中村憲吉 なかむら・けんきち(1889—1934)


 

本名=中村憲吉(なかむら・けんきち)
明治22年1月25日—昭和9年5月5日 
享年45歳(林泉院釈浄信憲吉居士) 
広島県三次市布野町上布野 生家墓地



 
歌人。広島県生。東京帝国大学卒。伊藤左千夫に師事。『アララギ』主要同人として現代日本歌人の第一人者として活躍した。大正2年に島木赤彦と共著で歌集『馬鈴薯の花』を刊行。つづいて5年『林泉集』を刊行し存在を示した。ほかに『しがらみ』『軽雷集』などがある。





 


弟妹等をつれて来れば愛しき墓の立木に茅蜩啼くも

格子より透ける道路の夕あかり雨しらじらとほとばしり見ゆ

雪山よかぜ吹きつげり凍りたる川瀬の岸のいく朝とけず

明け暮れを人に倦みつつ冬のかぜ寒き狭間に我れ生きんとす

山嶺より湖をひろく見て朗かに大き寂しさに入りたまひけむ 

みづからの命を思はぬ悔おこる慌しくて年は暮れたり

朝あさの道に露けき鴨跖草やありがたく生くる我を思ふも

雨ながら焚火の煙ひろがりて木立のおくに入るがしづけし

病みながら旅のやどりに妻として歳をぞ守る夜ふかくして

病む室の枯れ木の櫻さへ枝つやづきて春はせまりぬ

 


 

 赤名峠を越えると出雲国という山峡の地で金融業・酒造業などを営み、田畑山林も甚だ多い大地主の家の次男として生まれた中村憲吉。伊藤左千夫に認められ、斎藤茂吉や島木赤彦、土屋文明等とともに『アララギ』の中心歌人として近代短歌の礎を築いたのだったが、長兄の早世で養子先から実家にもどり、父の隠居によって家督を継いで帰住した郷里・上布野で、昭和4年7月に発熱病臥するようになった。翌年から五日市町(現・広島市佐伯区)に転地療養し静養につとめたが病状は回復すること叶わず、8年12月に転地した療養先の広島県・尾道市千光寺公園傍の仮寓で翌年の5月5日午後7時40分、肺結核に急性感冒を併発して45年の生涯を閉じた。





 

 アララギの木が塀越に見える「中村憲吉記念文芸館」の前を、広島と出雲を結ぶ旧道が通っている。江の川の支流布野川と平行したその道を少し行った四つ辻の東側、急坂を上ったところにある旧布野村役場跡広場北側の石垣段の上に歌人の墓は寂しさを堪えるようにしてあった。〈中国山脈の小峡間に介在した寂しい一宿駅〉の郷村で、〈朝夕にこの寂しくて単調な、寒柵の水の姿と音〉を愛してやまなかった「中村憲吉之墓」。斎藤茂吉揮毫の墓碑裏側に戒名「林泉院釈浄信憲吉居士」と没年月日が刻されている。左側に昭和48年3月に79歳で亡くなった妻シツ子の墓碑。生い茂った欅と楓の樹葉からこぼれ落ちた陽光が、チラチラと風に揺れて墓碑の上に踊っている。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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