◎澤田誠著『思い出せない脳』(講談社現代新書)
先日は『まちがえる脳』というタイトルの本を取り上げたけど、今度は『思い出せない脳』ですか。最近は、偉大なる人間の脳さまもさんざんな言われようだよね。まあそれはいいとして、読み始めていきなり「状況に応じて適切な話題を提供できるのは、さまざまな話題が記憶の引き出しの中にコレクションされていると同時に、上手く引き出すことができるからです(3頁)」とあって「ぐぬぬぬぬ!」と思った。というのも、私めには「状況に応じて適切な話題を提供する」などという芸当は死んでも無理だから。
そして「序章 記憶力が未来を決める」を読み進めていくと、著者の知り合いの整理整頓が苦手の人の話が出てきて、それを読んでもう一度「ぐぬぬぬぬ!」とうめいてしまった。次のようにある。「その人の仕事部屋は大量の書籍や物で溢れていて、それらが特に規則性もなく積み重なっています。当然のことながら、その人はしょっちゅう物が見つからないことに困っています。なくしたわけではありません。部屋の中に存在していることは分かっているのに、取り出せないのです。そのため、再び購入するはめになります。ネットで買い物をすると、購入履歴が残りますが、何年何月何日に同じものを買ったという記録を見ながら再びそれを購入するのは、なかなか悔しい体験だそうです(18〜9頁)」。一瞬、なんで私めのことを知っているのかと思ってしまった。何しろ大きめの地震がきて、隣の部屋で本の山が山体崩壊を起こしても確認すらせず、瞬き一つせずヘコヘコと仕事を続けているくらいだし。もちろん山体崩壊した本の山は今でもそのままというね。ただ書籍に関しては、わかっていて同じ本を二度注文したことはない(ということは、すでに買っていることを忘れていて、同じ本を二度注文したことならある)。だから、さすがに「何年何月何日に同じものを買ったという記録を見ながら再びそれを購入する」破目になったことはないけど、「あの本が見つからない、この本が見つからない」と始終発狂していることを考えれば、そのうち必ずやそうなるであろうと怖れてはいる。
さて第1章以後は、「思い出せないときに脳の中で起こっていること(22頁)」に関して、次のような要因をあげ、そのそれぞれについて各章で説明されている。「@そもそも記憶を作ることができなかった(→第1章)、A情動が動かず、重要な記憶と見なされなかった(→第2章)、B睡眠不足で記憶が整理されなかった(→第3章)、C抑制が働いて記憶を引き出せなかった(→第4章)、D長い間使わなかったために、記憶が劣化した(→第5章)(22頁)」。
ここでは個人的にもっとも関心を引いた「第2章 情動が記憶を選別する」をおもに取り上げましょう。まず本章冒頭の節「情動とは何か」だけど、まず情動の働きが説明されている。次のようにある。「環境に適応し、敵から逃れ、食物を得ながら生き抜いていくためには、大量の情報を記憶として保管し、うまく利用しなくてはいけません。しかし、何でもいいから片っ端から脳に情報を詰め込めばいいわけではありません。あとで取り出して生存戦略に役立てるためには、生存のために必要な情報を選択し、重要という目印を付けておく必要があります。¶この選別基準となるのが「情動」です(58頁)」。要するに、特定のできごとや記憶が、生存するにあたってどれだけ重要なのかを示すマーカーの役割を果たしているのが情動だということ。この点は重要なので覚えておきましょう。
次に著者は「情動」を次のように定義している。「情動は感情の一種で、身体反応を伴います。快・不快や喜怒哀楽、愛憎など、刺激に対してすぐに湧き起こり、短い時間だけ続くような心や身体の反応のことです。では、情動に含まれない感情は何かというと、「気分」です。なんとなく楽しかったり、なんとなく不安だったり、はっきりと言葉には表せないことも多い、比較的長く続く心の状態です(59頁)」。ちなみに英書にせよ和書にせよ、「情動(emotion)」や「感情(feeling)」や「気分(mood, affect)」の定義はけっこうまちまちで、わが訳書『情動はこうしてつくられる』や『バレット博士の脳科学教室7 1/2章』の著者リサ・フェルドマン・バレット氏の定義は、重なる部分もあるとはいえ、この定義とはかなり異なる。もちろん著者自身、「ただし、この分類に関しては異論もあります(第6章で紹介します)(59頁)」と、直後に述べており、それらの用語の定義が研究者ごとに変わりうる点を指摘している。
