石原 純 いしわら・じゅん(1881—1947)


 

本名=石原 純(いしわら・あつし)
明治14年1月15日—昭和22年1月19日 
享年66歳 
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園下の乙4号4側24番 


 
歌人・物理学者。東京府生。東京帝国大学卒。大正3年東北帝国大学教授となる。8年相対性理論、量子論の研究で学士院恩賜賞を受賞するが、10年に起こった原阿佐緒との恋愛スキャンダルで退職し、以後は科学の啓蒙の傍らアララギ派の歌人として新短歌運動を推進した。歌集『靉日(あいじつ)』随筆集『夾竹桃』などがある。








美しき
数式があまたならびたり。
その尊とさになみだ滲みぬ。

名に慕へる相対論の創始者に、
われいま見ゆる。
こころうれしみ。

夏の休み日の
実験室は寂しかり。
鋼鉄のうへの面錆を見る。

紙片の劃を一つ一つに埋めて、
それで
せめてもの生命を燃やさうとする。

雲が空をじっと包んて、
花が、ダリヤの花が
くろく咲いた。

血が逆流するやうな苦しさです、
葉鶏頭も
ぐったりと倒れて。

 


 

 欧州留学の際、チューリッヒの大学でアインシュタイン教授に会ったときの感動を〈名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見ゆる。/こころうれしみ。〉と詠んでいるように、石原純は日本で初めての理論物理学者であり、日本近代物理学史に名を刻む人物であった。しかし、大正10年の歌人原阿佐緒との恋愛スキャンダルは学会のみならず巷間にも大きな波紋を広げて、東北帝国大学教授を辞することに発展する。以後は科学思想啓蒙家、新短歌の提唱者として科学と文学における活動を推進していったが、昭和20年12月に岩波書店からの帰途、進駐軍のジープに跳ねられて意識不明・右腕骨折などの重傷を負い、加療を続けていた甲斐なく回復せぬまま22年1月19日午後5時35分、脳内出血のため死去した。



 

 進駐軍のジープで跳ねられ、慶応病院で三ヶ月の入院生活の後、大正10年、原阿佐緒と世間の目を逃れ住み、昭和3年9月に阿佐緒が去った後も暮らしていた房州保田(現・千葉県鋸南町)の東京湾を望む緩やかな丘陵に建てられた靉日荘で、意識もおぼろげな寝たきり生活のまま死んだ石原純の永遠に眠る場所。長男紘氏によって遺骨が納められた「石原家之墓」、最後の将軍徳川慶喜の墓所近く、炎天の強烈な熱射を遮るような濃い緑の木陰に静まってある。碑裏に石原純のほか日本基督教会本郷教会の設立に尽力した父の量、母千勢、祖母鋠子や子供たちの没年月日が記され、夫の帰りを最後まで待ち続けて純から遅れること26年の昭和48年10月に93歳でなくなった妻いつの名が読める。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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