半井桃水 なからい・とうすい(1861—1926)


 

本名=半井 冽(なからい・きよし)
万延元年12月2日(新暦1月12日)—大正15年11月21日 
享年65歳(観清院謡光冽音居士)
東京都文京区本駒込1丁目20–17 養昌寺(曹洞宗)



小説家。対馬厳格原藩(長崎県)生。尺 振八の共立学舎。明治21年東京朝日新聞の記者になり、『唖聾子』『業平竹』『胡砂吹く風』などを発表。24年樋口一葉を門下に加えるが、翌年一葉は門下を離れる。晩年作詞家として俗曲界に活躍した。『天狗廻状』。『義民加助』などがある。







  或冬の事でありました、武蔵野の編輯に夜を徹して朝九時頃から眠りますと、忽ち大雪が降出して、午後の二時には凡そ四五寸も積もりました、痺れ果して眠て居ながら、不図微かな咳嗽の声に目を覚し、次の間の襖を開けば、火の気もない玄関に、女史が端然と坐って居られた、何時お出でなったと問へば、十時過に上がりましたが、好く御寝なって居らっしゃるので、お待ち申して居りました、実は少々伺ひたい事があってと言れて、時計を見れば既に二時過。女史は殆んど三四時間、寒い玄関に待たれたのである、慌しく座敷に講じて、扨来意を間ふた処、女史は屡々言いよどんだ末「何だか可笑くて申出しかねますから今日は此の儘お告別致しませう」と言て雪の小降になつた頃、菊坂に帰られた、一切不得要領だ。
  其の翌日手紙を送り、昨日伺ひに出た番は外でもない、今度改進新聞に書けとあって、趣向をお示し下された内心中をする事がある、全体情死をする心持は何なものであらうか、夫を聞たいといふ難問、夫をお答へする事は出来ぬ、唯斯んな人間が斯うした義理に迫ったなら、如何さま死ぬ気になるであらうと、読者に思はせれば好いのである、近松でも馬琴ででも豈夫情死の経験はなかった筈と答へました。

(一葉女史)



 

 明治24年4月15日、雨が少し降っていた。昼過ぎに本郷区菊坂町70番地(現・文京区本郷4丁目)の貸家を出た樋口一葉は、芝区南佐久間町(現・港区西新橋)の朝日新聞人気小説記者半井桃水宅に急いだ。一刻のち、二人の運命は大きく動き始めたのだった。一葉は桃水への恋心とともに小説家への道を踏み出し、一代の名を後世に成した。
 一葉の死後、桃水はなお30年を生き、代表作『胡沙吹く風』などのほか300編以上の小説を書いたが、脳溢血のため大正15年11月21日、敦賀の病院で没した。今となっては、それらの作品を読む人もなく、彼に残されたものは一葉の師としての栄誉だけであった。



 

 冬の陽は早くて、枯れ落ち葉を巻き込んで空っ風が街道を下ってくる。一葉が最後に住まっていた丸山福山町四番地(現・文京区西片1丁目)からほど近い本郷駒込西片町(現・文京区西片2丁目)の半井桃水旧宅跡辺りを巡り、本郷通りに出て銀杏並木を一キロ程北、本駒込の養昌寺に「半井家代々之墓」はある。
 一葉は24歳の若さで逝ったが、桃水は65歳まで存命している。一葉の熱い想いに反して、桃水の述懐は素っ気なく芳しくないものであったと伝えられているが、手袋に包まれてなお悴んだ我が手の冷たさばかりが先走って、煤けた碑石を暮れなずむ薄闇空にすっくりと立ちあがらせている密かな意思を、いかほども感じ取る心境にならかったのを今更のように申し訳なく思う。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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