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誕生と名前の由来
 有間皇子は、640年に軽皇子(後の孝徳天皇)が有馬温泉に滞在中に、小足媛(おたらしひめ)との間に誕生した皇子である。生母の小足媛は、阿倍倉梯麻呂の娘であり、阿倍氏は有馬と縁が深く、古代の春木郷(現在の山口・有馬地域)を支配した豪族・久々智氏は阿倍氏と同族である。古代では、皇子の名を生母の出身地などそのゆかりの地名に求める例が多く、皇子の名前が生母ゆかりの地・有馬に因んだとの説が有力である。
 有間皇子の出生地は定かでない。ただ父・孝徳帝の有馬温泉行幸や山口での行在所造営などのゆかりからも、孝徳帝の唯一の子どもであった皇子が有馬のいで湯で幼児期を過ごされた可能性は高い。その際、生母・小足媛の同族であった久々智氏が養育に関与した可能性もある。
乙巳の変と孝徳天皇の即位
 有間皇子が6歳の時、乙巳の変(大化改新)が起こった。

 皇極四年(645年)6月12日、蘇我入鹿は皇極帝から飛鳥板蓋宮に招集を受け、「大殿」に入ると突如数名の刺客が殺到し入鹿は惨殺される。入鹿殺害に成功したクーデター派は、皇極帝と軽皇子を伴い飛鳥寺に入り本陣とする。入鹿の父・蝦夷は甘橿岡の邸宅で支持勢力とともに立て籠もるが、クーデター派が派遣した将軍・巨勢臣徳太の包囲する軍勢の前に、蝦夷陣営はあっけなく瓦解する。翌13日、蝦夷派が推戴の望みをかけていた古人大兄皇子が髪を落とし出家する。古人大兄の出家という決定的な報を聞き、蝦夷は一族もろとも自決する。翌14日早朝、皇極帝と軽皇子は飛鳥板蓋宮に戻り、予定どおり軽皇子の即位礼を執り行った。
孝徳天皇と中大兄皇子の確執
 645年6月に父・孝徳天皇が即位。孝徳天皇は同年12月に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は653年に都を飛鳥に戻す事を求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に飛鳥京に移り、皇族達やほとんどの臣下達も中大兄に従って戻ってしまった。孝徳天皇の皇后である間人皇女でさえも、兄の中大兄に従って倭京に戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は654年10月に崩御した。このため、655年2月、宝皇女が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として即位した。

孝徳天皇崩御後の有間皇子の悲劇
 父である孝徳天皇の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に行っていた。皇子は飛鳥に帰った後に自分の病気が完治した事を斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。
 飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると伝えた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。しかしこれは罠だった。蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと思われる。蘇我赤兄が中大臺兄皇子に密告したため、この謀反計画は露見した。有間皇子は捕らえられ、658年に中大兄皇子に尋問された。その時、有間皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えた。有間皇子は、翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。処刑に先んじて、磐代の地で彼が詠んだ下記の2首の歌が『万葉集』に収録されている。
 有間皇子を偲んで藤白神社の境内には、有間皇子神社が創建された。藤白坂には、「藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」という皇子を偲んだものと思しき作者不詳の歌碑も残っている。

万葉歌人・有間皇子
 万葉集には、有馬皇子の歌が二首載せられている。 
これらの歌は、有馬皇子が、斉明天皇の裁きを受けるために紀伊半島の牟婁の湯に引き立てられたときに道中で歌った句である。
「家にあればけ笥に盛るいい飯を草枕旅にしあればしい椎の葉に盛る」
(我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので椎の葉に盛っている)
「磐代の浜松が枝を引き結び、まさきくあらばまた帰り見む」
(海岸の松の枝に願い事を書いた紙を結び、運が良ければ帰りに見ることができよう)