本名=菊池 寛(きくち・ひろし)
明治21年12月26日—昭和23年3月6日
享年59歳 ❖寛忌
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園14区1種6側1番
小説家・劇作家。香川県生。京都帝国大学卒。旧制第一高等学校(現・東京大学)同級の芥川龍之介・久米正雄らと大正5年第四次『新思潮』を創刊。戯曲『屋上の狂人』『海の勇者』『奇蹟』『父帰る』などを発表。その後『無名作家の日記』『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』を発表。大正9年『真珠夫人』などの通俗小説に進んだ。12年雑誌『文芸春秋』を創刊。

そのしはがれた悲壮な声が、水を浴びるせるやうに実之助に徹して来た。深夜、人去り、草木眠って居る中に、ただ暗中に端坐して鉄槌を振って居る了海の姿が、墨の如き闇にあって尚、実之助の心眼に、歴々として映ってきた。夫は、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振って居る勇猛精進の菩薩心であった。実之助は、握りしめた太刀の柄が、何時の間にか緩んで居るのを覚えた。彼はふと、我に帰った。既に仏心を得て、衆生の為に、砕身の苦を嘗めて居る高徳の望に対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎの如く、獣の如く、瞋恚の剣を抜きそばめて居る自分を顧ると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。
(恩讐の彼方に)
〈生活第一、芸術第二〉を信条とした作家。現実主義的な生き方に毀誉褒貶が浴びせられたが、とにかくに日本文壇を支えてきたその行動力と包容力によって、昭和の多くの作家達が救われてきたのも事実であった。
円縁眼鏡の奥に細まった柔和なその眼差しは、遠くではなく、いつも身近な作家達に注がれていたが、敗戦後の混乱期、昭和23年3月6日午後9時15分、狭心症のため豊島・雑司ヶ谷の自宅書斎で急逝した。
遺書には〈私はさせる才分無くして文名を成し、一生を大過なく暮らしました。多幸だったと思います。死去に際し、知友及び多年の読者各位に厚く御礼申します。ただ皇国の隆昌を祈るのみ。 吉月吉日 菊池寛〉とあった。
雑誌『文芸春秋』を創刊し、のちに芥川賞、直木賞、菊池寛賞などを創設、「文壇の大御所」などと呼ばれもした。良くいえばおおらかなのだが、無神経、無頓着なその言動は永井荷風など一部の人たちには嫌悪の対象になったが、間違いなく日本の文学発展に寄与した功績は多大なものがあったのだ。
——この広大な多磨霊園には放射状に延びた幹道が数本走っている。その一筋の桜並木の参道から小さな段を上ると、正面の大樹から落ちた木の実があちこちに散らばっていた。逆L字型に配された敷石を辿っていくと、川端康成による碑文字「菊池寛之墓」の刻がある重量感に満ちた明るい墓碑に対面した。まるで釈迦入滅の涅槃像を見たような安穏な感覚におそわれて、しばらくの間佇んでいたいと思ったものだ。

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