持っていた棒で土の上に文字を書きながら言った。
「あるところに数人の男がいた。彼らはこの世の何よりも女をあさっていた。彼らは肉欲を満たすために、あちこちで盗みを働いたり、人をだましたりして次第に堕落していった。
こういう男たちは、女性を尊敬することができない輩なんだ。自分の名誉を守れる男は、女性の名誉も守るんだよ。人間は愛と欲とをよく見分けることが大事なんだ。欲望は己を滅ぼし、本当の愛は、いつまでも誠実を保つ、これだよ」
イエスはほほ笑みながらセツに言った。
「くどいようだがね、本当の愛は肉欲を捨ててしまうんだよ」
セツは冷静になっていた。次の日には、イエスの言ったことが心の奥深く残っているのを感じていた。
多くの女たちもイエスのところに相談にやってきた。若い女も、年を取った女もいたが、すべての女たちに対してイエスは全く平等に扱い、優しく振る舞い、よき相談相手になっていた。イエスは女の見てくれなどにはまったく関心はなく、良き友人として耳を傾け、あらん限りの誠意を示していた。ある女たちは、イエスを誘惑しようとしたが、全く無駄であった。
数日が過ぎてまたセツはイエスに言った。
「僕はね、兄さんのことをじっと観察してたんだ。それで兄さんが言ってた愛と欲望は違うものなんだということが分るようになったんだ。だから僕は兄さんの言うことに従う決心をしたんだよ。
トマス兄さんに約束したとおり、一生懸命やってみるさ。約束を果たしてからルツの所に正式に結婚を申し込みに行くよ。それまでの間僕の意思がくずれないよう僕を見守ってください、兄さん」
イエスは今すぐにそのことを母に伝えるように言った。母マリヤは、セツの言うことを聞いてびっくりした。イエスのおかげでセツが立ち直ったと母は嬉しそうにトマスに伝えた。家の中は、喜びと平和がみなぎっていた。
トマスの妻サラだけが悪の根源であった。彼女はセツの悪口を夫に告げ、自分をひどくいじめるなどと作り話を耳打ちした。更に悪いことに、セツが仕事を終えてからルツとこっそり逢引きしているなどとタチの悪い作り話を夫に告げた。サラにそそのかされたトマスは、セツに口もきかず、ひどい仕事だけをやらせた。
しかしイエスを模範としていたセツは、どんなにきびしい仕打ちを受けても我慢することができた。
ある日のこと、急にトマスは、口を開いてセツを「ウソつき」「馬鹿者」と、罵り始めた。
セツは叫んだ。
もうこんな家にいたくない! おれは、おまえの奴隷じゃないぞ! 馬鹿とは何だ! あまりにもひどいじゃないか!」
トマスはたて続けに罵倒したので、セツはいたたまれず、オリーブの林へのがれて行きサメザメと泣いた。トマスの横にはイエスと母マリヤがいた。母の厳しい表情を感じながらイエスは言った。
「故(から)なくして兄弟を怒る者は神の審判(さばき)にさらされるであろう。しかし兄弟に対して馬鹿者とののしる者は地獄に落ちるであろう」
トマスはこの言葉を聞いて、ますます怒り狂った。
「おれがここの主人なんだ。おれにたてつくなら、ここからたたき出してやるぞ! 黙れ! さっさと自分の仕事をやるんだ。二度とおれに刃向かうんじゃないぞ!」
しかしイエスは黙っていなかった。
「実の弟をののしるなんて、全くあきれたもんだ! セツの心はひどく傷ついてるから、このままでは家を出ていってしまうだろうよ。しかも、この恨みをあちこちにばらまけば、我が家のいい恥さらしになるだろうよ。これでおまえの仕事もおしまいだね。こんなおまえだと分かったら、みんなおまえから離れていってしまうからね。一つの国が分裂したら必ず滅びるものだ。家庭も同じだ。分裂する家は必ず滅びてしまうんだよ」
イエスはほほ笑みながらトマスに言った。
「さあ! おまえの心のなかから憎しみの感情を追い出してしまいなさい! そして今すぐセツのところに行って誤ってくるんだね。そうしたら又平和な家庭が戻ってくるだろうよ」
トマスは仏頂面をさげて仕事場からすごすごと出て行き、オリーブの林に向かった。セツを見つけてから、許してくれと懇願した。二人はいままでの事を水に流して、もとの仲になった。しかしトマスの心中はおだやかではなかった。母や弟ユダ及び使用人の面前でイエスに恥をかかされたからである。
その頃イエスは、全身から神秘的な輝きを放つことがしばしばあり、彼のもとへやって来る多くの人々に勇気と喜びを与えていた。
時がたつに連れてトマスの恨みも朝露が太陽に照らされて蒸発するように次第と消えていった。妻のサラだけが相変わらず悪の種であった。彼女はどうにかしてみんなから慕われているイエスを自分の虜にしようとたくらんでいた。
イエスは丘の斜面に立って大勢の人々の相談にあずかっていた。斜面の草むらで車座に座り、一つの大家族のようであった。子どもの問題や様々な悩み事、あるいは病気のことで相談を受けた。一人一人の母親に与えられる手短な答えは、まことに的確で、その言葉は、宝のように大切にされた。
話し合いが終わるとイエスは子供たちと遊び、折にふれて神の創造にかかわる真理をたとえ話にして聞かせるのであった。自然界の生命、例えば種から芽が生じ、葉がはえて花が咲くといった植物の神秘、彼がアラビアの砂漠で経験したあらゆる出来事、彼をアラビアへ導いてくれた不思議な星の光、狼から羊をまもるために生命を落とした羊飼い、鳥、けもの、人間、王様、次から次へと尽きることなく、素晴らしい話を聞かせるのであった。
イエスの話には、必ずためになる真理が含まれており、話を聞いた直後には、この意味は、ああだ、こうだとしきりにささやきあっていた。どの話も、神の深い慈悲を感じさせる内容ばかりであった。
さて、イエスの夕べの集まりのことが伝わると、あちこちから問題を解決したいと願っている女たちが集まってきた。
特に悲嘆にくれている女や、卑しいと見られている女が、何日も旅をしてやって来るようになった。そんな様子を見たサラは、始めのうちはイエスを好いていたのであるが、次第に妬むようになり、ついに憎むようにさえ変化していった。そこでサラは夫に言った。
