歴史的に辿れば、人類全体としての啓発に寄与するほどの霊的啓示は、各民族個有の宗教の起源となった聖典に求めることができよう。モーゼの「十戒」、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーラン、仏教の原初仏典、日本の古神道の原典等がその主だったものと言えよう。
これらの中でも日本の古神道いわゆる神ながらの道の思想は人工的夾雑物が少なく、自然で、最もスピリチュアリズム的要素に富んでいるというのが、長年各種の霊界通信に親しんできた筆者の私見であるが、問題はいかなる啓示もその起源においては霊的であっても、時代とともに人間的主観によって歪められていくということである。
〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて今なお欧米においてロングセラーを続けるモーゼスの『霊訓』の中で、イムペレーターと名のる最高指導霊(実は旧約聖書に出て来る預言者マキラ)がこう述べている。
「・・・・・・聖書(バイブル)に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がある。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去りて後は後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人 ── 神が人間に直接働きかけるものとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人にサレム(現在のパレスチナの西部にあった古代都市)の王メルキセデクがいる。
彼はアブラハムを聖別(聖なる目的に使用するために世俗より離す)して神の恩寵の象徴による印章を譲ったのだった。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においてはまだ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては民のために送りだした神託の代弁者であった。
ここで今まさに啓発の門出に立つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味するに当たりては事実の記録と単なる信仰の表現にすぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見受けられる。
それらは伝えられるがごとき秀でた人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じりあい、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれし時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、たしかに汝らの聖書と同じくその中に幾ばくかの事実はなきにしもあらずであるが、その言語の一つひとつに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。」
こう述べた後、キリスト教を例にしてその系譜を明らかにする。
「メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者 ── イスラエルの民をエジプトより救出し、独自の律法と政体を確立せる指導者 ── モーゼを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強力なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈なる意志が、支配者としての地位にふさわしい人物とした。
その彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界各地へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治体制を入念に確立し、法律と規律を制定した。
その時代はユダヤ民族に取りては、他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似性を持つ段階、すなわち古きものは消えゆき、霊的創造力によりて全てのものが装いを新たにする。霊的真理の発達段階であった。
ここでもまた、推理を誤ってはならぬ。モーゼの制定する律法は汝らの説教者たちの説くがごとき、いつの時代にも適応さるべき普遍絶対のものにはあらず。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。
すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使途によりて霊的能力に富む者を介して授けられたのである。
(中略)
今日なお存続せるかの「十戒」は変転きまわりなき時代のために説かれた、真理の一面にすぎぬ。もとより、そこに説かれたる人間的行為の規範は、その精神においては真実である。が、
