本名=原 民喜(はら・たみき)
明治38年11月15日—昭和26年3月13日
享年45歳 ❖花幻忌
広島県広島市中区東白島町16–19 円光寺(浄土真宗)
小説家・詩人。広島県生。慶應義塾大学卒。昭和8年評論家佐々木基一の姉貞恵と結婚をするが、19年死別。20年広島に疎開し、被爆。22年被爆体験を綴った『夏の花』で注目される。その後『鎮魂歌』などを書いたが、26年鉄道自殺をした。ほかに『心願の国』『原民喜詩集』などがある。

泉邸の杜も少しずつ燃えていた。夜になってこの辺まで燃え移って来るといけないし、明るいうちに向岸の方へ渡りたかった。が、そこいらには渡舟も見あたらなかった。長兄たちは橋を廻って向岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまだ渡舟を求めて上流の方へ溯って行った。水に添う狭い石の通路を進んで行くに随って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫れ上って、随って眼は糸のようにただ細まり、唇は思いきり欄れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横わっているのであった。私達がその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は紬い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴えごとを持っているのだった。
(夏の花)
妻を病で失って、〈一年間だけ生き残ろう〉と疎開した郷里広島の生家で被爆、幸い一命は取り留めたとはいえ体調は優れなかった。原爆を描いた『夏の花』は原民喜の代表作となったが、上京後の執筆活動はともかくも体調は依然として良くならず、付随して日々厭世観に襲われるようになってきた。——昭和26年3月13日午後11時30分ころ、西荻窪駅ホームから西側250メートル付近の線路上に一人の男が身を横たえていた。まもなく西荻窪を発車した三鷹行きの電車は、その男を巻き込み50メートルほど引きずって止まった。一輪の花の幻を刻んで原民喜は永遠に口を閉じたのだった。
〈私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ 透明のなかに 永遠のなかに〉。
民喜の下宿には『心願の国』の原稿と、昭和一九年に病死した妻貞恵の弟・評論家の佐々木基一や遠藤周作、丸岡明などの親族・友人に宛てた17通の遺書がのこされていた。その中の1通は、丸の内の貿易会社に勤める英文タイピスト祖田裕子にあてたものであった。極端な厭人癖のある民喜の心を、叙情詩のように慰めてくれたこの年若い女性に〈とうとう僕は雲雀になって消えて行きます。〉との言葉を遺している。
原爆に弾き出され、叫喚と混乱の中で死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きようとした民喜の亡骸がある原家墓碑「倶会一處」。積み上げられた無縁墓のとなりに建っているこの石の望むところ、西方浄土の花園に原民喜の魂は行き着いたのであろうか。
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