「表情の良くない女や、卑しい女が夜イエスのところにやってくるそうよ。きっと悪いうわさがたつようになると思うわ。そうなれば、あなたの仕事に傷がつき、仕事ができなくなるんじゃないかしら」
トマスはこのことを母マリヤに話した。そしてこのような集まりを続けるなら、ここから出ていってもらうと言い出した。大事な息子を失うまいとして、マリヤはそのことを伝えた。彼女は、女たちを集めないで、同じ年輩の男たちを集めたらどうかと勧めた。
「子供たちがパンを求めているのに、どうして与えないでおられましょうか」とイエスは言った。
マリヤは悲しかった。イエスが民衆のために実に素晴らしい働きをしていることを知っていたからである。イエスの働きによって、苦しんでいる民衆がどんなに救われていたことであろう。しかしイエスは、母親の涙を見て、マリヤの勧めに従って、夕べの集まりを中止することになった。
イエスは、すかさず、この原因は悪女のサラの陰謀であることを察知した。それでイエスはサラと話す時は、「はい」と「いいえ」だけで応対することにした。サラはもっと困らせようと夫トマスをたきつけた。トマスにイエスを追い出す考えを止めさせ、もっと家のために働かせようという魂胆であった。
みんなの仕事が終わってから、なおもイエスを職場に残らせ、ランプの灯のもとで難しい仕事をさせようというのである。母の協力もあって、イエスはしごく愉快に困難な仕事をやってのけた。サラは内心この計略は失敗したと思った。なんとかイエスの心をかき乱してやろうと思ったのであるが、彼はいつでも平然としていた。
彼女に対する態度はつねに丁寧で、変わったことと言えば、彼女が何を話しかけても、ただ、「はい」と「いいえ」が返って来るばかりであった。
さて、イエスはある安息日に、タボル山の頂上に登った。そこで夕方まで祈り続け、天の御父と深く交わっていた。
イエスは山から降りてナザレの近くまでくると、突然、嵐になり、あたりは真っ暗になった。しかし彼の頭や体からは、こうこうと光を放っていた。マリヤ・クローバス(イエスの叔母)がやってきて、イエスの姿を見て驚いた。彼女は道端にひざまずき、礼拝するような恰好でイエスに言った。
「あなたは神様をごらんになったのね」
第6章 父と母に孝養をつくす
ある週の三日目(火曜日)のこと、一人の金持ちの商人が職場にやってきて、イエスにあって話したいと言った。イエスの評判にはトマスも頭が上がらなかった。もしかしたら大きな注文が入るかもしれないと思った。トマスは早速イエスの着ているボロ服を脱がせ、自分の晴れ着を着るように言った。
イエスは言った。
「そんなことをする必要はない。人は見かけではなく、内なるもののいかんによって、その人の値打ちがきまるんだからね」
イエスは商人に挨拶をかわし、商人の要請によって、二人きりで話し合うことになった。商人がイエスに言った。
「私は、ある晩、妻と一緒にあなたの集会に来たことがあるんですよ。大勢の女たちがあなたを取り巻いていましたね。私たちは、あなたの深い知恵にびっくりしたのです。私がその時に体験したものは、悲嘆にくれていた女たちにお与えになった平安でした」
イエスは尋ねた。
「あなたは一体何を言いたいのですか」
「はい、実は、あなたにカぺナウムにある私の家で一緒に暮らしていただきたいのです。たくさんの人が私の店で働いています。あなたが家に来て彼らの監督になっていただきたいのです。そうすれば家の者ぜんぶがあなたの平安を受けられるではありませんか」
こんな申し出を受けたとき、イエスは内心一つの考えが浮かんだ。収入の道が開かれれば、マリヤや兄弟たちを引き取って、悪の根源となっているトマスとサラから引き離して、平和に暮らせるではないかと思った。イエスが返事をしかねているのを見て、商人は三週間目にまたやってくるから、その時に返事をもらいたいと言った。
トマスが一緒に食事をするように勧めても、そんなことには一切ふり向きもしないで、商人はさっさとカペナウムに帰っていった。
この時期は仕事が多く、なかなか自分が一人になって瞑想する時間がとれなかった。せいぜい父と母と話すのが精一杯であった。イエスと父ヨセフの間には決定的な溝があった。
ヨセフは善良な人間ではあったが、イエスが少年のころ変わったことを言っては人々のひんしゅくをかっていたからである。でも今ではイエスが父の病床に座り、言葉少なに慰めてくれるので待つようになった。
ある晩のこと、ヨセフはついに自分の悩みをイエスに打ち明けた。
「わしは毎晩ねむれなくて困っているんだよ。十字架の上で殺される男のうめき声を聞かされるんだ。どうもがいても、のがれられず、まいっているんだよ。わしが昔犯した罪のむくいかもしれんがね」
うなされる夢についてヨセフは説明した。昔ガリラヤの山に立て籠もったユダが、ローマの権威に逆らって反乱を起こしたときの光景から話した。
「我々が憧れていた一輪の花がローマ帝国の支配をはねのけてイスラエルを救い出そうとした。しかし当時の領事バールス(B・C・十三年、シリヤの総督をつとめ、巨額の富を得た。その後紀元七年ころ、今のドイツ地方の総督となった人物───スミス歴史辞典より)が軍隊を引き連れてガリラヤの山に立て籠もった者たちを虐殺してしまった。
ろくな武器しか持っていなかった若者たちは、重武装のローマ軍の前では、ひとたまりもなく潰されてしまったんだ。少しでもユダに関係した若者たちがひっ捕らえられ、十字架で死刑になった。ローマの百卒長(百人の部下を率いる隊長)がわしの職場にやってきて、若者たちをはりつけにする木の十字架を作れと命令しやがってな、わしは煮えくりかえる思いをしたんだよ。妻や子供がいなければ、わしはその命令をはねつけていただろうよ。
百卒長は剣を抜いてマリヤと子供たちを脅かしやがった。ああ!なんと情けないことよ!わしは恐ろしさのあまり、ローマ人の言うなりになって、わしが長い間つきあっていた多くの友達をはりつけにする十字架を作ってしまったのだ。
