木下利玄 きのした・りげん(1886—1925)                     


 

本名=木下利玄(きのした・としはる)
明治19年1月1日—大正14年2月15日 
享年39歳(天章院殿温良利玄大居士)❖利玄忌 
岡山県岡山市北区足守219 大光寺(臨済宗) 




歌人。岡山県生。東京帝国大学卒。佐佐木信綱に師事、『武柏会』同人となる。明治43年学習院で同級だった武者小路実篤、志賀直哉等と雑誌『白樺』を創刊。島木赤彦等の影響を受け、歌集『銀』『紅玉』を発表。のち『日光』同人としても活躍した。ほかに歌集『一路』歌文集『李青集』などがある。








落葉やく青き煙のよどみたる林をゆけば雨のおちくる

子の生れ子の死に行き死夏すぎて世は秋となり物の音すむ

街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る

ロベリヤの紫いろがしつかりとその位置占めて咲けるくもり日

大木のくろき梢にしきられて星の夜空のさばくしたしも

薄雪に春日はかくれ杉が枝に色こまやかなる藤のむらさき

妹の小さき歩みいそがせて千代紙買いに行く月夜かな

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ

曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに狐が出ると思ふ大人の今も

曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

 


 

 〈丈の小作りな、大人びた顔の、口を堅く結んだ、一寸人好きのしない風貌〉でいて〈明るく朗らかで、さびしい上品さ〉があった木下利玄。神田を散歩するとおもちゃ屋と古本屋には軒並み入ると云われるほどの玩具好きで、節句や七夕などの年中行事にも深い関心を持っていた。大正11年春から患った肺結核は、14年に入り利玄の全身を衰弱させた。中旬には水腫が顔面に出るなど病状悪化、29日には危篤に陥るも2月になって小康を保ち、桃の節句に飾るために雛人形を買い求めたのだが、13日に胃の麻痺を併発、15日午後8時13分、39年の短い生涯を終えた。亡骸を納めた棺には飾ることが叶わなかったその雛人形が入れられたという。絶詠は〈大和路へ冬入り来りこの朝け寺にありてみる庭の万両〉



 

 武家屋敷や古い家並みの残る足守の町。陣屋の南西に足守藩主木下家の菩提寺・大光寺はあったのだが、山門をくぐって茫然とする。先代の住職が亡くなってからというもの無住のままだったらしく境内・本堂ともに荒れ放題、夏草は背丈ほどにも生い茂り、妖しげな雰囲気さえ漂っている。本堂右手奥からぬかるんだ道を裏山の方へ上っていくと木下家墓所が暗鬱としてあった。諡の「天章院殿温良利玄大居士」と刻まれた人丈ほどの笠付き墓石、旧足守藩最後の藩主木下利恭の弟・利永の次男として生まれ、明治24年5歳の時、利恭の死によって宗家・木下子爵家の養嗣子となって、家督を継ぐために上京。それ以後は父母のもとで暮らすことなく、故郷足守に帰省することも数えるほどしかなかったという利玄の墓がここに鎮まってある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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