すでにその段階を超えた者に字句どおりに当てはめるべきものにあらず。かの十戒はイスラエルの騒乱から逃れ、地上的煩悩の影響に超然たるシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団より授けられたのであった。
(中略)
メルキゼデクがモーセの指導霊となりたるごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われわれはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。
またその巨大な流れの中には数多くの優れたる霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたる後もなお地上へ影響を及ぼし続けている事実を強く指摘せんとしているのである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。
がそれは、今の汝にはかかわりあるまい。イエス・キリストに至る巨大な潮流こそ汝にとりて最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘(キョウアイ)なる宗閥心だけは棄ててもらわねばならぬ。」
さてスピリチュアリズムは、人間が知性の飛躍的発達とともに霊的なものに背を向け、物質文明へ向けて急旋回し始めた十九世紀半ば頃勃興し、今日までに数多くの珠玉の霊的啓示を入手することに成功している。その代表的なものが右に紹介した『霊訓』並びに『続霊訓』であり、マイヤースの『永遠の大道』並びに『個人的存在の彼方』であり、
オーエンの『ベールの彼方の生活』であり、フランス人アラン・カルデックの編纂になる『霊の書』であり、そしてこの『シルバーバーチの霊訓』全十一巻である。
以上は比較的長文のものを拾ったまでで、小冊子程度のものまで数えれば、それこそ枚挙にいとまがないほどであり、内容的に貴重なものも少なくない。
もっと言えば、立派な通信を入手しながら、さまざまな事情から公表をあきらめたものもあるであろう。筆者がそう推測する根拠は、オーエンが『ベールの彼方』を刊行するまでの経緯にある。その「まえがき」の中でこう述べている。
「さて〝聖職者と言うものは何でもすぐ信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にしたときの聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。
ちなみに私が本通信を〝信じるに足るもの〟と認めるまでにちょうど四分の一世紀を費やしている。すなわち、確かに霊界通信と言うものが実際に存在することを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適って居ることを明確に得心するのに十五年もかかった。」
国教会の牧師だったオーエンはこれを出版したことで、教会長老の怒りをかい〝回心〟を求められたが頑として聞きいれず自ら辞職している。可能性としては身の保全のためにそれを公表せずに焼却処分にすることも有り得たわけであり、現実にそうしたケースが他にいくつもあったであろうことは充分に推測される。
さて「霊訓」の一節に人類の進歩とともに啓示の内容も進歩するという件があるが、右に紹介した霊界通信に絞ってみてもそれが窺える。例えば『霊訓』の中においては〝再生〟の問題は一切見当たらず、モーセの死後に編纂された『続霊訓』の中に僅かに散見される程度である。この続編はモーセの恩師であるスピーア夫人が審神者となって得た霊言を主体に収録されているが、その中に次のような箇所がある。
「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊のみが論ずることのできる問題である。大神のご臨席のもとに神庁において行われる神々の協議の中につきては、神庁の下層部の者にすら知ることを得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方が良い秘密もあるのである。その一つが霊魂の究極の運命である。
神庁において神議(ハカリ)に議られしのちに、一個の霊が再び地上へ肉体を持って生まれるべしと判断されるか〝否〟と判断されるかは、誰にも分からぬ。誰にも知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。すべては良きに計らわれるであろう。
すでに述べたごとく、地上にて広く宣伝されている形での再生は真実にあらず。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とをもちて地上に降り人間と共に生活を送ることはある。他にもわれわれなりの配慮により公言を避けている一面もある。