なあ、イエスよ、こうしてじっとしていても、友達をはりつけにした十字架が目の前に現れ、血のような汗が体から噴き出している光景が延々と続くんだよ。どんな祈りをしても自ら墓穴を掘った絶望の穴からはい出すことができないんだよ。そばで寝ているマリヤの邪魔にならないようにと毎晩一人でもがいて苦しむんだ」
ヨセフは一刻も早く忌まわしい夢から解放されたいとわめいた。
イエスはヨセフが静まってから、ヨセフの心が癒されるような話をした。するとヨセフは、心が休まる思いがした。
「おまえの話を聞いていると、今までに味わったこともないような平安がやってきて、実に心なごむ思いがするよ。だがな、おまえがわしのそばに居ないときはどうすればいいのだ?また若者の亡霊におそわれるかもしれないじゃないか」
イエスは父に言った。
「悪霊がいたずらをしてるんですよ。彼らは信心のうすい人間の肉体を狙っては襲ってくるんですよ。心の内部を清めておかないとだめなんです」
そこでイエスは立ち上がり、大声で叫んだ。
『天の父なる神の名において、命じる!悪霊よ、この体から出ていけ!もう一度おまえに命じる。天の父なる神の名において、ここから出ていけ!二度と来るな!』
父ヨセフは、以前イエスが神の名を口にすることをひどく叱ったものであるが、この時ばかりは、何とイエスの声がラッパの響きのように快く響いた。ヨセフの手足が震えた。しばらく震えが続いていた。死んでしまった筈の手足に再び生命が戻ってきたのである。イエスは素早くその動きを見た。そして霊力が加えられたことを知った。
ヨセフは大きな溜め息をついてから深い眠りについた。翌朝までぐっすり眠った。マリヤが朝食の支度に部屋から出ていってから、イエスはヨセフの所へ行った。ヨセフは嬉しそうに言った。
「わしは夕べ何も見なかった」
イエスは言った。
「十字架にかけられた兄弟たちは休息しています。兄弟たちの霊をそそのかしていた悪霊はもう行ってしまいましたからね」
それからというものは二度と若者たちの凄惨な姿が現れることはなかった。イエスは父のために、当時老人や病人をしばしば悩ましていた悪霊を追い払ってしまったのである。母マリヤは、イエスの陰でヨセフが安眠できるようになったことをとても喜んだ。そこでイエスは例の商人が提案してきたことをマリヤに話した。
そして親子兄弟がトマスと分かれカペナウムで一緒に暮らそうと言った。その話を聞いたマリヤは悲しそうに答えた。
「息子よ!それだけはできない相談だわね。そりゃ私は何度かそうしたいと夢にまで見たくらいだよ、でもそれだけはどうしてもできないのよ」
イエスはとまどった。彼は実行しようと決心していたからである。しかしその気持ちを抑えてマリヤに言った。
「どうして僕が母さんや妹たちによくしてあげることができないんですか?父のためにも最善をつくしてあげたではないですか。サラと別居すればどんなにみんなが救われるかご存知でしょうに」
マリヤはたたみかけるように言った。
「ねえ、イエス、本当はね、私はもうくたびれていれるのよ。この年齢になると、家の中のごたごたはもうたくさんなの。燕と鷹は同じ巣に住めないだろう。おまえがどんなに強い説得力を持ってヨセフにせまっても、おまえと一緒に住みたくないというでしょう。それにヨセフにとって、トマスは今でも目に入れても痛くない息子なのよ。
だからこの二人を引き離すことは、とてもできっこないよ。だから一緒になれないんだよ、イエス!」
マリヤは手をやさしくイエスの頬に当てながら説得した。
「たしかにおまえは他の男と違って思いやりがあることはよく承知しているわよ。商人の家で大勢の使用人の監督になったら、商人のことだから、あちこちに集金に行かせるでしょうよ。
その中には貧乏人もいて、わずかなお金でも、もぎ取って来いと言われたらどうするの。おまえはきっとそんなことはできず、結局その家から飛び出すことになるわよ。そしてまた放浪の旅にでかけるのが落ちよ」
この時のマリヤの言葉は実に当を得ていた。母思いのイエスは、それ以上逆らわなかった。
「そうだね母さん、あんな商人のところに行かなくてもオリーブ畑で働けばいいんだ」
「馬鹿ね、あんなところで働いても家計の足しにはならないわよ。それに病人の父さんをどうするのさ」
「明日のことは心配しないようにしましょうよ、母さん!野に生えていて咲いている花を見てごらんよ、天の御父がちゃんと養っていてくださるんです。野草は労働するわけではなく、紡いで花を織っているわけでもありません。僕の言っていることを疑っているんですか?天の御父をもっともっと信頼することですよ」
母マリヤはイエスの申し出につて、義妹のマリヤ・クローパスのところへ相談に行くと言い出した。母の気持ちを変えられないことを察知したイエスは、その足で商人のところへ行き、例の話は取りやめにすると伝えた。せっかく家のためを思って話を進めたイエスにとっていささか傷心の思いであった。
ずっと後になって、このいきさつを聞かされたイエスの弟子ヨハネは、イエスの亡きあとに母マリヤの杖となり、妹には父がわりになって心から尽くしたということである。
第7章 母との別離
イエスはもはや弟トマスの言いなりになる生活を止めた。彼は夜の集会に熱心に来ていたエルダド(妻の名はエステル)のもとに行くことにした。エルダドは、たくさんの畑を持っており、秋には莫大な小麦の収穫をあげていた。
夏のある朝、イエスはこのことを母に告げた。母は青ざめてしまい、慰める言葉もなかった。母マリヤは再びイエスを手もとから離したくなかったからである。夕方になって、トマスはイエスにここから出て行かないでほしいと言った。
その頃トマスは、すっかりイエスに対する妬みが消えていた。今まできびしく守らせてきた時間制限をはずし、全く自由にしてもよいと言った。しかしどんなに引き留めようとしても、イエスは聞きいれなかった。母は後生だからその理由を聞かせて欲しいと哀願した。今度でイエスの家出は三回目にあたるのであった。
