江戸の町をゲームが走る!


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☆江戸開府400年記念☆

 今年2003年は徳川家康が1603年に江戸に幕府を開いてからちょうど400年。 開府400年ということでさまざまな企画が催されているようである。 ということで江戸のゲームを取り上げる。 当会では毎年「伝統ゲームの会」を催しているが、これは江戸のゲームとイコールではない。 伝統ゲームといっても、江戸時代以前からあるものもあれば、明治以降に作られたものもあるからである。

1.江戸人の生活

 ご存じの通り士農工商という身分制度があった。 休日は身分によって異なっていたが、現在のような土日といったもののような感じで、定期的な休みがあり、決して盆と正月以外休みが無いわけではなかった。 長屋の家賃も物価も安く、一日働けばその日は十分食えた。 安過ぎて貯蓄ができず、使うしかなかったという説もあるが、”住宅ローン”などというものも無く、遊ぶ時間はいくらでもあったようである。

2.江戸人の娯楽

 江戸時代は現在と違って、電気もなく、まともな交通機関も無かった。 そんな時代の娯楽は推して知るべしである。

・花見、遊山、観光、寺社詣で

 交通機関が駕籠と舟くらいしかなかった時代である。 今なら電車で数駅ぐらい のところでも立派な旅行だった。 花見、花火、開帳(寺社が普段公開していない 仏像などを公開すること)、などなど江戸人は様々なイベントに出かけた。 出か けること自体が娯楽でもあった。 長距離の度、例えば江戸から大坂や伊勢に行くことは、一生に一度の大冒険であった。

・見る

 テレビ、ラジオ、映画等が無い以上、生で行われるのを見るしか無かった。 芝 居、寄席、大道芸、見世物等の娯楽があった。   印刷技術も出版技術も高くなく、現在に比べれば本の流通はわずかであった。 それでも、技術から考えれば黄表紙など安い本が多く出回った。   スポーツとしては唯一とも言えるものが相撲であった。 ただ現在のような一場所 日制、年6場所ではなく、一場所 日制、年2場所だったので、人気は高かったが、実際に楽しめる期間は短かった。

・する

 音曲、踊りなど、現在のカルチャースクールともいうべき、多くの習い事があった。 スポーツはなかったし、遊芸しか無かったのであろう。

・男の遊び

 俗に”3どら煩悩”と言われたのが三道楽、「飲む打つ買う」である。 つまり、酒と賭博と遊郭であり、単に男が「遊ぶ」と言えばこれらを指していた。 未だに「遊び」ということに悪いイメージがあるのはこのためだろう。

3.江戸のゲーム

 では我々の言うゲームはどうだったか。もちろん無いわけでないが、種類は少なかった。

(1)ボードゲーム

・囲碁、将棋   徳川幕府以前、戦国時代からであるが、戦争を模したものだからか、頭が良くなると武人に好まれた。   徳川幕府も囲碁・将棋を奨励し、職位を設けて禄を与えた。 庶民にも好まれたが、庶民にはとっつきやすい将棋の方が好まれたようである。

盤双六

 盤双六に関する記述は少ない。 中世までは大いに流行したようであるが、度重なる賭博の禁令ですたれたのだろう。 現在まで尾を引いている。バックギャモンが今一つ流行らないのもこの影響だろうか。

絵双六

 さいころを振って一人一つの駒を進めるのが絵双六である。 技術の要素がないことと、紙一枚でできるので子供まで広く遊ばれた。 美しい絵や広告が描かれることによって人気を博したようである。

(2)カードゲーム

 いわゆるかるたであるが、代表的なものは大きく2種類に分けられる。 トランプに代表されるマークと数が描かれているかるたと、百人一首やいろはかるたに代表される2枚ずつ組になっているかるたである。

・前者は江戸時代直前にポルトガルからカードが持ち込まれたところから日本での歴史が始まる。 が、しかし、賭博性が高いために禁止となり、九州の山奥人吉盆地に「うんすんかるた」として残った以外はほとんど歴史から姿を消した。 だが、その面白さを知った人間は何度も類した札を作って遊んでいたようである。 手をかけ無い粗末な作りであってしかも消耗品であるから残っていないのは仕方がない。

・後者は二枚貝を分け、合わせて取る「貝覆い」多いという遊びから生み出されたもので、様々な種類があった。 用途は学習のためのものであって、決して最初から早取りゲームであったわけではない。 一方が絵、一方が名前で子供にものを教えるのに使われたのである。

・不明なのが花札である。 図柄は絵であるが、遊び方は数字のようである。数のかるたが禁止されたため、一見絵のかるたと見える数のかるたということで生み出さ れた、という説もあるが、真偽は不明である。

(3)ダイスゲーム

 さいころは手軽な遊びの道具なので、大いに広まったようである。 ちょぼいち丁半といった賭博が残っている。 もちろん幕府・諸藩は何度も賭博の禁令を出したので、一般的になることはなかった。 ただ用具が手軽なこと、ルールが簡単なことから絶滅することなく遊び続けられたと思われる。

(4)アクションゲーム

投壷投扇

 投壺は奈良・平安時代に中国から伝来した。 あまり遊ばれた記録はなかったが、江戸時代になって、突然復活した。 1767年に「投壺格範」という本が書かれている。 しかしこれにより投壺が流行ったというような記述は見あたらない。遅れて投扇興が現れる。 1773年位から複数の投扇興の本が書かれている。 その他の本にも記述が見られることから流行したのは間違いないだろう。 それによれば、投壺から発生したと言うことなので、投壺が復刻されたというのは事実なのだろう。 ただ、投扇興の流行はごく一時期のことであり、長い期間広い地域で行われたわけではない。 とても江戸時代を代表する遊びなどではないのである。

 特定の道具を必要としないためか、拳遊びは江戸時代広く流行した。 相撲を模し拳相撲と呼ばれる大会も行われた。 浮世絵その他に拳に関するものが多く残っている。

・矢(揚弓)

 家庭用の弓矢もあったが、自宅でできたのは一部の人間だったろうと思われる。 大衆は矢場に出かけた。金を払って矢を射られる、現代のゲームセンター的なものである。 だがこれは矢を回収する女が客を取るようになり、やがてそちらが主になって行き、取り締まりを受けて衰退した。

蹴鞠

 王朝時代に始まった蹴鞠の記録は江戸時代にも残っている。 しかし、高貴な人、裕福な町人だけの遊びだったようである。

(5)その他

・「絵本大人遊び」という本がある。大人のための遊びを絵を用いて示してある本である。 「大人のため」とはいうものの、酒の席での遊芸であって、知的なものは何一つ無い。
  にらめっこ。片足相撲。額の上に水の入った茶碗を載せる。枕を持って引っ張り合う。 紙で大きな輪を作り耳にかけて引き合い外れたら負け。

・言葉遊び

俳句、川柳、短歌、狂歌、文字鎖、回文といった言葉の遊びも道具を必要とせ ず手軽に遊べるためか、流行したようである。

技術の水準が低かったこともあり、種類は豊富ではなかったが、遊ぶ手段はいくらでもあった。 生活に余裕はなかったのかもしれないが、大いに遊んでいたようである。 日本人は勤勉、というイメージができあがるのはずっと後のことであって、この時代の人々はおおらかに生き、よく遊んでいたようである。 遊びに対する感覚は現代人よりもずっと鋭かったのかもしれない。


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