飯田蛇笏 いいだ・だこつ(1885—1962)


 

本名=飯田武治(いいだ・たけはる)
明治18年4月26日—昭和7年10月3日 
享年77歳(真観院俳道椿花蛇笏居士)❖蛇笏忌 
山梨県笛吹市境川町藤垈 智光寺墓地(曹洞宗)



俳人。山梨県生。早稲田大学中退。大学在学中に詩や小説、俳句を試みたが中退、帰郷。明治41年から高浜虚子に師事。大正6年『雲母』を主宰。昭和7年処女句集に『山廬集』を刊行。故郷・境川村での俳句創作活動を続けた。句集に『霊芝』『白嶽』、評論集に「現代俳句の批判と鑑賞」などがある。






 

たましひのしづかにうつる菊見かな

もつ花におつる涙や墓まゐり          

たましひのたとへば秋のほたる哉

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり         

死火山の膚つめたくて草いちご         

戦死報秋の日くれてきたりけり         

冷やかに人住める地の起伏あり         

いち早く日暮るる蝉の鳴きにけり

誰彼もあらず一天自尊の秋 

 


 

 生前、一基たりとも句碑の建立を許さなかった蛇笏であったが、没後一周忌に甲府・舞鶴城二の丸跡に建てられた唯一の句碑(平成4年、山梨文学館の庭に移設)がある。
 〈芋の露連山影を正うす〉。
 生地東八代郡境川村(現・笛吹市境川町)を望むこの碑の右下にこんな一文が記してある。〈蛇笏飯田武治先生は明治十八年四月二十六日山梨県境川村に生れた 生涯家郷の山廬にあつて句業に専念し 雲母を主宰してその格調高い清韻を全国に普遍した 晩年に至るまで毅然たる風姿を以て作家活動を継続 句集山廬集をはじめ幾多の傑作と著書を残して昭和三十七年十月三日に永眠した この碑は蛇笏先生の一周忌に際し蛇笏文学を讃仰する多くの門下ならびに知友後輩によつて建立された〉。



 

 「真觀院俳道椿花蛇笏居士/清觀院真月妙鏡慈温大姉」、遺言通りの戒名を並べ、清々しい碑面は山廬の方角を望んでいる。左に先立たれた三人の息子の墓、右は両親の墓。
 茅屋山廬のうしろを流れくだる狐川、あるいは忙中閑を得てのぼる春日山、東京を退いてのち晴耕雨読の境涯を送るさだめを慰めてくれた家郷境川村の自然、山間の100戸あまりのこの村に生涯を埋めた蛇笏の詩魂は、地熱のもやった丘陵にひろがる桃畑のすみずみから、微かな蒸発気をともなってこぼれくるようだった。
 平成19年2月25日、四男で後継者だった飯田龍太氏が亡くなられた。蛇笏氏の墓参の時、山廬をお訪ねする機会を得たのだったが、病を得て床に就かれており夫人にしかお目にかかれなかったのが心残りとなった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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