「母さん、少しでもこの家に平和を保たせるためです。僕がこの家にいないほうがずっと平和なんです。肉体を傷つけようとする者を恐れるのではありません。魂を傷つけようとする者を恐れているのです。私がこの家に居れば、必ずあのサラが母さんを苦しめ、痛めつけるでしょう。
あの女が母さんをいじめるたびごとに、僕の心は煮えくりかえるのです。そして僕の判断を、狂わせてしまうのです。僕たちは、やはり一緒に暮らせないのですね。きっとこうなる運命なのでしょう」
マリヤは反論できなかった。娘時代に天使ガブリエルの御告げを受けたマリヤは、すでに我が子のたどるべき道が備えられていることを察知していたので、もう留めることを諦め、立ち上がった。そして天の御父がいつでもイエスを守ってくださるようにと祈った。
このようにイエスは母に別れを告げ、次の日の朝、家を出て行った。その夜イエスは他の労働者と一緒に小さな納屋の中で泊まった。辛い日々が続いたけれども、イエスの心は実に爽やかだった。
霊的に満たされていたからである。特に夜は嬉しかった。サラのキーキー声も聞かれず、サラにいじめられている妹の騒がしい声もなかったからである。月が昇るときに静かな祈りをささげ、日の出とともに天使と御父との交わりがあり、だれ一人として邪魔する者がいなかった。ただ一つ母とともならぬ寂しさがあった。
二週間が過ぎたある安息日のこと、イエスが高原づたいにナザレに行ったとき、一度だけ母に再会したことがある。我が家から少し離れた所に古い楓の樹が立っていて、その樹の根元に腰かけながら話あったことがある。
しかし我が家には入らなかった。サラに見つかったら大変だと思ったからである。イエスは家から離れ、さすらいの生活を続けるのであった。
その後、風の便りによれば、サラは母マリヤに対してとても優しくなったと言う。母マリヤもやっと平和な暮らしができるようになったけれども、かえってイエスが与えてくれたすばらしい輝きと恵みを失ってしまったのである。
第8章 悪霊を追い出す
ゲルションという名のパリサイ人がカペナウムからナザレへやって来た。彼は博識の学者で、断食をしてはよく祈る習慣を持っていた。その生きざまは、みんなから尊敬され、特に悪霊を追い出す力で有名になった。パリサイ人の多くは、天国は楽しいところであると教えているが、ゲルションは全く反対であった。
彼はいつも仏頂面をして、口を開けば、災害が間もなくやって来ると預言をするのであった。悪霊を追い出すことに成功したときだけ顔が輝いた。
エルダドにはメダトという息子がいた。メダトには大変な悪霊がとりついて、どんな者が格闘してもメダトから離れようとはしなかった。父のエルダドは、この長男には人間の霊のかわりに野獣の霊が宿っているのではないかと心配した。エルダドはイエスに打ち明けて言った。
「私には二人の息子がおりました。一人はヨナタンと言って、とてもかわいい子でしたがとても残酷な死に方でこの世を去りました。もう一人の息子メダトには、悪霊がついていて、かの有名なゲルションに頼んだのですが、追い出すことができませんでした。悪霊がついてからもう五年にもなるのです。
妻はすでに子を産む年齢を過ぎてしまい、私には世継ぎの希望が断たれてしまったのです。生きる望みもありません」
ユダヤ人にとってこれ以上の苦しみは考えられなかった。イエスは心から同情して言った。
「あなたの息子と話をさせてください。たぶん悪霊を追い出すことができるかもしれませんので」
その頃のイエスは浮浪者だという評判がたっていたので、世間体を考えたのか、エルダドはせっかくのイエスの申し出を断った。エルダドは言った。
「ゲルションというパリサイ人がナザレに居ますので、もう一度その方にやっていただこうと思っております。あなたも一緒においで願いたいのです。祈っている間にメダトがあばれまわり、近くにいる人々に怪我をさせないように二人で押さえつけておかねばなりませんので」
月の光を頼りに、イエスは悲運な親子と共にナザレへ行った。パリサイ人ゲルションは、自分の力を大層自慢して、必ずメダトを正常な人間にしてやると豪語した。村の人々もやってきて、奇跡がいつ起きるかと固唾を飲んで見ていた。ゲルションは、屋外に焚火をつくり、生石灰を投げ込んで火力を強くした。
悪霊を火中に投げ込んで、二度と人間にもぐりこめないよう焼き殺してしまうのだそうである。この様子を見ていた年老いた律法学者は言った。
「ガリラヤ湖のほとりでは、悪霊は水の中で溺れ死にさせるんだがね。しかし水がないときには、火もまたよく効くもんじゃ」
父が息子をゲルションの前に連れていくと、メダトは全然口をきかず、黙っていた。彼はもの静かにふるまい、他の人々とちっとも違うところはなかった。
しかしゲルションが祈りの言葉を発し、悪霊を追い出すための呪文をかけようとしてから、突然口から泡をふきだし、この聖人を呪いだし、焚き火の中から燃え盛っている枝木をつかみ取り、大声で笑いながらゲルションの顔をめがけて投げつけた。それで三人の男がメダトを地上にねじ伏せ、動けないように押さえこんだ。
ゲルションは長い長い呪文の祈りをとなえた。しかし一向に効き目があらわれず、悪霊は前よりもしっかりとメダトに食いついていた。ついにゲルションは父に向かって言った。
「もうわしの手に終えんわい! こんなひどい奴を追い出せる奴は他におらんぞ!」
人々はこの大変な怪物を恐れた。父は着ていた衣服を裂いて、嘆き悲しむのであった。
しばらくしてからメダトがおとなしくなった頃、ゲルションは腕っ節の強そうな男たちに太い縄で縛りあげるように命じた。ゲルションは顔にやけどを負わされ、これ以上他人に危害が及ぶのを防ごうと思った。
そのとき、イエスは若者とメダトの間に割って入り、彼の縄をほどいてやり、優しくメダトに向かって話し出した。