まだその機が熟していないからである。霊ならすべての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう公言する霊は自ら己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならぬ。」
これはイムペレーターの霊言である。末尾の〝他にもわれわれの配慮により云々…〟と言う言葉からうかがえるように、再生は〝あるにはある〟といった程度に止めている。
これがほぼ半世紀後に出たシルバーバーチになると、再生を魂の向上進化の絶対条件として前面に押し出し、〝人間の言語ではその真相はうまく伝えられないが・・・〟と断りつつも、その目的と意義を繰り返し説いている。本書(アン・ドゥリー編)では再生に関する具体的な霊言は採録されておらず、僅かに第十章の「質問に答える」の中で簡単に触れているだけであるが、他の十巻の全部で詳しく説かれている。
霊媒のモーゼスもバーバネルもともに英国人である。英国において同じくイエス・キリストを霊的源流とする二つの霊的啓示が、一方は〝まだその時期ではない〟という態度を取り、他方が〝今こそその時期である〟という態度で臨んでいるこの対照は、明らかに〝啓示の進歩〟を物語るものと観てよいであろう。
今も述べたように、先に列挙した霊的啓示は多かれ少なかれキリスト教的色彩を帯びている。ナザレ人イエスにその淵源を求めることが出来るという意味である。すなわちメルキゼデクに発した大きな霊的潮流がイエス・キリストの出現で一つのクライマックスを迎え、それがいったん埋もれたあと、十九世紀の後に再び多くの霊媒を通して霊言あるいは自動書記の形で地上へ奔出しはじめたと観ることが出来る。シルバーバーチはイエスについて見解を求められて次のように語っている。
「ナザレ人イエスは神より託された使命を成就せんがために物質界へ降りた多くの神の使途の一人でした。イエスは地上での目的は果たしました。が残りの使命はまだ果たしておりません。それが今まさにイエスの指揮のもとに成就されつつあるところです。
(中略)
イエスを通して地上へ働きかけた霊は、今なお、二千年前に始まった事業を果たさんとして引き続き働き掛けております。その間イエスの霊は数えきれないほど何度もはりつけにされ、今なお毎日のようにはりつけにされております。」
──あなたが〝ナザレ人イエス〟と言う時、それが地上で生活したあの人間イエスのことですか。それともイエスを通して働いている霊的威力のことですか。
「あの人間イエスのことです。ただしその後イエスも向上進化し、地上時代よりはるかに大きな意識となって顕現しております。地上時代は、当時の時代的制約に合わせざるを得なかったのです。それでもなお、地上の人間でイエスほど霊の威力を発揮した者はおりません。イエスほど強烈に霊的摂理を体現した人間はおりません」
──この二千年の間に一人もいないのでしょうか。
「いません。前にも後にもおりません。地上という世界があの時代ほど偉大な神の啓示に浴した時代はありません。しかし私たちは地上に誕生した人間イエスを崇めているのではありません。イエスを通して働きかけた霊の力に敬意を表するのです。人間というのはどれだけ霊力の道具として役に立ったかによって、その人に払われる敬意の度合いが決まるのです。」
──霊界には今後イエスのごとき人物を地上へ送ることによってさらに深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。
「さまざまな民族の必要性に応じて、さまざまな手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。
各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合さなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が啓示の由ってくる究極の淵源はみな同じです。」
百年を生きるのがやっとというわれわれ地上人の人間にとって二千年とか五千年という時の流れは気の遠くなる思いがするが、悠久の宇宙的尺度をもってすればほんの短い一時期にすぎないのであろう。巷間(コーカン)にはこれから後の僅か百年二百年について、やたら悲壮感を煽る勿体ぶった予言書が出版されているが、筆者はこうした、人の心を怖じけづかせ魂を縮み上がらせるようなものは決して純正な予言ではない、否、極めて悪質であると思う。もっとも、悠久の目をもってみれば〝悪質なイタズラ〟程度のものなのかもしれないが。
純正な霊的啓示は常に魂を鼓舞し生きる勇気を与えてくれるものをもっている。それは以上紹介した霊的系譜の中に如実にみられる一大特質である。
筆者が今携わっている仕事はいわば西洋的系譜の啓示を日本へ輸入することであるが、右のシルバーバーチの霊言から推測されるように、日本には日本なりの一大啓示の時代がいずれ到来するものと信じている。
私見によれば、それは多分神道的色彩を帯びることであろう。そしてそれを西洋へ逆輸出する形になるかもしれない。そうすることによって西洋的な啓示と東洋的な啓示とが合流して一大奔流となって世界を流れる時こそ真の世界平和、いわゆる地上天国が築かれるのではなかろうか。
