川汲台場

概説 明治元(1868)年10月20日、鷲ノ木(現在の森町鷲ノ木)に上陸した旧幕府軍は峠下から箱館へ向かう主力部隊と砂原、鹿部から川汲峠を越えて箱館へ向かう土方隊とに分かれ進軍した。24日に土方隊が川汲まで進んだところで新政府軍の偵察隊と小競り合いはあったものの、その晩は川汲温泉に宿営し鋭気を養ったと言われている。このように川汲峠は内浦湾側から箱館へ抜ける要衝の一つであったため、旧幕府軍は蝦夷平定後にここに台場を築いた。標高485mの台場山頂上に差し渡しの長軸約9mX短軸7mの不等辺五角形の土塁が残っている。
 『南茅部町史』などは「榎本軍の防備」に関する史料として弘前藩士の日記『楠見日記』を取り上げており、その中に「カツクミ峠絶頂江一ヶ所」として川汲台場の名前が出てくる。
 「その他の函館周辺の台場」もご参照下さい。
台場山頂上の標柱。彼方に函館山も望める
その他の写真
  1. 台場土塁下より
  2. 砲座の窪み。ここに大砲4門設置は無理でしょう
  3. NTT電波塔下から台場を望む
  4. 矢別トンネル北口からの遠望(左側の山頂)
  5. 現在の川汲温泉
訪問記[2002/07/08]旧道の川汲峠手前の台場山山頂に造られているので実際に見に行くのはちょっと無理かな。土方隊が宿営したという川汲温泉にでも浸かって帰るとするか。ちょっと熱めのさっぱりとしたお湯です。後で聞いたところ、NTTの通信施設補修用の舗装道路が峠まで通っていて、そこからなら歩いて10分ほどだそうです。しかし、普段はゲートが閉まっているので歩いて2時間以上はかかるそうなので熊にはご注意。
[2003/某月/某日]機会あって台場山へ行くことが出来た。昭和47年頃に現在の川汲トンネルを通る道道ができるまではバスも通っていたという林道、その険しさに当時の通行の厳しさを感じる。台場山はかつて毛無山と呼ばれていたこともあり頂上付近には樹木が無く360度のパノラマを楽しめた。台場山頂上には砲座のために土盛りされた直径6mほどの環状の土塁が残る。土塁は幾分低くなっているのだろうが、標柱には「明治2年4月、土方隊青銅製大砲4門台座築造」とあるが、とても4門を設置できそうな広さではない。ダミーでも置いたのか?
[2004/08/02]新情報:私が登ったときは草に覆われていて円形の土塁だと思った部分が、実は円形ではなく不等辺五角形であったことが分かったそうだ。
所在地南茅部町川汲。川汲峠の北約250mにある台場山頂上。林道脇の川汲旧山道古峠の標識の場所から藪道を上がって行くとすぐ(ただし、ここまで来るのが容易ではない)。道道付近から望む場合には、矢別トンネル北側のわずかな場所からのみ望むことができる。
参考書『箱館戦争写真集』、『南茅部町史』、『鹿部町史』、『大野町史』