『兄弟よ! 起き上がりなさい! 天の御父が私と一緒におられます。天の御父の御名によって汚れた霊に命じる! この人から出ていきなさい! 自分たちの住む暗黒の世界へ帰りなさい!』
しばらくの間、深い静けさが続いた。ゆっくりとメダトは立ち上がり、彼の大きな体をイエスの前に突きだした。不思議なことに、彼の肉体は笛のような美しい音を発し、両目からは大粒の涙が流れていた。大きな溜め息を吐いてから、彼はイエスの前にひれ伏し、両手を地につけて叫んだ。
「私をお救い下さった方よ!」
その叫び声はこの世のものとは思えなかった。それはちょうど死者が再び生き返ったときに、肉体をふるわせるような声であった。彼は二度と暴れることはなかった。彼は静かに目を上げながらイエスに言った。
「あなたは、どなたでしょうか? 預言者ですか? 永い間、暗黒の世界に閉じ込められていた私を呼びだしてくださった預言者エリヤですか?」
イエスはあわてて言った。
「違います、さあ、立ち上がってください。そして私と一緒に家に帰りましょう」
イエスはさっとふり向き、騒然として見物していた人々を尻目にしながら足早にそこを立ち去った。大きな巨人が、&vせた男の後について歩く様は、主人の後に忠実についていく犬のようであった。
集まっていた人々は、口々に神をほめたたいた。彼らはエルサレムからやってきた誇り高きパリサイ人ができなかった奇跡を、無名なナザレ人が成し遂げたことに感動したからであった。
ゲルションは、ナザレの村に昔からいる律法学者の所に滞在していた。この律法学者こそイエスが育ち盛りの頃、散々いじめぬいた腹黒い教師であった。この律法学者は、もはや年老いて、杖にもたれるように歩き、心は醜い体つき以上にひねくれていた。あちこちをうろついては毒ヘビのように悪意に満ちたうわさを善良な人々へ吹き込んでいた。
「わしは、奴のことをよく覚えておる。奴は安息日のおきてを何度破ったことか、数え切れぬ程じゃ。この頃は盗人たちと付き合いおって〝海の道〟とかいう岩山の中で暮らしているそうじゃ。奴が悪霊を追い出せたのは、悪魔の大王ベルゼブルの力にすがったからじゃ。大工のせがれには気を付けなよ! 奴は疫病みたいな恐ろしい悪党じゃからな」
このうわさが村中に広がり、腹黒い律法学者は、麦の生育を邪魔するアザミのような種をあちこちにばらまいて歩いた。
多くの者はパリサイ人を尊敬していた。それで人々は
「ゲルション様は日頃からよく断食をなさるそうだ、けれどもイエスは断食をしない。ゲルション様は礼拝堂ではとても素晴らしい説教をなさるそうだ」
とささやきあっていた。そんな訳で人々の間では、ゲルション以上に高貴で聖なる人はいないと思われていた。そこで腹黒い教師は、とどめを刺すように言った。
「ゲルション様が悪霊を追い出さなかったのは、悪霊同士で相打ちをさせるために、わざと手を出されなかったのじゃ」
悪いうわさ話は、あっという間に狭い村中にかけめぐった。
ナザレの人々は単純だったので、ことの善しあしはともかく、ただ中央(エルサレム)からやってきたパリサイ人というだけで崇めるのであった。
それから数日たってから、とんでもないことが起こった。みんなから頼まれたと称して霊のパリサイ人が、トマスの職場へやってきて隅から隅まで点検を始めた。
モーセの律法にどれだけ忠実に従っているかを調べるために、重箱の隅をつつくようないやがらせをしたのである。イエスに対する腹いせのため、トマスの家ばかりではなく、親戚にも手を伸ばす始末であった。
イエスの方は、実に快適な生活が始まった。大事な息子を癒してくれたというので、一家をあげてイエスに敬意をはらい、イエスも何の束縛もうけず、自由に過ごすことができた。
殊に癒されたメダトは、イエスの後にいつもついて歩き、農場では誰よりも熱心に働いた。メダトはイエスの勧めによって母によく仕えるようになった。水差しを運んであげたり、母のためには何でも喜んで手伝った。
以前のような呪いの文句を並べることがなく、とても丁寧な言葉使いをするようになった。そうこうしているうちに、メダトの心はぐんぐん成長し、家族の者や彼に接する人々のすべてから好感をもたれるようになったのである。
第9章 無慈悲な故郷
陽がさんさんとふりそそぐ農場では、脱穀作業が行われていた。竿で叩いては脱穀するのである。そこへ主人のエルダドが家から出てきて、イエスに話があると言った。二人が腰をおろすと、主人の頬に涙が光っていた。
それはどうやら喜びの涙ではなさそうだった。でもイエスは何も聞こうとはしなかった。それから主人にうながされて、エルダドの家に向かい、大切な客をもてなす客間に案内された。
そこには弟のトマスが待っていた。トマスは金持ちが好んで着用する立派な服を着ていた。イエスと言えば見るからに貧乏人のようなボロボロの服を着ていた。トマスの顔は引きつっていて、イエスを見るや否や口早やに言った。
「おまえのお蔭でおれはナザレ中の物笑いになっているんだぜ! おまえは暗黒の王子の家来なんだって!」
イエスは冷静に答えて言った。
「光の子らがついにこの世の子らになってしまったんだね。良い行いも彼らには悪に見えるんだね」
トマスは大声で叫んだ。
「黙れ! いつからおまえはパリサイ人や律法学者より偉くなったんだ!」
イエスは熱っぽく答えた。
「よく考えてごらん。パリサイ人や律法学者は、祈りが長ければ神に通じると思っているやからなんだ。ねえ、エルダド様! あなたのご長男は完全に立ち直られたのではありませんか? いったん失われた息子さんを私が立派にお返ししたではありませんか? ぜひ御答え願います」
すかさずエルダドは答えた。
「もちろんですとも。私は昼のことを夜などとは言えないように、神を悪といえないことはようく承知しております」
そこでトマスは態度を改めて言った。
「兄さん、乱暴な言い方をしてしまったが僕はとても心配なんだ。兄さんがメダトを治したというので、僕が受ける筈の注文が全部取り消しになってしまったんだ。