ただ少なくとも日本の現状に目をやる時、今はこうした西洋的系譜の啓示を是非とも普及しなければならない時代であるという認識を持つには、一人筆者のみではないと信じている。
では、おしまいに再び『霊訓』から啓示の本質に触れた部分を紹介しておこう。〝新しい啓示〟と〝古い啓示〟との矛盾の問題に言及してイムペレーターはこう述べている。
「啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、啓示が別の時代の啓示と、矛盾するというのはあり得ぬ。ただしその真理は常にその時代の必要性と受容能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに思えるものは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。
人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入してはせっかくの品質を落し、勝手な推論と思惑で上塗りする。時の経過とともにいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなっていく。矛盾すると同時に不純でありこの世的なものとなってしまう。
やがて新しい啓示が与えられる。がその時はもはやそのままで当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示には矛盾はない。が、矛盾せる如く思わしめるところの古き夾雑物がある。
まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間はそれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は、無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶する者を喜んで受け入れる。
神は決して押し売りはせぬ。このたびの啓示も地ならしとして限られた人間への特殊な啓示と思うがよい。これまでもそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。
神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意のできている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなく者はそれを拒絶する。それで良いのである。」
編集の問題
この文章は、『スピリチュアリズム普及会』のサイトにある「編集の問題」を掲載したのもです。
「スピリチュアリズム普及会」「編集の問題」が記載されているサイト内の場所は下記です。
『シルバーバーチの霊訓(一)』(アン・ドゥーリー編:潮文社)に見る編集の問題
-- ブラウザでは、ページや行の指定位置が違ってきますが、 --
-- 電子媒体ですので検索すれば簡単にその場所を見つけられます (サイト管理者より)--
ここでは編集段階において発生した問題点を、具体的に見ていきます。突然ですが、潮文社発行の『シルバーバーチの霊訓(一)』を取り出して、p26~28を読んでみてください。この『シルバーバーチの霊訓(一)』は、一般的にはスピリチュアリズムの入門書として紹介されています。そのため各地の読書会でも、最適な学習教材としてしばしば利用されています。今、読んでいただいた箇所は、この本の最初の部分に当たりますから、これまで何度も目を通したことがあるものと思います。今回、久しぶりに同じ箇所を読んでみて、どのような感想を持たれたでしょうか?
もし、この箇所を読んで「シルバーバーチの思想がよく分かった」という方、あるいは「書かれていることのすべてがよく理解できた」という方は、失礼な言い方になってしまいますが、『シルバーバーチの霊訓』を深く理解している人とは言えません。「よく分かった」という方は、シルバーバーチの語る内容を正しく理解していない人なのです。反対に「何度読んでもよく分からない」との感想を持った方は、確実な真理の学習を心がけている人で、真理の理解が深まりつつある人と言えます。この箇所は、「何度読んでもよく分からない」というのが正解なのです。どうしてそうしたことが言えるのかを、本文にそって説明していきます。きっと眼から鱗(うろこ)が落ちるような思いを持たれるはずです。
以下では、p26~28の全文を段落に分けて見ていきます。
①〈p26/1行目~8行目〉
いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。
ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見することから始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた“小さな自分”以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分かりにならないでしょう。
