中河与一 なかがわ・よいち(1897―1994)


 

本名=中河与一(なかがわ・よいち)
明治30年2月28日―平成6年12月12日 
享年97歳(天﨟院直覚文誉居士)❖夕顔忌
神奈川県小田原市久野1565 東泉院(曹洞宗)
神奈川県小田原市城山4–19–8 伝肇寺(浄土宗)



 

小説家・歌人。東京都生。早稲田大学中退。大正12年菊池寬に認められ『文藝春秋』編集同人となる。13年横光利一、川端康成らと『文芸時代』を創刊。『氷る舞踏場』などを発表して新感覚派運動の旗手となった。代表作に『天の夕顔』。ほかに『愛恋無限』『失楽の庭』『探美の夜』などがある。




 東泉院の墓

 伝肇寺の墓



  それでもわたくしは今、たった一つ、天の国にいるあの人に、消息する方法を見つけたのです。それはすぐ消える、あの夏の夜の花火をあの人のいる天に向って打ちあげることです。悲しい夜夜、わたくしは空を見ながら、ふとそれを思いついたのです。
 好きだったのか、嫌いだったのか、今は聞くすべもないけれど、若々しい手に、あの人がかつて摘んだ夕顔の花を、青く暗い夜空に向って華やかな花火として打ちあげたいのです。
 わたくしは一夜、狂気したわたくしの喜びのために、花火師と一緒に野原の中に立ったのです。やがて、それは耳を聾する炸裂の音と一緒に、夢のようにはかなく、一瞬の花を聞いて、空の中に消えてゆきました。
 しかしそれが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘みとったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです。


(天の夕顔)



 

 川端康成25歳、横光利一と今東光26歳、中河与一が27歳の時、〈新感覚派の波立ち〉と康成が記した『文芸時代』を創刊。〈一つの異常な時代〉に異常な熱気を帯びた作品行動を示して、〈新感覚派〉運動を展開し、〈「疾風怒濤」の青春文学〉の旗手として華々しく旅立った中河与一であったが、昭和13年に発表し、永井荷風や徳富蘇峰、与謝野晶子らの賞賛を浴びた『天の夕顔』以降、言動が世にいわれるところの右傾化していったことによって、戦後は戦争協力者として連合国軍総司令部(GHQ)による追放を受けるなど、文壇からも排斥されて不遇な晩年を送ることとなり、平成6年12月12日午後11時45分、肺炎のため、8月から入院していた神奈川県箱根町の仙石原温泉病院で亡くなった。



 

 足柄の駅から歩き疲れてやっとたどり着いた東泉院、参詣道両側の一間おきに幹太の老梅が植わっている。境内の雑木と竹林の中に、与一が好きな言葉の一つで色紙にもよく書いていたという「鹿を見失ひぬ、されど山を見たり」の自署文学碑が影を濃くして建っている。83歳の時に先妻幹子夫人を亡くされ、同じ小田原の北原白秋所縁のみみずく寺として有名な伝肇寺にゴッホのそれを模した墓があるのだが、昭和55年85歳で再婚された久仁子夫人と小田原市板橋の新居に移り、座禅会を縁にしばしば散策に訪れていたというこの寺の本堂裏には、平成7年12月に久仁子夫人建之の「無限」と与一の筆を刻し、山の形を整えた自然石の墓碑が夕陽を背にしてどっしりと腰をおろしていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

    


    内藤湖南

    内藤鳴雪

    直木三十五

    永井荷風

    永井龍男

    中井英夫

    中江兆民

    中上健次

    中川一政

    中河与一

    中 勘助

    中里介山

    中里恒子

    中沢 清

    長澤延子

    中島 敦

    中島歌子

    中島らも

    中城ふみ子

    永瀬清子

    永田耕衣

    中谷孝雄

    長田秀雄

    長田幹彦

    長塚 節

    中西悟堂

    中野孝次

    中野重治

    中野鈴子

    中野好夫

    中原綾子

    中原中也

    中村草田男

    中村憲吉

    中村真一郎

    中村苑子

    中村汀女

    中村光夫

    中山義秀

    長与善郎

    半井桃水

    夏目漱石

    南部修太郎