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 古代日本で豪族主導の政治から天皇中心の政治に転換する契機となったとされる大化改新は、中大兄皇子と中臣鎌足を中心に実行されたというのが通説である。ところが「大化改新の首謀者は孝徳天皇だった」という説がある。その出典は歴史学者・遠山美都男氏著作の「大化改新」である。有間皇子の父であり、山口ゆかりの孝徳天皇の事跡の再評価ともいうべきこの著作の解説である。
著者は、要約すれば以下の点から、大化改新の真の主役は孝徳天皇だったと主張する。
@、大化改新当時の王権継承は、王族という血液集団内の年齢的・人格的成熟度を重視した王権継承原理が整備されており、この時期に十代後半だった中大兄皇子には王権継承資格があったとは到底考えられない。当時49歳だった軽皇子(孝徳天皇)こそが、王権継承者に相応しい年齢と人格的成熟度を備えていた。
A、「中大兄と鎌足の強固な主従関係が(大化改新前の)早い段階から存在し、これが、乙巳の変とその後の政局の一貫した中核であり続けた」という『日本書紀』の記述は客観的な事実とはいい切れない。王権と藤原氏の特殊な関係の起点は、不比等の代にもとめられるもので、鎌足の代はあくまでその萌芽をなすものに過ぎないとして、中大兄の大化改新首謀者説そのものにも疑問がある。
B、乙巳の変に参加したことが明らかな人物や関与したことが窺える人物のほとんどが、和泉国和泉郡やその周辺地域にそれぞれの拠点や勢力を有し、そうした地縁を通じて軽皇子との間に何らかの接点をもっていた。政変後に成立した新政権は、飛鳥から難波に出て壮大な難波長柄豊碕宮を造営する。政変参加の多くの本拠が難波に程近い和泉・河内地方にあったことが大きく関係している。彼らの勢力圏内にその政権の威容を誇示する大王宮を建設した。 
 
■「大化改新の首謀者は孝徳天皇だった」という説の出典は、歴史学者・遠山美都男氏著作の「大化改新--六四五年の宮廷革命--」である。
序章「 六四五年六月十二日」では「乙巳の変」とよばれる「蘇我蝦夷・入鹿殺害のクーデター」の顛末を、『日本書紀』をもとに物語風に忠実に再現される。
■一方で序章の結びでは、「書紀」の記述が中大兄皇子と中臣鎌足という事件の一方の当事者たちの主張であり、それは二つの点で再検証が必要であると疑問を呈する。
■一つは「中大兄が事件前後において(略)有力な王権継承予定者だった」という点であり、今ひとつは「中大兄と鎌足の強固な主従関係が(事件前の)早い段階から存在し、これが、クーデターとその後の政局の一貫した中核であり続けた」という点である。
第T章「国家形成と王権継承」のテーマは、「中大兄皇子が事件前後において(略)有力な王権継承予定者だった」という『日本書紀』の記述に対する学術的な疑問を投げかけることである。
■日本列島の諸集団を「代表」する最高首長「倭国王」は、後漢の光武帝から下賜された「倭奴国王」の印綬にみられるように中国王朝に対する従属関係を契機に誕生したと説き起こされる。その後の「倭国大乱」を経て、三世紀末に各地の政治勢力が、前方後円墳をシンボルとした列島規模の連合体を結成した。この連合体の首長が、もともと大和国南東部を本拠とした首長で、彼を中核に日本列島は「統一」された。この頃の最高首長に求められたのは軍事指揮官としての能力の卓越性だった。
■五世紀から六世紀にかけて人民支配システムとして伴造(とものみやっこ)・部民(べのたみ)制が整えられた。列島を「代表」する最高首長としての大王とその一族に対する貢納・奉仕を各地の首長配下の諸集団に負担させるシステムである。この伴造・部民制を通じて貢納・奉仕を受ける特殊な集団の固定化、すなわち支配者集団内部の王族という特殊血液集団が確立した。
■大化改新当時の七世紀頃の王権継承は、王族という血液集団内の異母兄弟姉妹の関係にある同母の集団の同一世代という条件を重視した王権継承原理があった。つまり支配層の合意にもとづいてある一定の世代から大王に相応しい人物を次々に選び、該当者が尽きた後、次の世代の大王たる人物を求めるというものだった。
■そうした原理が登場した背景に伴造・部民制の強化・拡充がある。伴造・部民制が全国的に拡充されるに従い、大王たる者にはこの制度を巧みに統御できる能力の充実度が期待されるようになる。それは年齢的・人格的成熟度に依存するところが大で、ここに世代と年齢に重点をおいた王権継承原理が整えられていった。