この第1章のタイトル(*原書では第2章)は、「あなたとは何か」(WHO ARE YOU ?) となっています。編集者アン・ドゥーリーは、まず「私たち人間とは何か」というテーマから始めようとしました。私たち自身を正しく認識するために、「人間観」を真っ先に取り上げた狙いは正しかったと言えます。しかし「人間観(人間とは何か)」を説明するために選び出したシルバーバーチの言葉は、あまりにも的外れなものでした。
この第1章の初めの段落に載っているシルバーバーチの言葉は、「人間観(人間とは何か)」に対する説明ではなく、「私たち地上人の意識とは何か?」という質問に対する説明です。人間観ではなく「意識論」についてのシルバーバーチの解説なのです。これまで『シルバーバーチの霊訓』をしっかり読み込んで正しい理解をしている人には、ここで取り上げられている内容が、「インディビジュアリティー」と「パーソナリティー」についての説明(*「潜在意識」と「顕在意識」の説明)であることは一目瞭然です。シルバーバーチは、地上人が自分自身と思っているのは、「インディビジュアリティー(潜在意識)」のほんの一部分の意識にすぎないことを明らかにしています。自分自身と思っているのは本当の自分ではなく、「大きな意識(潜在意識)」の一部分にすぎないと言っています。本当の自分は、顕在意識の奥底に内在しているのです。
以上は、再生に関係するスピリチュアリズムの思想の最も深遠な内容であり、シルバーバーチによって初めて明らかにされた霊的真理です。きわめて難解な霊的真理ですが、シルバーバーチを理解するうえで不可欠な内容であり、その意味ではシルバーバーチの思想の基本と言えます。
編集者アン・ドゥーリーは、ここで取り上げたシルバーバーチの言葉の真意を全く理解していなかったようです。「インディビジュアリティー」と「パーソナリティー」という難解な真理の説明であることが分からず、表面上の言葉(Who are you ?) だけに惹かれて的外れな編集をしてしまったのです。こうした的外れな編集から始まっている説明文を読んで、初心者がその意味を理解することができないのは当然です。シルバーバーチの言葉の真意が分からず、勘違いから編集した内容を、第三者(読者)が正しく理解できるはずがありません。
この箇所を読んでその内容が分かるのは、すでに「シルバーバーチの思想」を正しく理解している人に限られます。そうした人でなければ、このシルバーバーチの言葉が何を意味しているのかは分かりません。正しく理解している人であれば、ここで取り上げられている内容が「人間観」の説明として相応しくないことも分かります。編集者アン・ドゥーリーには「霊的真理の全体像」が見えていなかったことが、はっきりしています。もし彼女が真理を十分に理解していたなら、これほど難しい内容、しかも章の主題とは無関係な内容を冒頭に持ってくるようなことはしなかったはずです。
②〈p26/9行目~11行目〉
となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。
今説明してきたように、第1章(①段落)は的外れな内容から始まっています。「人間とは何か」について説明すべきところが、「意識とは何か」の説明に置き換わっています。しかもその内容は、スピリチュアリズムの思想の中で最も難解とされる霊的知識なのです。
それに続くこの②段落も、同じように的外れな内容が取り上げられています。そのうえ②段落の内容は、先の①段落とは関連性がありません。①段落とは無関係な内容が、さも関連性があるかのように並べられ(編集され)ているのです。①段落と②段落の内容は根本的に違っているため、この2つを1つの流れとして結びつけることは不可能です。あまりにも異なる内容を何とかつなぎ合わせようとして、翻訳者(*近藤千雄氏)も苦心した様子がうかがえます。②段落の最初に「となると」という接続詞を配して、2つの段落を何とか結びつけようとしています。(*これが読者に別の混乱を生じさせることになっています。)
この②段落の3行の内容は、地上人が“インスピレーション”として感じるものについての説明です。インスピレーションとは、地上人の日常意識やその人自身の考えとは異なるものであること、インスピレーションには、地上人の高次意識(潜在意識・インディビジュアリティー・ハイヤーセルフ)から送られてくるものと、霊界の高級霊から送られてくるものの2種類があります。この箇所は、その内容を述べています。
この②段落の問題点を明確にするために、原文(シルバーバーチの言葉)とその逐語訳を次に挙げておきます。
How are you to decide then which is your thought,your imagination, and which is the impression, the guidance which comes from your larger self or from higher realms that are using you?
