木俣 修 きまた・おさむ(1906—1983)                   


 

本名=木俣修二(きまた・しゅうじ)
明治39年7月28日—昭和58年4月4日 
享年76歳(慈厳院殿歌道良修居士)
世田谷区豪徳寺2丁目24–7 豪徳寺(曹洞宗)




歌人。滋賀県生。東京高等師範学校(現・筑波大学)卒。北原白秋の門下生。白秋主宰の歌誌『多磨』に参加し、白秋死後その編集にあたる。昭和28年『形成』を創刊主宰。49年『木俣修歌集』で芸術選奨、58年芸術院恩賜賞受賞。昭和女子大、実践女子大教授を歴任。ほかに歌集『雪前雪後』や『白秋研究』などがある。








街路樹の枝鳴らし来る風雪はこの路地に落ちて音を止めたり

父の柩火に葬り来て踏む地の草の紅葉に沁むひかりはや

氷のごときするどきおもひ冴えゆくを暁のひかりはすでに射しそむ

倒れたる群の墓石も曼珠沙華もただにかがやき丘の夕光

たちまちに涙あふれて夜の市の玩具売場を脱れ来にけり

昼に来て坂下の街をめぐりゆく吹きたまりたる落葉匂へば

ひとの魂抜くごとき声に梟の啼く夜となりてしきりねむたし

起ちても涛かがみても涛どうしゃうもなくて見てゐる高志の冬涛

竹の葉に結べる露はあかときにおもひだすごと音たてて落つ

地平の果もわが佇つ丘もさばかるるもののごと鎮み冬の落日





 

 

 昭和2年の春、高等師範学校復学のために上京して世田谷・若林の北原白秋邸を訪れ、白秋が顧問をしていた『香蘭』に作品を発表することを薦められて以来、学窓を出て仙台、富山の教職時代などで十年間もの距離の隔たりはあったものの、いつの時も白秋と木俣の関係は人間的にも芸術的にも篤い絆で結ばれていた。17年に死去した白秋の遺托である白秋主宰の歌誌『多磨』の編集と白秋遺著の整理・編纂に応えるために教職を辞して上京、文学に生きる決意を固めた木俣は昭和28年『形成』を創刊主宰し、多くの歌集と近代短歌の研究を遺してきたが〈大きな身体をしているのに、健康にはあまり恵まれなかったのだが無理をして仕事を続けて来た〉のが応えたのか〈桜前線が東京にとどく〉のを待ったかのように昭和58年4月4日、腎不全のため死去した。





 

 

 彦根藩主井伊直孝が寛永10年に井伊家の菩提寺とした豪徳寺。松並木の続く先の山門をくぐると鐘楼や三重塔が見えてくる。一説には招き猫発祥の地でもある由、境内には大小様々千体以上の招き猫が所狭しと並んでいる。境内左側に広大な井伊家墓所があり、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼などの歴代藩主や正室、世子、側室、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓総数三百基余が粛然として並んでいる。彦根藩井伊家墓所は豪徳寺の他、滋賀県彦根市の清涼寺や永源寺にもあり、代々彦根藩の城代家老をつとめた木俣家の墓所は彦根の清涼寺にある。木俣修の両親や前妻しま子もその墓所に埋葬されたのだが、早世した長男高志と修の親子は、射し始めたばかりの初夏の朝日を浴びて、この豪徳寺の「木俣家之墓」に眠っている。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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