磯田光一 いそだ・こういち(1931—1987)


 

本名=磯田光一(いそだ・こういち)
昭和6年1月18日—昭和62年2月5日 
享年56歳(一念院文林光彰居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内0402 浄智寺(臨済宗)



評論家。神奈川県生。東京大学卒。東京大学英文科時代、5年にわたる大病をした。大学及び大学院でイギリス、ロマン派詩人の研究。中央大学助教授。昭和35年『三島由紀夫論』で評論活動をはじめる。『鹿鳴館の系譜』で読売文学賞を受賞。『殉教の美学』『戦後批評家論』『邪悪なる精神』などがある。






 

 私は戦時下の忌まわしい神話の仮面をはぎとった戦後の進歩主義者の業績を無視しようなどとは思わない。しかし理想を喪失した「平明」の「いたましさ」を感じぬ精神とは、所詮は文学と無縁な精神にすぎぬのではないか。(中略)それは合理主義者では考えられない奇蹟であった。「風車」が「風車」にすぎない「いたましさ」の前には、あらゆる奇蹟は不可能であろう。しかし平明のいたましさに深く傷ついている者にとっては、奇蹟は不可能なるがゆえに生起しなければならない何ものかを意味していたのである。人間は死を免れえない。これは平明な論理であろう。しかし「人間は死を免れぬ」という事実判断の対極には、もう一つの不条理な論理、つまり「死を免れえぬ永遠に生きていたい」という論理が成立してもよいのではなかろうか。そして「芸術」と名づけられた背理にみちた所業こそ、人間の不可能への情熱が生み出したひとつの奇蹟なのではなかったろうか。
                                                          
(殉教の美学)

 


 

 昭和35年、『三島由紀夫論』が『群像』新人文学賞の佳作となって文芸評論家として出発したのであった。ボードレールのダンディズムに本質をおいた磯田であったが、「悪」に対するに「悪」を以てするという信念は、どこまでも磯田光一の方法論であって、彼自身は一見偽悪家風ではあっても、「悪」そのものではなかった。
 『群像』に連載していた『萩原朔太郎』は最終章をのこして未完に終わり、『昭和文学史』の執筆という目標を達成すること叶わなかった。
 多病の体ではあっても、その都度大きな回復力を示してきた彼の生命は、昭和62年2月5日、突然の急性心筋梗塞によって奪われていった。『人工庭園の秩序』が遺著となった。



 

 昭和39年に発表した『殉教の美学』を実践して自決した三島由紀夫の死を悼んで、友人知己に「三島由紀夫の死への哀悼の意をこめて、来年の年賀は欠礼させていただきます」と喪中葉書を送ったほどであった。それ故に一方の知識人といわれる人たちから、右寄り、或いは反動などと揶揄されもしたのだった。
 北鎌倉にある浄智寺の磯田光一の墓は、つい最近建てらればかりのように白々と真新しいほど光沢のある五輪塔で、後背の苔生した石垣と著しい対比を顕していた。同じ筋には澁澤龍彦の墓が並び、また阿川弘之の墓が準備されていた。
 ——〈世に名作ということになっている作品でも、とても再読に堪えないものがずいぶんある〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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