トップ&図書 プロフィール 生涯事跡 有馬郡足跡 大化改新 ミュージカル旗揚げ  ミュージカル公演   皇子まつり 異聞 

 
 2014年1月、三田在住の森脇 泉(三田古代学会)さんを訪ねた。3時間近い懇談を通じて得られた情報は膨大で貴重なのもだった。その際戴いた彼の六甲タイムスへの6回に及ぶ長大な寄稿文「藤原定慧上人の生涯とは?(三田の古代史最大の謎に挑戦)」の写しを戴いた。それは彼との懇談の中でお聞きした内容の詳細な記述だった。
 藤原定慧は藤原鎌足の長子で大化改新(645年)の2年前に誕生した人物である。三田・金心寺の創建者であり、金心寺の門前町として発展した三田の元祖ともいうべき人物である。他方で定慧上人は、孝徳天皇と小足媛の間に誕生した有間皇子の5歳下の実弟とされている。そんな背景から定慧上人の謎に迫る森脇さんの寄稿文は、有間皇子にまつわる謎にも挑む内容となっている。
 それにしても古代史研究者としてはアマチュアである個人がよくぞここまで調査研究されたものだという一語に尽きる読後感だった。この労作を、自分なりに咀嚼しながら有間皇子の記述を中心にこのブログで紹介していきたいと思う。ただ記録や文献の少なさもあり実証性の希薄さを拭えない。そのため「有間皇子異聞」というタイトルで紹介することにした。
 森脇さんから頂いた資料の中に、平成9年10月24日付の「有間皇子像完成・奉納」と題した六甲タイムスの切り抜き記事があった。
 この記事によれば、藤白神社と金心寺に納められた有間皇子の木像は、いずれも三田市東山に工房を持つ金心寺大仏師の柏井圭峰師が制作したものだという。またこの二体の木像は平成9年に完成し、それぞれ金心寺と藤白神社に奉納された。
 ところで記事には製作者の柏井師が自宅と思われる縁側で三体の有間皇子像と一緒に撮影された写真が掲載されている。また森脇さんの事務所でも掲載写真と同じ木像三体を写した写真があった。森脇さんによれば、柏井師は有間皇子の木像を三体制作され、残りの一体は柏井師自身が所有されているとのことだった。また三体の内、藤白神社の像だけは白木の像だが、他の二体は彩色された像である。
 昨年11月に藤白神社で初めて見た有間皇子像にまつわる全貌がよううやく把握できた。
 上記の内容を以下のブログに更新した。 その記事に頂いたコメントを読んで驚いた。投稿者は、記事のテーマである三体の木像の仏師・柏井圭峰師のお孫さんだった。しかもコメントには次のような驚くべき内容が記載されていた。
 「初めまして柏井圭峯の孫の○○と申します。ブログ拝見させていただきました。ブログに祖父と祖父の作成した仏像の写真が掲載されている事に家族全員で驚き喜びました。 実はこの記事をアップしていただいた日2014年2月1日に祖父圭峯は永眠いたしました。 祖父にもブログをみせてあげる事ができれば良かったのですが・・・。ブログに書いていただき有難うございました」。
 折り返し、次のように返信コメントを投稿した。「嬉しいコメントを頂き、感激すると同時に、記事更新のその日に、圭峯師が永眠されたとの報に接し、その偶然に驚きました。いつかお会いできる日があればとの想いも、叶わぬことになったことが悔やまれます。心からお悔やみ申し上げます」。
 三田の古代史研究者である森脇さんの六甲タイムスへの平成3年7月26日付寄稿文に興味深い記事があった。有間皇子処刑の背景についての言及である。
 「(有間皇子処刑の背景は)中大兄の野望が大きな原因だっただろうが、その血筋にも大きな意味があったと考えられる。それは阿倍氏である小足媛の子だったからである。当寺の皇族は、いわゆる天孫系、天照大神の系統によって占められていたが、阿倍氏は国津神系であった。(略)阿倍氏は以前から日本に居住していた民族の末であり、アベとはアイヌ語で火の意味があり、古代の火を信仰する一団の姓氏である。(小足媛の父)阿倍倉梯麻呂は、アイヌ系ではなかったようだが、同じ頃からの先住民族であった。その血を引く有間皇子が天皇になるというのは天孫系にとっては許されないことだったのであろう」
 孝徳天皇の皇子として有力な皇位継承者であった有間皇子を抹殺した背景を、単に中大兄皇子の野望ということでなく渡来系と先住民族系の権力闘争の一環として捉えた卓見だった。
 有間皇子の実弟・定慧上人創建の金心寺の本尊は弥勒仏である。この弥勒仏は三田の地名の起源と深い関わりがある。これについて三田の古代史研究者である森脇さんの六甲タイムスへの平成3年7月26日付寄稿文から紹介しておこう。
 「弥勒仏は、漢山口直大口(あやのやまぐちあたえのたいこう)の作で国の重要文化財に指定されている。(略)荒木村重が信長に叛き金心寺に立てこもった時、全山焼け落ちてしまったが、幸い弥勒仏は泉水に難を逃れ、今も本堂に安置されている。昭和7年、弥勒仏の解体修理の際、胎内に秘文が発見された。それには『当地を松山の庄と云う。これを金心寺三福田により、三田と改む』とあった。三福田とは、『恩田、敬田、悲田』を云い、三田という地名の起源はここにあることが判明した。(三田市史、金心寺由緒)」
   森脇さんの「有間皇子には子供があり、道場町日下部にその所領があったのではないか」という以下の説の紹介である。
■江戸時代の著名な国学者・塙保己一編纂の『續群書類従 』という業者がある。その第172日下部系図には、有間皇子の直系の子どもとして養父郡大領(郡司)の表米(うわよね)の名が記されている。天智天皇の代に異賊が来襲した時、これを防ぐ為に大いに功績ありとして日下部の姓を賜って、朱雀元年(686)年3月15日卒とある。朝来郡久世田荘に表米大明神(ひょうまいだいみょうじん)として祀られているとも記されている。
■日下部表米は、現在の朝来市の竹田城祉の南東の麓にある表米神社に祀られ、日下部氏の始祖とされる人物である。
■三田と名来の中間に道場町日下部がある。金心寺が有間皇子の所領にあったとされることからも、日下部が有間皇子の子どもの所領であったとしても不思議はない。
■日下部隣接の名来は昔は千足村と呼ばれ、有馬皇子の母・小足媛ゆかりの地である。日下部表米が有間皇子の子どもとすれば、有間皇子の妃は生母ゆかりの名来や所領の日下部周辺の女性と考えられまいか。