萩原朔太郎 はぎわら・さくたろう(1886—1942)


 

本名=萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)
明治19年11月1日—昭和17年5月11日 
享年55歳(光英院釈文昭居士)❖朔太郎忌 
群馬県前橋市田口町754–4 政淳寺(浄土真宗)



詩人。群馬県生。慶應義塾大学中退。大正5年室生犀星と詩誌「感情」を創刊。翌年処女詩集『月に吠える』を刊行した。12年には第二詩集『青猫』を刊行。14年以降は東京に住み詩作を続け、昭和9年詩集『氷島』、小説『猫町』などを刊行。詩論『詩の原理』、随筆『帰郷者』などがある。






 

日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。

ああ汝 漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐へるかな!
かって何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かって欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁ひ疲れて
やさしく抱かれ接吻する者の家に帰らん。
かって何物をも汝は愛せず
何物もまたかって汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
                            
(『氷島』漂泊者の歌)



 

 北原白秋を介して室生犀星とは生涯の友となった。『月に吠える』や『青猫』で口語と自由律による近代象徴詩を示して詩壇に多大な影響を与えていった。
 黒幕の影からいよいよ角を出し
 行列の行きつくはては餓鬼地獄
 枕頭の手帳に書きとめられたこの二句を遺して〈日本近代詩の父〉と呼ばれた萩原朔太郎がその最期に見た幻想は何であったのだろうか。漂泊の果てに行きついた餓鬼地獄とは、朔太郎にとっての孤独な旅の終着駅だったのか。昭和17年5月11日午前3時40分、急性肺炎によって幻想を見続けながら寂寥の人は逝ってしまった。この年、朔太郎が敬愛した二人が相次いで逝った。同月29日には与謝野晶子が、11月2日には北原白秋が。



 

 前橋郊外に点在する丘陵のひとつに政淳寺はある。自然がとりまくこの寺は前橋市内の繁華街・榎町(現・千代田町)にあったのだが、昭和47年に現在地に移転されてきたものだ。坂道をのぼり門前にたどりつくと、右手前方にむっくりと赤城山が起きあがってきた。
 萩原家墓所は本堂右手の墓地入口のすぐ左にある。榎町にあった頃には朔太郎もしばしば父の墓参に訪れて〈わが草木とならん日に たれかは知らむ敗亡の 歴史を墓に刻むべき。 われは飢ゑたりとこしへに 過失を人も許せかし。 過失を父も許せかし〉という詩を残しているが、一昨夜の雪が溶けずにある塋域の墓石をながめていると、さっき鐘撞堂で老婆と戯れていた銀灰色の子猫がミャアーと跳ねていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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