箱館戦争ゆかりの地
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旧幕府軍の鷲ノ木上陸による箱館戦争のプロローグから時間を追って関連地を紹介します。
- 旧幕府軍上陸地(森町鷲ノ木) 明治元年10月20日、旧幕府軍の上陸が始まる。現在鷲ノ木資料館(建物は地域の集会所で資料はガラス越しに見えるこれだけです)のある鷲ノ木史跡公園からは函館本線の線路によって海岸は見えない。線路の向こう側へ行くと桂川の河口にもう一本標柱が立っている。悪天候の中での上陸だったためこの一点が上陸地点というものではなかったはずで、このあたりの海岸一帯と考えるのが自然。
- 川汲温泉(南茅部町川汲) 鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は箱館をめざす。大鳥圭介隊は鷲ノ木を出発し大沼側から古峠を越えて峠下へ抜け函館へ向かう。土方歳三隊は鷲ノ木から内浦湾沿いに砂原・鹿部・川汲から川汲峠を越えて湯ノ川へ至る。土方隊は箱館への進軍途上川汲温泉に宿営し、兵士の疲れを癒したという。すこし熱めのさっぱりとした湯。
- 五稜郭(函館市五稜郭町) 国の特別史跡。
- 戸切地陣屋(上磯町) 1855年松前崇広が構築した日本初の洋式築城法を取り入れた城塞。土塁がすばらしい。
- 稲倉石(檜山郡厚沢部町) 未完成で無防備な松前藩館城にとって、稲倉石は重要な砦であった。100名余の兵と4門の大砲を備え、自然の要害に加え、丸太の柵を築き、綱で吊した丸太を落下させる仕掛けを造り守備を固めていた。しかし、11月13日の旧幕府軍との戦いで弾薬尽き陣屋に火を掛け退却した。現在はダムになって旧道は見ることが出来ない。国道227号線峠下の旭トンネル東側のパーキングにもう一つの「碧血碑」がある。これは館城防衛のため稲倉石の激戦で戦死した松前藩兵のために建立されたもの。
- 館城(檜山郡厚沢部町) わずか2ヶ月間で急造され4時間で落城した悲劇の城。
- 江差鴎島から見た開陽沈没地(↓)と復元船 当時国内最強の軍艦だったが、江差港に到着したその夜の暴風雨によって座礁、数日後には沈没した。
- 弁天台場(函館市入船町) 明治29年に埋め立てられて、いまは「函館どっく」となっている。
- 峠下台場(七飯町峠下) 旧幕府軍の後方基地鷲ノ木と函館を結ぶ表街道の要衝古峠を守る台場。七稜郭形の土塁遺構は残存程度が良い。
- 川汲台場(南茅部町川汲) 鷲ノ木と函館を結ぶ裏街道の要衝川汲峠防衛のために急造された台場。
- 根崎台場(函館市根崎町) 旧幕府軍が箱館防衛のために造った台場。元函館酒センター根崎店の駐車場のところに数年前までは標柱があったのだが現在はなくなってしまった。
- 富川塁(上磯町) 富川八幡宮裏。
- 咬菜園(函館市船見町 弥生坂の上) 安政4(1857)年堺新十郎が箱館奉行から払い下げを受けた土地に各地の名花名木を移植し手入れを欠かさなかったので四季美しい花が咲き乱れていた。咬菜園の名付け親は五稜郭、弁天台場などの設計者武田斐三郎であるといわれている。明治2(1869)年3月4日、旧幕府軍追討令が下り、官艦が品川を出港したとの報に接した榎本以下幹部は、咬菜園で今宵最後と夜通し飲み、かつ詩を吟じた。現在は個人邸になっている。
- 新政府軍上陸の地(爾志郡乙部町) 明治2年4月6日青森港を出港した新政府軍艦隊は、9日午前2時20分、まず甲鉄と春日が乙部沖に到着、4時にヤンシー到着、上陸準備を始める。