■これが大化改新当時の七世紀の現状だった。したがってこの時期に十代後半だった中大兄皇子に王権継承資格があったとは到底考えられないというのが著者の結論である。 
第U章「王権と藤原氏の歴史」のテーマは、「中大兄と鎌足の強固な主従関係が(大化改新前の)早い段階から存在し、これが、クーデターとその後の政局の一貫した中核であり続けた」という『日本書紀』の記述に対する疑問点を提示することである。
■「中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が中心となって宮中で蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼした後、中大兄によって大化改新が断行された」。これが『日本書紀』『藤原家伝』を原史料とした通説である。この筋書に沿って『書紀』は大化改新の主役二人が事件前の早い段階から強固な主従関係があったとする。この点についての疑問を呈することで、筆者は中大兄の大化改新首謀者説そのものにも疑問を呈する。
■「王権と藤原氏の関係が、中大兄と鎌足との関係に遡るというのは原史料の編纂主体であった藤原仲麻呂(鎌足の曽孫)の主張に過ぎず、客観的な事実とはいい切れない。天智天皇(中大兄)の後継争いだった壬申の乱では、鎌足死後の中臣(藤原)氏の後継者は敗れた大友皇子側にあって斬首された。従って勝者の天武天皇(大海人皇子)の治世では中臣氏は王権との関係構築はゼロからの出発だった。鎌足の娘二人が天武天皇のミメ(側室)になったことで藤原氏ははじめて王権との身内的関係が形成され始めた。それは鎌足の次男・不比等の代であり、その関係を発展させる形で不比等は娘の宮子を天武の二代後の文武天皇の夫人に立てることができた。文武と宮子の間に生まれた男子が後の聖武天皇になる。王権と藤原氏の特殊な関係の起点は、不比等の代にもとめられるもので、鎌足の代はあくまでその萌芽をなすものである」。以上が、筆者のテーマについての見解の要点である。
 
第V章「検証・乙巳の変--人間関係--」は、「乙巳の変に関係した人々の実像を探り相互の関係についての検証を通じて、この事件の真の主役が誰だったのかを明らかにしようというのがテーマである。
■この章では「書紀」「家伝」などの原資料に記された「乙巳の変」の登場人物ひとりひとりの実像が、氏族名や本拠地の地名などを関連付けながら地縁、血縁から人間関係を再構成するという手法で解き明かされる。
■それは中臣鎌足から始まって即位後に孝徳天皇となる軽皇子、孝徳朝の左大臣・阿部内(倉梯)臣麻呂、蘇我氏分家筋の蘇我倉山田石川臣麻呂、入鹿殺害のクーデター派の将軍・巨勢臣徳太、孝徳天皇側近の大伴蓮長徳、実戦部隊長としての中大兄皇子、新政権の政治顧問(国博士)の僧旻と高向漢人玄理、入鹿殺害の刺客であった佐伯蓮子麻呂、葛城稚犬養蓮網田、海犬養蓮勝麻呂、入鹿の帯剣をはずさせた俳優(ワザオギ)等の人物像である。
■この章の最後に主題が「まとめ」として次のように簡潔に述べられている。「中臣鎌足は河内・和泉に割拠する配下の同族を通じ、和泉国和泉郡に宮をもつ軽皇子を主人として早い段階から仕えていた」「軽皇子は世代・年齢を重視した王権継承が行なわれていた当時において有力な大王候補としてみとめられていた」「(上記の)クーデターに参加したことが明らかな人物、(略)クーデターに関与したことが窺える人物のほとんどが、和泉国和泉郡やその周辺地域にそれぞれの拠点や勢力を有し、そうした地縁を通じて軽皇子との間に何らかの接点をもっていた」「クーデター政権は、(略)飛鳥から難波に出て、そこに壮大な難波長柄豊碕宮を造営する。(略)これはクーデターを起こした人々の多くの本拠が難波に程近い和泉・河内地方にあったことが大きく関係している。(略)彼らの勢力圏内にその政権の威容を誇示する大王宮を建設した」「これらのことから、通説では中大兄・鎌足主従の陰に追いやられていた軽皇子その人こそ、『乙巳の変』の真の主役であったと断定できる」。
 
第W章「検証・乙巳の変--発生と展開--」では著者の独自の視点から「クーデターの背景と真相」が語られる。
