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がんを明るく生きる-前立腺癌の末期から生還した伊藤勇のサイトのホーム

末期癌より生還した伊藤勇の闘病と生き方の物語

(8) 臨死体験を経て再び生かされる…治療不能の病と共に、今

心臓弁膜症の手術も成功し、迎えられなかったかもしれない2004年1月には我が家で生活できるようになっていました。再び頂いた命に感謝しながら半年後、埋め込んでもらった牛の生体弁の調子がよくなくなり再び入院することとなりました。そしてその入院が3ヶ月を過ぎたころ、ついに肺塞栓で危機的な状況に陥ってしまったのです。
さすがの私ももうこれが最期と思い、自分の意識があるうちにと、先生に尊厳死や献体の意志がある旨を告げました。そして、兼ねてからホームページのラストワードに覚悟の締めの言葉を考えていた私は、次女にそれを口述筆記させ、お別れのメッセージを関係した各会へ送るよう指示したのです。「これで全て思い残すことなく亡き妻のもとへ飛び立てる」、私は安心して眠りに就きました。

私は遠のく意識の中で「臨死体験」をしました。
入院していた高度特殊ICUの部屋の、目の前のロールカーテンに、霧で煙る針葉樹林の山々が映し出され、低く静かに流れる童謡やクラシック音楽の調べが聞こえてきたのです。その幻想的な情景の中、山の裾野には川が流れ、菜の花畑がその歌の流れのように広がり、蝶が舞い、山頂より亡き妻が白鳥の姿となって舞い降り、川の向こうで手招きをしていました。

私が「身体が動かないよ」と言うと、亡き妻は「石の地蔵さん、ロケットになって来なさい」と言います。私はよし!と飛び立とうとしました。
その時誰かに呼び起こされました。
あの世への途中で、この世に再び帰って来た私。その間には、お医者様や医療スタッフの方がたの懸命な手当てが施されていました。こうして3度目の命を頂いた私です。それからその年の暮れまで、結局8ヶ月間の入院生活となりました。2005年の正月は我が家で迎えられ、支えてくださった方々に感謝しています。

こうして幾つもの病いを重ね、見放された状態から何度も甦り、生かされて来た私自身を振り返ります時、有難さで感無量となります。そして、もちろんお医者様を始めたくさんの方々に助けて頂いて今があるわけですが、『自分の病気は、自分自身の強い信念で必ず治すんだ』と気持を奮い立たせて来たことは間違ではなかった、と確信できるのです。
末期がんの告知の日から10年半が過ぎた2006年夏、私の肺の50%は塞栓しており、呼吸不全の後遺症で長時間の歩行には不便を感じております。同時に併発した膠原病のほうは小康状態にあります。そしてその後も拒絶反応による様々な合併症が相次いで発症しており、腹水が溜まったり、視力の衰え、萎縮腎も出てきて、顔もポッチャリしてきました。
しかし、これ以上の治療は不可能であるとのことですので、この先も病と共存しながら生き抜いて行くだけだと思っております。日常では、デイサービスに出掛けては、お風呂に入ったり、カラオケを楽しんだり、お喋りしたりと一日一日を楽しく、大切に生きて居ります。オマケ、オマケ、オマケの人生が続きます。毎日を明るく感謝しながら生きる、それだけです。

(2006.07)

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