中西悟堂 なかにし・ごどう(1895—1984)


 

本名=中西富嗣(なかにし・とみつぐ)
明治28年11月16日—昭和59年12月11日 
享年89歳 
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園ね地区1側75号
 



野鳥研究家・詩人。石川県生。天台宗学林(現・大正大学)、曹洞宗学林(現・駒澤大学)。大正11年第一詩集『東京市』を、その後詩集『花順礼』『武蔵野』を刊行。また、野鳥と昆虫の生態を研究し、昭和9年に「日本野鳥の会」を設立。『野鳥と生きて』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。随筆に『野鳥と共に』『定本野鳥記』などがある。



 



 私は、このごろほど、「空間」を思うことはない。一人の一生も、人の一つ一つの行動も、家庭の団欒も、一つの都会も、ないしは砲煙の戦場さえも背景に大きい空間があり、空間を背にしてこそ意味を持つ。ゴッホの画がどんなに燃えていても、空間があってこそ美しいように、人のいとなみも空間の余白が大きく見えなくては、のたれ死にの一生だと思う。私はこの空間を追究したい。空間がいつもまといついているような余生でありたい。
せっかく今まで見てきた鳥を人生の深部に持ちこむこと。鳥と人生の条件を一つにすること。これは鳥の記録でも保護でもない。冷たい観察や計算を通しての開析や帰納でもない。もっと一枚の、じかのものだ。たいへんむずかしいことだが、この追究が、私に真の青春をもたらすだろう。
耻(やさ)しみて対(むか)ふべしやはこの年の桜莟(ふふ)めり枝を蔽ひて
季(とき)の花発(ひら)くごとくにおのがじし人らが和む世や遠からし
季(とき)くれば内綻びて花となる超善の美を人持たぬかな
庭もせは桜吹雪のうしろより夕日さし照る明るさぞ沁む
                                     
(野鳥記・独語)



 

 短歌から出発し、詩歌においては室生犀星や萩原朔太郎等の賞賛も得たが、伏流となっていた内面的な求めは、突然に転機をもたらした。〈旅の放浪にもまして寂しい都会生活〉に別れを告げ、足を踏み入れた田園自然の世界。そこには〈裸にかえった、素朴な、むしろ祈りに近い、ひたむきな初々しい願い〉があった。野から山、昆虫から鳥へ、自然の消息を伝えながら、その先には鳥類愛護の思想の普及と、鳥類研究の推進を掲げた「野鳥の会」の誕生をも得た。
 探鳥ブームの基礎を築き、野鳥保護思想の啓蒙普及に生涯を捧げたが、昭和59年12月11日午後8時、横浜・港南台病院で転移性肝臓がんによって『野鳥文学』の創始者中西悟堂は幽界に赴く。



 

 〈私には自然への帰依と信奉が強く、いかなる思想も自然を欠いては浮き上がってしまうという信念さえ持つようなってもいた。そしてその自然の中の第一の対象が鳥であった〉と自伝に記した中西悟堂。
 「野の鳥は野に」という自然本来のままに保護する主張は「野鳥の会」の発展と共に大きく広がっていった。
 「自然」は貴いもの。鎌倉の奥づまり、朝比奈に繋がる曲がりくねった山街道に沿うように位置するこの霊園にも野鳥の住処はあった。澄み切った空、中秋の原、黄金色に透き通ったゆらめく穂先、名も知らぬ白い小さな花、鳥々の宴、自然の抒情に抱かれて聖域は安らいでいる。「中西家之墓」、墓前の碑に悟堂の横顔レリーフ、「野鳥の父 中西悟堂ここに眠る」とある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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