■事件の背景には推古帝以来の二人目の女帝である皇極帝の王権譲位問題があったと論じる。本来、王権継承時の混乱防止の安全弁であった女帝の役割りが、推古帝の予想外に長期化した在位によって、有力後継者たちが相次いで早逝し、混乱を招く結果となった。この二代前の女帝の王権継承時の混乱を受けて、皇極帝は即位当初から「譲位」という重い課題を負っていた。即位当時、有力な皇位継承者には四人の皇子がいた。厩戸皇子(聖徳太子)の長子・山背大兄王、皇極帝の同母弟・軽皇子、舒明天皇の皇子で唯一の蘇我氏の血を引く古人大兄皇子、古人大兄の異母弟・中大兄皇子である。
■皇極二年(643年)、古人大兄を擁する蘇我入鹿の勢力と軽皇子を擁する勢力が、山背大兄王を襲い自害に追い込む。支配層内の両勢力による譲位に向けた第一歩であった。これにより当時王権継承には若すぎる中大兄を除けば譲位の対象者は軽皇子と古人大兄皇子の二人に絞り込まれた。次に予定されたのは、両派のいずれがどのように皇極帝から譲位を受ける条件をつくり出すかということだった。それは軽皇子派によって巧みに先手を打たれることになった。
■以下は、著者の語る乙巳の変の顛末の概要である。「皇極四年(645年)6月12日、古人大兄と蘇我入鹿は皇極帝から飛鳥板蓋宮に招集を受けた。二人が「大殿」に入ると突如数名の刺客が殺到し入鹿は惨殺される。かろうじて虎口を脱した古人大兄は宮のある大市に逃げ帰る。古人大兄を取り逃がしたものの、入鹿殺害に成功したクーデター派は、皇極帝と軽皇子を伴い飛鳥寺に入り本陣とする。入鹿の父・蝦夷は反撃の旗印となる古人大兄との連絡すらとれないまま甘橿岡の邸宅で支持勢力による武装を強化する。クーデター派は将軍・巨勢臣徳太を甘橿岡に派遣し、古人大兄が起つ気配のないことを強調し蝦夷援護の無益を力説する。蝦夷陣営は動揺し離脱するものが続出し、あっけなく軍陣は瓦解する。翌13日、古人大兄は飛鳥寺でクーデター派の見守る中、髪を落とし出家する。古人大兄の出家という決定的な報を聞き、蝦夷は一族もろとも自決する。翌14日早朝、皇極帝と軽皇子は飛鳥板蓋宮に戻り、予定どおり軽皇子の即位礼を執り行った」。
 
結章「『乙巳の変』のあとにくるもの」では、非常に興味深い二つの記述があった。ひとつは事件を生みだすことになった当時の東アジア情勢について論じたものだ。今ひとつは我が国史上初めての「譲位」を実現させた背景に大王への貢納・奉仕の関係の質的転換という国内事情があったという指摘だ。
■当時、東アジアは次のような情勢にあった。「唐と高句麗の対立は全面戦争の危機をはらみ、開戦前夜の国際的緊張は、朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)で頻発する政変と内乱となってあらわれた。そうした激変する国際情勢に対応し、国内の支配層を強力に結集できる人格・資質を備えた大王の擁立は支配層全体の念願するところだった。(略)譲位が予定されている女帝は不安定極まりない存在だった。(略)しかるべき人物を大王に立てることが、東アジアの動乱の中で支配層全体の利益を守り抜く唯一の道だった」。クーデター決行の背景のひとつに当時密接に繋がっていた東アジア諸国の情勢がもたらす危機感を指摘したもので説得力のある論旨だった。
■一方で著者は「乙巳の変」は我が国で初めて「譲位」を実現したという点で王権継承の歴史上、画期的なできごとだったと指摘する。「従来、大王によって継承される王権の内容は、大王に対する個々の貢納・奉仕関係の集積だったため、これらを個々に大兄や大后に分掌させることはあっても、一括して他者に委譲することは困難だった。ところが、譲位を企画・構想できたということは、大王に集中された貢納・奉仕の諸関係を大王生存中に大王から引き離し、他者に委譲することが可能になっていたことを意味する。それは、貢納・奉仕の諸関係の集合体である伴造・部民制自体が制度的に発展の極に達し、その内部改革なくしては存続が困難になっていたことを窺わせる」。譲位実現の背景に当時の経済構造という政権基盤そのものの変化を見据えた指摘もまた納得性の高い論旨だった。
■著作の最後の文章もまた印象的だった。「『乙巳の変』の前後、列島各地の首長層の頂点に位置する王権は、伴造・部民制の解体を迫られていた。王権は、伴造・部民制を構成した各級首長層の階級的な利害を調整し、彼らを領域的に編成していくことを通じ、首長配下の農民個々人に対し、初めて本格的に支配の手をのばし始めたのである。七世紀末には「治天下大王」改め『日本天皇』が、首長配下の農民一人一人の前に、はじめて、その姿をあらわすことになる」。著者が著作の中で天皇のことを一貫して「大王」と記述していた所以であった。