中里介山 なかざと・かいざん(1885—1944)


 

本名=中里弥之助(なかざと・やのすけ)
明治18年4月4日—昭和19年4月28日 
享年59歳(修成院文宗介山居士)
東京都羽村市羽東3丁目16–23 禅林寺(臨済宗)



小説家。神奈川県生。西多摩尋常高等小学校卒。明治39年都新聞に入社。大正2年より『大菩薩峠』を連載。以後発表舞台を変えつつ、昭和16年まで書き継ぐ。昭和五年郷里羽村に定住し、西隣村塾、大菩薩峠記念館を開設。『黒谷夜話』『夢殿』『百姓弥之助の話』などがある。



 



 一事一物の間に、色と形とがあつて、色と形のうちには生命がある。その生命に波を揚ぐるものにカルマがあり、カルマを踴躍した処に遊戯があります。
 誰が此の小説を遊戯三昧の作と申しませう、またこの小説の作者を其の境地を味読し得た者と申しませう、ただ辛うじて、此処までカルマの相をうつし来つたのみであります。カルマはそのままでは如何にも荒涼たるものです。時々遊戯の波を挙げて業障の海に彩を加へたのが遂に此処まで来ました。これより進んで、真に遊戯三昧の髣髴を得るや否やは、作者の技倆でなく、作者の心境其ものの進展です。此作者が果して禹門三級の浪を越え得る底の力量ありや、或は無明の闇に彷徨して、昏迷の巷にのたれ死をすべき運命の者であるやの問題です。戯作もここに至るとまた自ら全人格の問題となつて来るのであります。読者諸君及び、批評に一顧を払つて下さる諸君。私は、単にこの長いものが、目まぐるしい人物の活動や脚色の多趣昧で面白かつたと云つて下されても、それで満足します。その裏へ入つて、無始無終に連なるカルマの相をごらん下さるのも有難いと思ひます。カルマを越え、仮相を脱し、恩讐の境を越えて一如の大能に触るるの時を予想して下すつても結構であります。
 蓋、カルマは東洋人特色の思想かも知れません。ユーゴーにもセキスピーアにもカルマは充分に描かれてはありません。馬琴の小説がよく因果応報を云ふけれども、カルマと人生とがピッタリと合つては居りません。この作者は因果応報は自然であると信じてゐます。随つて広大なる意味に於ての勧善懲悪は少し迎合の態度なしに宇宙の法則だと断言が出来るのであります。昔、或る画工が大地へ数百畳の紙を展べ、大樽に墨汁を充たし、俵を解いて筆に換へ、紙上を縦横に走つて何かを描いて居りました。傍人は共の何を描いてゐるのかを知ることが出来ませんでした。やがて画工は衆を靡いて高き楼上にのぼらせて見ると其れは巨大なる仏像を描いてゐたのだといふことがわかつたさうです。この悪作『大菩薩峠』といへども、作者に於ては徒らに紙筆を費してゐるのではなく、大なるものを描くの自然の筆勢に過ぎぬことを御諒解あつて、作者の素志を果たさしむるならば---共の功徳無量。
                                         
 (大菩薩峠第廿巻・完結の終わりに)

 


 

 〈大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐の国東山梨郡荻原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里に跨る難所がそれです。〉との書き出しで始まった『大菩薩峠』は28年間にわたって都新聞、毎日新聞、読売新聞などに書き継がれた。
 終戦間近の昭和19年、腸チフスを悪化させた中里介山は、4月28日午前8時15分、西秋留村(現・東京都あきるの市)の阿伎留病院(現・公立阿伎留医療センター)で息をひきとり、5月28日、大菩薩峠記念館において葬儀が行われた。
非情で特異な剣客「机龍之介」を生み出した41巻にもおよぶ一大長編小説もついには未完となってしまった。



 

 武蔵野の西はずれ、大菩薩峠に通ずる甲州裏街道沿いにある〈余の幼い時、父は多摩川の沿岸で水車を営んで居った。余の親類にも友人にも水車が多いので、水車の響きは殊の外に懐かしい。暫く佇んで廻る車を見、杵の音を聞いて居る〉と記した神奈川県西多摩郡羽村(現・東京都羽村市)。青梅線羽村駅から多摩川の川風に向かって下って歩くと中里家の菩提寺「禅林寺」がある。
 本堂裏は段丘になっており、煩悩坂というゆるやかな参道をのぼっていく。まだ若い檜林の小道沿いにある小さな墓地の一角、楓葉の深い陰裏に建つ五輪塔が中里介山の墓であった。
 初夏の昼下がり、空、風、火、水、地 、梵字の刻まれた塔は、湿気を帯びた自然石群の上にあって汗をにじませながら辿り着いた私を孤然と待ち受けていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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