本名=鐘ヶ江秀吉(かねがえ・ひでよし)
大正15年1月1日―平成20年12月23日
享年82歳(天城院貢徳圓良清居士)
福島県会津市東山町石山天寧208 天寧寺(曹洞宗)
詩人。中国・ハルビン市生。慶応義塾大学中退。山本周五郎に師事。昭和44年『僑人の檻』で直木賞受賞。『おけい』『沖田総司』など多くの歴史小説を発表。曾祖父がつかえた会津藩をえがいた『会津士魂』で平成元年吉川英治文学賞受賞。ほかに『北条早雲』『敗者から見た明治維新』などがある。

滝沢峠にはすでに積雪が見られた。猪苗代から日橋川の十六橋を渡ると、
(会津へ帰って来た!)
という思いが強く胸に迫るのだった。
金堀村から峠に登って暫く歩き松林を抜けると頂上に出る。舟石と呼ばれる平たい大石があって、 旅人はこの石に腰かけて休息するのである。その舟石にも、うすく雪が積っていた。手拭いで払って、兵馬は息を入れた。
澄んだ空の下に、会津盆地の豊かな広がりが見えた。
(帰って来た、会津だ、おれの会津だ……)
兵馬の胸にこみ上げるものがあった。北辺の斗南に行っても、西の涯の九州に行っても常に会津の山河が、胸の底にあり、その温容と豊かな抱擁でかれを抱き止めてくれた。その大地から生れた者の魂は、その山河の中にし か安息はない。傷つき疲れた兵馬の明日には、どんな困難が待ち構えているかしれない。が、かれはこの山河の中でしか、その傷は癒されることはない。
兵馬は家族の人々を想った。弟も帰っているだろう。雪乃も案じてくれていただろう。父母にも無事な姿を見せてやりたい。
兵馬は腰をあげた。疲れは治っていた。かれは両足を踏みしめ、大きく峠の空気を吸ってから、軽い足どりで下っていった。
(続会津士魂・山河の巻)
誕生日が同じ1月1日生まれの豊臣秀吉にあやかってつけられたため本名は鐘ヶ江秀吉という。曾祖父が戊辰の役で戦った会津藩士で、早乙女貢は生涯にわたって故郷会津の再興を敗者の側から描き続けた。幼少期は蒲柳の質であったようだが、成人してからは壮健で、医者にもかかったことがないと豪語していたのだが、平成20年10月28日、鎌倉市長谷の自宅で吐血して入院、12月23日午前2時53分、胃がんのため死去。私生活を誰にも見せず、夫人も人前に出さず、編集者が原稿を取りに行っても玄関ドアの前で渡すだけという徹底ぶり、それ故でもないのだろうが、親戚筋が皆無だったという早乙女貢の葬儀は「士魂の会」のメンバー八人の密葬でおこなわれた。
初夏のまだ暗い早朝にホテルから歩き始めて一時間ほど、携帯ナビの指示通り愛宕神社からの道を選んだのが間違いだったのか、とんでもない獣道というか草木の茂った山道をくねくねと登っていくと、土方歳三が遺髪を仮埋葬したという近藤勇の墓に出くわした。合掌してまた山道を下っていくとどうにか天寧寺本堂裏に広がる墓地にでた。どうやら正式な道とは反対にきてしまったようだ。墓地の山よりの傾斜地に「士魂の会」が建立した「会津士魂」の石柱と自然石に彫られた「早乙女貢」墓が並んで見える。当初は静岡の富士霊園「文學者之墓」に葬られたが、平成22年10月21日、英子夫人と共にここに改葬されたものである。墓を背にして振り向くと朝日を浴び始めた市街が遠く浮き上がって見えた。
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