あの律法学者が村中に歩きまわって兄さんの悪口を言い触らし、悪霊使いだと吹き込んでいるんだ。だから兄さんがナザレから出ていかなければ、おれたちはどんなひどい目にあわされるかわからないんだ。本当に申し訳ないんだが、またナザレから出ていってほしんだよ。
エルダド様にも気の毒だが、ぐずぐずしていると若者たちがやってきて、この家に火をつけて焼き殺してしまうといっているそうだ。こんな善い方の平和をぶち壊してしまうなんて、兄さんだってたまらないんじゃないか」
イエスは尋ねた。
「母はなんと言っているのか?」
「母は黙りこくっているよ。出ていけとは言えないもんね」
エルダドが言った。
「使いの者をピリポ・ガイザリヤで商売している弟のところへ行かせることになっていました。この者には、多額の金を入れた財布を持たせ、弟に遺産を届ける役目を果たしてもらいたいのです。イエスよ、この役目を引き受けてもらえないでしょうか」
「そこで暮らせとおっしゃるんですね」
「そのとおりです。私の紹介状があれば彼は必ず雇ってくれますから」
イエスは承諾する意味もこめながら頭を下げた。エルダドの温かい気配りに感激した。エルダドはイエスに精一杯慰めようとして言った。
「律法学者はかなり年をとっていますから、憎まれ口をたたけるのもそんなに長くはないでしょう。近いうちに先祖の所へ招かれるでしょう。彼が死んでしまえば変なうわさも、あっという間に消えてしまいますよ」
「明日の夜明けに出発いたします」とイエスは言った。
恥と苦しみを感じながら、トマスはエルダドの家から立ち去り真っすぐ家に帰っていった。
イエスの成年時代は、このように孤独の体験から始まった。イエスは、故郷の人々に心をかたむけて天の宝を与えようとしたのであるが、彼らはそれを拒絶したのである。
エルダドはイエスに、いつかは必ず耳を傾けてくれる日が来ると言った。
「気を落としてはなりません。この世ではすべてが過ぎ去って行きます。悪いこともながくは続きません。いつかはあなたもナザレに迎えられる時がくるでしょう。私の母が申しておりました。神の使者は再びやって来ると。みんながあなたのことを崇めるようになりますよ」
「さあ、どうでしょうか。天の御父が目的をお示しにならないかぎり、私は何とも言えないのです」
エルダドはイエスが苦しんでいることがよく分かっていた。ナザレの人々の仕打ちが余りにもひどかったからである。
陽気な歌い手は、翌朝ここを立ち去ることになった。エルダドは溜息をつきながら、残酷な運命を嘆くのであった。
第10章 盗賊に襲わる
朝はやく、家の者が働きにでかけたあと、エルダドはイエスのために旅の支度をととのえた。ピリポ・カイザリアの山々は非常に寒いところなので、分厚い縫い目のないコートを用意した。
イエスのことを慕っている息子のメダトがこのことを知ったら、きっと一緒についていくだろうと思い、そっとイエスを旅立たせようとした。別れの言葉を言うまえに、この金持ちの農夫はイエスの前にひれ伏して言った。
「あなたこそ私の主人です。私はあなたのしもべです」
それからイエスに心からの祝福を求めた。イエスはしばらくの間だまっていたが、右手をあげて祝福を与えた。
今にも雨が降りそうな空のもとで、人々は農場で働いていた。冬が来る前に、穀物を取り入れて倉庫にたくわえる作業である。それで道路には、人っ子一人見られなかった。ただポツンとイエスとエルダド家の若者一人の姿だけが目に映った。若者の肩には食料を詰め込んだ袋がのっており、何やらイエスに相談をもちかけているようであった。
日が暮れてから、この旅人たちは〝海の道〟という街道にさしかかった。そこは別名〝鳩の谷〟言われ、大きな山々がそびえ立ち、まるで蜂の巣のような洞穴があちこちに散在していた。同行の若者アモンの話によると、反逆者がこの穴に隠れ、ローマ軍と戦ったことがあるのだそうである。
そのときローマ軍は、穴という穴を片っ端から探し回り、反逆者をつかまえては千尋の谷底へほうりなげ、みな殺しにしてしまったという。イエスは言った。
「いまは平和だね」
彼らの頭上を鳩の群れが大きな円を描きながら飛んでいた。はるか前方には、一群のキャラバンが、ラクダと共に通って行くのが見えた。たくさんの商品を積んで、ゆっくりと歩いていた。
すると突然平和な空気が破られ、つんざくような叫び声があがった。岩山の間に隠れていた盗賊が、キャラバンめがけて石を投げつけ、大きな石を山頂から転がし始めた。キャラバンの大部分の者は、盗賊にとびかかって戦ったのであるが、あっという間に殺されてしまった。
襲撃が終わり、あたりが静かになってから、二人はそこで一夜を過ごすことになった。袋から食べ物を取り出して食事をすました。イエスはおびえきったアモンを力づけ、眠りについた。
アモンは何時間も眠れずにいたが、眠り始めると何かにうなされ、大声をあげ、わなわなと震え始めた。イエスは何が怖いのかをたずねた。アモンは全身を震わせながら言った。
「行く末の夢を見ていたのです。山に住んでいる盗賊がやってきて、私が火で焼き殺されてしまうのです。全身炎に包まれ悶えている夢なのです」
イエスは一生懸命に彼を慰めるのであるが、なおも取りみだしながら叫んだ。
「私が見た夢はきっと現実となって現れるでしょう。悪いことは言いませんから今すぐ夜が明けないうちにここから逃げようではありませんか」
アモンは袋をつかみ取るや否や、ころげるようにして岩の合間を走り去っていった。何を言っても馬の耳に念仏であった。アモンは西の方へと家路に向かって走って行った。
イエスは夜が明けるのを待った。目の前に夜霧が集まって小さな水溜りができていたので、それを飲んだ。イエスは靴の紐をしめなおし、谷に沿って旅を続けた。平和の使者を象徴する白鳩だけが目に入り、全く静かな日を迎えていた。狭い谷合いの道にさしかかった時、突然、盗賊の一人がイエスに襲いかかった。
