林 芙美子 はやし・ふみこ(1903—1951)


 

本名=林 フミコ(はやし・ふみこ)
明治36年12月31日—昭和26年6月28日 
享年47歳(純徳院芙蓉清美大姉)❖芙美子忌 
東京都中野区上高田4丁目14–1 万昌院巧運寺(曹洞宗)



小説家。福岡県生。尾道高等女学校(現・尾道東高等学校)卒。毀誉褒貶の激しい作家であった。大正11年上京、数々の職を転々、自活。昭和3年不遇な人生経験を日記風に綴った小説『放浪記』を『女人芸術』に連載し、好評を得た。その後『牡蠣』『泣虫小僧』、戦後『うず潮』『晩菊』『浮雲』などを発表。






 

 ゆき子は、このまゝ死ぬのではないかと思った。分裂した、冷い自分が、もう一人自分のそばに坐って、一生懸命、死神にとりすがってゐるのだ。死神は、ゆき子の分身の前に現存してゐる……。この女の肉体から、あらゆるものが去りつゝあるのだと宣べて、死神は、勝利の舞ひを、舞ってゐるやうでもあった。胸中に去来するもののなかに、ゆき子は、かすかに、加野の誘ひの声を聞いた気がして、頭をかすかにふった。いままでの生活のなかで、ゆき子は、未練に思ふやうな心残りなものは一つもなかったし、いま、自分のそばに、富岡がゐてくれたにしても、もうすでに、冥府へ、自分だけの乗った汽車は、走り去らうとしてゐる。最後の生命を貫流する、矢つぎ早な、肉体の破壊作用は、いったい、どこから音をたてて崩れてゆくのか、ゆき子は、自分の死の最初を知りたかった。苦しくあへいだ。水が飲みたかった。無鉄砲なほど、健康だった頃の、あの長い旅行の数々が、虹のやうに、とりとめなく瞼に浮かんで来る。未知の世界へ逝く、不安と分裂と混乱が、ゆき子の十本の指のなかに、ピアノのキーを叩くやうな表情で、表現されてゐた。空洞になった肺のなかに、泥ゝの血が溢れてゐるやうな気持ちの悪さだ。
                                                             
(浮雲)



 

 昭和26年6月27日午後10時頃、仕事過多による疲労を抱えたまま雑誌『主婦の友』の〈私の食べあるき〉の企画を終え、東京・下落合(現・新宿区中井)の自宅にやっと帰り着いた芙美子は、家人に自身の手になるお汁粉を振る舞った後、翌午前1時頃マッサージを受けている途中におそわれた急性心臓発作により突然の死を迎えた。
 葬儀は『林芙美子記念館』となっている下落合・四の坂の自宅で行わ
れ、葬儀委員長を務めた川端康成は〈故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後2、3時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います〉と参列者に挨拶した。



 

 林芙美子の遺体は邸からも見える落合火葬場で荼毘に付され、向かいの小高い丘上にある万昌院巧運寺に埋葬された。
 
ゆるい坂の山門を入ると正面に立派な本堂があり、右手には今日的な風景である幼稚園が広い面積を占めていた。 本堂左手奥にその墓地はあり、狭い墓域のわりには吉良上野之介、歌川豊國など著名な墓が多くあった。なぜかコーヒー缶と梅花模様の湯飲みが供えられている。
 川端康成の筆になる「林芙美子墓」は、川端の挨拶にもあったように、エゴイスチックで、奔放な行動に多くの非難が寄せられもしたのだが、来し方を遠くにうちやって、こじんまりと掃除の行き届いた敷地に静かに建っていた。
 〈花の命は短くて苦しきことのみ多かりき〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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