本名=佐藤八郎(さとう・はちろう)
明治36年5月23日—昭和48年11月13日
享年70歳
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種5号25側25番
詩人・童謡作詞家。東京府生。旧制早稲田中学校(現・早稲田高等学校)中退。佐藤紅緑の長男。早稲田をはじめ八つの中学校を転々、放蕩、奇行など自由奔放な生活を送りながら詩を作った。大正15年詩集『爪色の雨』を刊行。ほかに詩集『おかあさん』『母を唄う』、童謡集『叱られ坊主』などがある。

一番苦手なのは
おふくろの涙です
何にもいわずに
こっちを見ている 涙です
その涙に 灯りがゆれたりしていると
そうして 灯りがだんだんふくらんでくると
これが 一番苦手です
一番苦手なのは
おふくろの瞳です
なんにもいわずに
あっちむいてる瞳です
そのまつ毛を 静かにとぢたりしていると
そうして 空気がだんだんよどんでくると
これが 一番苦手です
(心のうた)
昭和20年、戦後初めての映画『そよかぜ』の挿入歌としてハチローの作詞した「リンゴの唄」は、荒廃した日本にとって戦後復興の象徴ともいうべき歌であった。
昭和21年10月11日、父佐藤紅緑の同郷・後輩の詩人で、子供の頃の無軌道な生活を深い愛情で癒やしてくれた福士幸次郎という、ハチローが敬愛してやまなかった恩人が死んだ。翌22年には長年の放蕩に愛想をつかした先妻くらの子供三人も育ててくれた妻るり子が急死。24年には反発と尊敬の対象であった紅緑も世を去った。その後のハチローは、若い頃の暴走を糧として多くの作品を生み出していったが、昭和48年11月13日、心臓発作により東京・聖路加国際病院で、最愛の蘭子(本名・房枝)に見守られながら振幅激しい人生を終えた。
明治7年に開設されたこの霊園には欅や松、銀杏、檜などかなりの大木が樹葉をひろげている。ゆるやかな風がたゆたう墓原、もやいがかった薄暗がりの小道を抜けると、そこには無限のまどろみを感じさせるほっとした明るさが漂っていた。
〈ふたりでみるとすべてのものは美しくみえる〉と記された石碑がしっかりと正面を遮り、その下に「サトウハチロー」の墓は遥か頭上の天空を仰いで組み込まれている。見えるものはおびただしい石碑群ばかりであったが、優しい秋の明るい陽射しに向かって、昭和23年に結婚したダンサーで元愛人の蘭子と眠る墓碑、「蘭子(房枝)とハチロー」の眼差しはどんな美しいものを見つめているというのであろうか。
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