「やいやい! おめえ、どこへ行くんだ!」
イエスはしり込みもせず答えた。
「私は土地もなく家もないんですよ」
「うるせい! この嘘つきめ! そんな上等な上着をつけていやがって。おめいは貧乏人を苦しめている金持ちなんだろう!」
彼は短剣を鞘(さや)から抜いておどし始めた。イエスは笑いながら着ている上着を脱いで、短剣をふりあげている盗賊の前に差し出しながら言った。
「兄弟よ、よく見てごらんなさい。私が持っているものは、一枚の上着と裸の体なんですよ。あなたが神を敵にまわしてもよいと思うなら、どうぞ私を殺して下さい」
盗賊はあきれたような眼差しでイエスをじっと見つめながら言った。
「このほらふき野郎め、おまえの喉を突きさしてやるからな!」
イエスはなおも微笑みをたたえていた。イエスは続けて言った。
「私の肉体は永遠の生命にくらべたら、ほんの一瞬しか生きられません。それはまことにはかないもので、一夜の夢のようなものです。ある人にとっては悪夢でしょうし、ある人にとっては甘い夢かも知れません。
大切なことは、その短い間に、本当の知恵と清い心をつかみとれるかどうかです。私にはもう充分支度ができていますから、私を殺すなり、なんなりと自由に料理をしてください」
盗賊は、死を覚悟しているイエスの威厳に圧倒され、短剣を鞘におさめてしまった。
「おまえの勇気には負けたよ。おれの後についてきな。洞穴のなかにいる仲間と一緒メシでも食おうぜ。昨日の夜キャラバンからふんだくった酒でも飲んで景気をつけようじゃないか」
イエスはむりやりに連れていかれた。昨夜襲われた、ラクダの死骸が累々と並び、悲惨な光景が残っていた。盗賊は言った。
「このあたりの谷合はな。針の目と言って、人一人がようやく通れるほど狭い道しかねえんだよ。ここから無事に帰れる奴はほとんどいねってわけよ!」
盗賊はとくとくと荒っぽい彼らの生活ぶりを話し始めた。イエスは終始だまって聞いていた。二人は谷合の曲がりくねった細い道を歩いた。その辺りには、山々を見張っているかのように突き出た大きな岩石があった。
山の奥深いところまでやってきた。まるで囚人が、監獄に連れていかれるような思いであった。
たいまつの火が燃えている丸い部屋の中に入っていった。二十人程の男たちがイエスのまわりを狼のように取り囲んだ。射るような目付きでイエスをにらみつけた。イエスを連れてきた盗賊は彼らに仲間だと紹介した。
「こいつは浮浪者だ。おめえ、こいつの度胸はていしたものだぜ! 命知らずの度胸は、おれたちの略奪にはぴったしだぜ!」
イエスは口を開かなかった。ゴリアテ(訳者注・ユダヤの王ダビデが、少年時代に隣国ペリシテの英雄と闘って、ただの投石器だけで殺してしまったと記されている巨漢の名前)のような巨漢の隣に座らせられた。彼らは山羊の肉をつまみにブドウ酒を飲んでいた。イエスを連れてきた者が、彼をとらえた時の模様をみんなに話してきかせた。
特に死後のことについて珍しいことを耳にしたと言った。彼らはとても危ない橋を渡っていることを知っていた。いつもローマの軍隊に捕えられて殺されてもよい覚悟をしていたからである。それで彼らはまじめに尋ねた。
「要するに死んでからどうなるんだね?」
イエスは答えた。
「善人は天使と共に神の庭で暮らすようになるでしょう」
「金持ちはどうなるんだ?」
細おもての者が聞いた。
「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴をぬけるほうが、もっとやさしいでしょうね」
みんなが黙ってしまった。イエスの言葉に驚いてしまったからである。
ある盗賊が口を開いて言った。
「死んだラクダがよう、谷間の穴の中をどうやってくぐるんだよ、おめいはおかしなことをいいくさるな」
みんながどっと笑った。首領がみんなをにらみつけながら怒鳴った。
「黙れ! せっかくいい話をしているのに、おまえらはなんだって笑うのか! 馬鹿は知恵を笑うって言うじゃないか。静かにこの話を聞けよ!」
それから首領はイエスに向かって尋ねた。
「お若い方、これからどんな仕事をなさるんですか?」
イエスは勇気をふるって答えた。
「私は病を癒す使命を持っているのです。殺し屋ではありません」
首領は言った。
「おれたちだって好きで殺しをやっている訳じゃねえんです。財宝を手にすりゃ、貧乏人を救ってやれるんですよ。おれたちは、みんなゴール人で、昔ローマ軍と戦った英雄ユダの旗本に馳せ参じた連中のせがれたちなんです。
おれたちは、おやじが十字架で殺されたのを見たんです。恐怖のどん底でうごめいていたおやじの声が今でも耳に残っているんです。それからおれたちは、ほうりだされ、浮浪者になって、飢えと寒さとたたかってきたんです。
そこでみんなと誓い合ったんです。いつかおやじたちの仇を打とうってね。時がきたら預言者の町エルサレムを救うために反乱を起こし、呪われた異邦人(ローマ人)をおんだしてしまうってね。
このために金持ちを略奪しているんです。財宝がたまったら、確かな場所にかくしておいて、反乱の時を待つのです。
財宝の一部で武器を買い、こん棒しか手にしていなかったおやじたちよりもずっと強力な武器でたたかうんです。だからお若い方にもおれたちに加わって一緒に目的を果たしてもらいたいんですよ。お見受けしたところ、お若い方は、知恵があり、勇気もあるようですから」
イエスはくりかえして言った。
「私は人々を滅ぼすためではなく、癒すためにきたのです」
「では、おれたちと一緒にやりたくないというのですか」
「そのとおりです」
イエスの返事を聞いて盗賊どもはざわめいた。しばらく沈黙が続いてから首領は言った。
「旅のお方、あなたはおれたちの囚人なんですよ。おれたちを裏切らないようにするためにも、ここからは出られないんですよ」
イエスは尋ねた。
「どうしたら人を癒すことと滅ぼすことを同時にやれるんですか?」
首領は言った。