- 二股口古戦場 箱館戦争最大の激戦地で土方歳三の真価を発揮したといわれる。明治2年4月10日に二股へ到着した部隊は二日がかりで16ケ所の胸壁を構築し西方の天狗岳に前線基地を設けた。12日、稲倉石へ到着した新政府軍は、13日正午過ぎから天狗岳の攻略を開始、夜を徹しての銃撃戦が行われたが翌朝新政府軍は突破を断念し稲倉石へ撤退する。新政府軍は兵力を増強し4月23日午後4時頃から再戦となるが、25日、新政府軍はふたたび撤退した。しかし、29日に海岸線の戦いで矢不来が突破されたために、退路を遮断される危険が生じ土方軍も撤退を余儀なくされた。この史跡のある国道227号線は多くの車が時速80〜90km/hで走っていますので、二股口付近の史跡見学をする時には交通事故に十分ご注意下さい。
- 四稜郭(函館市陣川町) コンパクトな城塞。屈んでいないと撃たれちゃいそう。
- 権現台場(函館市神山町3丁目) 神山稲荷神社のところ。当時、北海道東照宮があった。
- 北海道東照宮(函館市陣川町) 様似から神山町へ移され、函館戦争後宝来町へ移り現在は陣川町。手水鉢に弾痕が残る。
- 亀田八幡宮(函館市八幡町) 当時の本殿(現在は神輿殿として残る)の木壁に弾痕
- 土方歳三最期の地 超人気の土方歳三、観光都市函館にとっての功労者かもしれません。一本木関門付近で馬上に於いて官軍の銃弾を受け戦死、ということになっています。現在の土方歳三最期の地碑が置かれているのは一本木関門の場所ではありませんが、線香と花の絶えることがありません。
- 五稜郭の土饅頭(函館市五稜郭町) 土方歳三の埋葬場所は諸説あるが、伊庭八郎の隣りに埋めたといわれる兵糧庫奥の土饅頭もその一つ。
- 土方歳三埋葬地諸説(函館市内) 上の2項目以外にも土方歳三の戦死地・埋葬地に関する謎は多く、いまだに確定した説が無いので、知っている限りの説を掲載しておきます。
- 千代ケ岡陣屋(中島町と千代台町)
- 無量庵大円寺(函館市神山町) 無縁塚は五稜郭築城工事中に死亡した人たちを供養するために棟梁喜三郎一同が建てた。喜三郎とは弁天台場と五稜郭の石垣工事を担当した備前の国二代目井上喜三郎のことで、江戸湾お台場の石垣工事を担当した初代喜三郎は弁天台場の石垣が工事中に崩壊した責任を取り、自決したといわれる。境内の松の根元に土方歳三を埋葬したとの説もある。
- 碧血碑(函館市谷地頭町) 戊辰戦争全体の旧幕府軍戦死者の慰霊碑。明治8年建立。「碧血(へっけつ)」の由来は中国の故事に「義に殉じた武人の血は3年たつと碧と化す」とあるところから採られたというが、正しくは「非業に死んだ忠臣の血は3年たつと碧玉に化す」というもの。中国から日本に渡りいつしか「碧玉」が「碧血」へと転じてしまったらしい。裏面のプレートに「明治辰巳実有此事立石山上以表厥志(明治辰巳、実にこの事あり、山上に石を立て、もってその志を表す)明治八年五月」と刻まれている。
- 己巳役(きしのえき)海軍戦死碑(函館市船見町) 弥生坂の頂上少し手前を北へ入ると木立に囲まれた区画にある。明治2(1869)年の箱館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所。箱館湾海戦で沈没した朝陽艦の戦死者73名の名が刻まれている。この石は高田屋嘉平が貧民救済のための公共事業で海中より引き揚げさせた亀石といわれる巨石を割ったもの。それにしても弥生坂の勾配のすごさにはいつもたまげます。
[参考]
(1)はこだて歴史散歩
(2)箱館戦争写真集
(3)それぞれの場所にある説明板
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