どれがあなたの考え・あなたの想像物であり、どれがあなたのより大きな自我からもたらされた印象(感覚・直感・インスピレーション)・導きであるのか、あるいはあなたを用いている高次の世界(*霊界)からもたらされた印象(直感・霊感・インスピレーション)・導きであるのかを、どのように判断すればいいのでしょうか。
原文から明らかなように、ここで述べられているのは“インスピレーション”についてです。インスピレーションは日常意識や想像とは違うということ――インスピレーションには2種類あって、1つはその人間の「ハイヤーセルフ(潜在意識)」から送られてくるもの、もう1つは「霊界の高級霊」から送られてくるものということです。
ここでの説明と同じような内容が、他の『シルバーバーチの霊訓』の中に出てきますから、それをしっかりと読み込んでいる人には“インスピレーション”についての説明であることがすぐに分かります。しかし初めて『シルバーバーチの霊訓』を読んだ人には、その真意を理解することはとうてい不可能です。
①段落の内容は、「地上人の意識は、自覚できない潜在意識(インディビジュアリティー)と顕在意識(パーソナリティー)から成り立っている」ということについての説明でしたが、この②段落は、「インスピレーションとはどのようなものか」の説明になっています。①段落と②段落は、内容的には明らかに別ものです。また2つとも、「人間観(人間とは何か)」というテーマ(主題)とは直接的な関連性はありません。
このように第1章は、章のテーマとは関係がない2つの段落から始まっています。そしてその2つの段落の間にも全く関連性がないのです。これでは読者の理解を促すどころか、混乱を引き起こすだけです。
③〈p26/12行目~p27/2行目〉
そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだということです。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。
この③段落で、本章の主題である「人間観(人間とは何か)」に相応しい内容が初めて登場しました。人間は霊と肉から成り立っている存在であること、霊と肉には上下関係があって霊が優位にあること、そのため人間は霊的存在であるということが説明されています。これは、まさに「人間とは何か」についての最も基本的な真理です。初心者が真っ先に知らなければならない重要な霊的知識です。
もし第1章が、前の2つの段落(①と②)がなくて、この③段落から始まっているなら、誰もがシルバーバーチの教えを正しく理解し、スムーズに学習を進めていくことができたはずです。
④〈p27/3行目~9行目〉
それはこの全大宇宙を創造し計画し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる“神”の属性である莫大なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありません。
前の③段落で、やっとまともな「人間観」の内容が出てきたと思ったら、それに続くこの④段落では、またしても主題とは無関係な内容が出てきました。しかも③段落との関係が明確でない内容が、突如現れてきました。ここは人間の一番の本質である「霊」についての説明です。しかし、「人間とは何か」のテーマからは外れています。人間についての直接的な説明とは言えません。
したがって③段落から④段落への移行は、不自然で脈絡のないものになっています。これを読んだ大半の方が、前段落の内容と、どのようなつながりがあるのか分からないはずです。
⑤〈p27/10行目~12行目〉
身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要るわけです。しかし、あくまで住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。
この⑤段落では、再び「人間観(人間とは何か)」に相応しい説明が取り上げられています。内容的には③段落と同じです。したがって③段落にこの⑤段落が続くなら、論理的でごく自然な1つの流れができ上がっていました。読者には、違和感なくスムーズに理解できるようになっていたはずです。
ところが③段落と⑤段落の間に、④段落という無関係な内容が割り込んでいるため、一続きの流れが中断され、読む側にとってはバラバラな内容がランダムに並べられているように感じられます。
ここまで『シルバーバーチの霊訓(一)』第1章の編集の問題点を、具体的に見てきました。そこには『シルバーバーチの霊訓』における編集の不備や問題点が端的に表れています。章の主題である「人間観」とは直接関係がない内容(*それはきわめて高度で、あらかじめ理解していない人には読んでも分からない内容)が、脈絡なく並べられています。各段落の間にも関連性が見られません。霊的真理の概要を理解しないところで、かなりいい加減に、思いつくままに段落を連ねたような印象を受けます。本来なら、①段落と②段落はカットするか他に回し、③段落と⑤段落を結びつけて、そこから始めるように編集すべきでした。
『シルバーバーチの霊訓』を構成する材料(内容)は、シルバーバーチが交霊会で語った「霊的真理」です。それはこれまで地球人類が知ることのなかった超一級の霊的知識・霊的情報です。『シルバーバーチの霊訓』の編集を調理に喩えるならば、シルバーバーチの言葉は食材に相当し、それは世間一般ではめったに手に入らない超一流のものと言えます。しかし材料がどれほど優れていても、調理する人間によっては、その価値が十分に発揮されないことになってしまいます。それどころか間違った調理によって、せっかくの食材が台なしになってしまうことにもなりかねません。客観的に言って、『シルバーバーチの霊訓』という超一流の材料を用いた料理には、調理人の技量不足が見てとれるということなのです。
将来、シルバーバーチの思想を正しく理解した編集者が現れ、『シルバーバーチの霊訓』の再編集が行われることを心から願っています。