「そんなことがどうしておれに分かるんですか。とにかくおれはあなたのことを高くかっているんですよ」
首領はイエスをうながして隣接している小さな部屋に連れて行き、今にも死にそうな男が横たわっているのを見せた。
「ごらんなさい、私の弟です。残されたたった一人の肉親です。それも、こないだの騒ぎで重傷を負ったのです。こいつは本当に運が悪いんですよ」
首領はごつい体を震わせながら泣いた。首領は命令するような口調でイエスに言った。
「旅のお方よ! おれには死の匂いが分るんですよ。多くの体験からね。だからどんなにすぐれた医者に見せても、こいつは助からないんですよ。もしも、あんたがこいつを癒してくださるんでしたら、いつでも開放してあげますよ」
病人は、ユダと言って、首領の顔をじっと見据えながら、死の恐怖におののいていた。イエスは、死の床でおびえきっている者に心から同情し、何とかしてやりたいと思った。イエスは病人がまとっていたぼろ服を脱がせ、きれいに洗ってから、清潔な麻布で身体を包んでやった。
ユダは大声をあげて泣き出した。どうやら苦悩から抜け出した様子であった。イエスは彼の頭にそっと手をおいて彼を勇気づけた。しばらくすると、ユダは明るい顔に変わり、溜め息をついてから深い眠りについた。そこでイエスは言った。
「眠れば彼は再び生き返るでしょう」
首領はイエスの手先から不思議な光が発しているのを見てたじろいだ。畏敬の念にうたれたからである。二人は一晩中ユダのそばで見守っていた。病人が余りにも静かに眠っているのを見て、首領はもう死んでしまったのではないかと思った。疲労と絶望がおおっていた。首領は立ち上がりブツブツ言いながらうろつき回った。
イエスが静かにするようにと合図をおくっても、それには気がつかないので、小さなほっそりした体のイエスが、巨大な首領の腕をつかまえ、力づくで洞穴の外へ引きづり出してしまった。
ユダのもとに戻ってみると、兄のしゃべり声で目を覚ましていた。イエスはもう一度眠りにつくまで、癒しの手をユダの額の上に当てていた。自尊心の強い首領は命令された経験がないので、無理矢理洞穴の外へ出されたことから、ふて腐れた犬のように寝そべっていた。
癒しの手をさしのべていたイエスは、ユダが深い眠りについたことさえわからないくらい疲れきっていた。
まだ日も暮れていないのに、イエスは癒しのために全精力を使い果たし、そこに倒れてしまった。首領が我が子のように抱き上げて自分の床に寝かせた。首領は弟の所へ行ってみると、何とつやつやした顔色をしているではないか。彼は即座に生き返ったことを感じた。弟から死が遠のいていったのである。
盗賊たちはイエスを取り囲んで酒盛りを始めた。祝いの酒宴である。ユダが生命の息吹を取り戻し、首領がすっかり元気になったことで彼らは大いに喜んだ。たらふく食べ終わった頃、彼らはイエスにあれこれと質問をした。
イエスは色々な例を挙げながら質素な生活の素晴らしさを説いた。話がガリラヤの人々の勇気にふれるや否や、次第に興奮してきて、ローマ憎しの感情がむきだしになってきた。
「おれたちゃ、まずは貧乏人を苦しめている金持ちをやっつけるんだ。偉そうな面をして威張ってやがる売国奴をほうり出そうじゃないか」
イエスはすかさず言った。
「あなたがたも金持ちになりますね」
「そうともさ、おれたちゃ派手な暮らしができるって訳さ」
イエスは尋ねた。
「ローマ軍が大挙してやってくるまでの話でしょうね」
「やつらがやってきても、おれたちは戦ってやつらを先祖の土地からおいはらっちまうさ」
イエスはため息をついて、それからは何ひとつ語ろうとはしなかった。彼らは散々大ぼらを吹いたり、歌いまくってから眠りについた。
イエスと首領の二人だけが残った。首領が言った。
「旅のお方よ、あなたの名は何というのですか。あなたは何とすばらしい方でしょう。これからも私たちのそばにいて、イスラエル救済の仕事を助けていただけないでしょうか」
「私には人々を癒す使命が待っています」
首領は眠っている弟の顔を見詰めながら言った。
「そうでしたね。あなたの使命は、癒すことですね。我々は浮浪者だから、ときには自分を守るために人を殺さなきゃならんときもあるのです。我々は多くの危険に取り囲まれていて、いつ敵に襲われるか分からないんです。
私はあなたに安全の保障をさしあげることはできませんが、国のためになる仕事をあげることはできます。そして私の愛も一緒にね」
「私は平和を愛する人間です。機が熟せば、癒しの業で人々に奉仕するのが最もふさわしいと考えているのです。ですから私はここから出てまいります」
イエスは首領が自分に約束したことを思いだしていた。弟を癒すことができたら自由にしてやるという約束である。首領もそれをよく承知していたので拒むことはできなかった。別離の悲しみをこらえながら首領はイエスの申し出を受託した。首領は言った。
「どうかひとつだけ約束して下さい。二年後にもう一度お会いしたいのです。もちろん私が生きていればのことですが、もう一度お目にかかれたら、あなたの知恵の言葉を聞かせていただいて多いに心を豊かにしたいのです」
イエスは快く承知した。二年後にやってきて、見つからなかった時は、あちこちを訪ね回って探し出すことを約束した。イエスと別れを告げてから洞穴の中に戻ってきた首領は、弟ユダに言った。
「わしは随分多くの人間と会ってきたが、あのようなお方は全く始めてだ。あのお方はきっと預言者にちがいない」
ユダはすかさず言った。
「あの方は、多分イスラエルの民を解放すると聖書に記されている救い主かもしれませんね」
「いや、そうじゃないね。あの方は平和を愛する預言者だろうて。もし救い主ならば、イスラエルの王者として我々をリードし、剣を取りあげて戦いに向かわれるはずだ」
後になって首領は、弟の言った言葉を思い返してみた。記憶の倉庫の中に大切にしまっておいた種が、いつしか立派な果実をつける日が到来することを信じているかのように何度も思い返していたのである。