なお「第6章 記憶という能力の本当の意味」で紹介されている異論とは、まさにバレットの理論で、そこには次のようにある。「そこから[ダーウィンが1872年に『人間と動物における情動の表現』を刊行して以来]長い間、情動とは、生まれつき動物やヒトに備わっていて、属している文化にかかわらず普遍的なものだと信じられてきました。しかし、そのような考え方に対して異を唱える科学者が現れました。心理学と神経科学の両面から情動を研究している米国のリサ・フェルドマン・バレットです。バレットは従来の考え方を「古典的情動理論」と呼び、新たに「構成主義的情動理論」という考え方を提唱しました(215頁)」。また次のようにもある。「動物やヒトに生まれつき備わっているのは、快か不快の気分だけで、怒りや悲しみや不安や喜びといった、情動のカテゴリーは存在しないとバレットは主張します。あるのは、快や不快の気分の強弱だというのです。その気分の強さと、情動の概念と、社会的現実の3つの要素が加わって初めて情動が生成されるのです(215頁)」。一点だけバレットの著書二冊の訳者として補足しておくと、「情動のカテゴリーは存在しない」とは、その文の前半部分を受けて「生得的なものとしては」、あるいはカントさん流に言えば「先験的なカテゴリーとしては(ただし上の文の「カテゴリー」とは、カントさん的な意味ではなく、単純に「情動に分類される範疇」くらいの意味で使われているのでしょうが)」という意味で言っているのだろうと思う。
ところで本の末尾に1頁だけ「参考文献」が掲載されているけど、そこにある訳書はバレットの『情動はこうしてつくられる』と、1970年代のエビングハウスの訳書の二冊しかあげられていない。訳書を含め脳関連の本は最近怒涛のごとく出版されているのに、最近のポピュラーサイエンス本としては、わが訳書一冊しかあげられていないのは不思議にも思えるけど、著者は科学者なので一般のポピュラーサイエンス本はなるべくあげないようにしているということもあるのだろうとしても、著者は名古屋大学教授らしく、バレットの説に詳しい同じく名古屋大学教授の大平英樹氏をよく知っているから特にバレットの理論を取り上げているのだろうともふと思った。ちなみに新書本の著者によるバレット説の総体的な評価は、「構成主義的情動理論は情動の本質を説明する考え方ですが、これまで蓄積されてきた動物を用いた情動メカニズムと矛盾する面もあり、まだまだ改良の余地があるようにも思われます(217頁)」というもので、まあ「fair enough」といったところ。なお著名な神経科学者ジョゼフ・ルドゥーも、最新刊『The Deep History of Ourselves』(Viking, 2019)のとりわけ終盤で、バレットに近い立場を取っている。
さて新書本の続きだけど、次の一文には???と思った。「もし、子どもに「心はなんのためにあるの?」と聞かれたら、「生存のために脳が神経伝達物質を分泌して行動を制御するためだよ」というのが本当の答えになるでしょう(60頁)」。これは、「心が脳をして神経伝達物質を分泌させ行動を制御している」とも読めそうだけど(実際にそう主張しているのかどうかはよくわからない)、もしそうだとするとベンジャミン・リベットが目を白黒させそうだよね。ちなみにリベットの実験については第6章で取り上げられており、あとでまた言及するけど、わが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』について書いたときにも述べたように、リベットの実験は瞬間的な判断に関するものであり、それによって中長期的にも心が脳に影響を及ぼすことができないと証明されたわけではない点には注意する必要がある(というより、脳の配線は中長期的には当人が持つ心や行動の様式によって変えられうる)。いずれにせよ新書本のこの文章は、心と脳の関係がそれ以上は説明されていないので何を意図したものなのかがよくわからなかった。
それから「脳は増築を繰り返してきた」という節では、「脳幹・大脳基底核(爬虫類の脳)」「大脳辺縁系(旧哺乳類の脳)」「大脳新皮質(霊長類の脳)」という、ポール・マクリーンのいわゆる三位一体脳説に基づくと思しき説明がなされている(とりわけ「図2−1 増築された脳の概念図(64頁)」を参照)。この説をバレットは否定していたけど、実際のところその順で進化したことには間違いがないのだろうし、要は三つの脳をあたかも完全に独立したものとして扱い、それらのあいだの相互作用を無視した図式的な説明を彼女は嫌っているのだろうと思う。もちろん新書本の著者も、「他の動物と人間を分けるのに重要な大脳新皮質ですが、人間は大脳新皮質だけでは生存できません。そのほかの脳と連携しあって初めて大脳新皮質が働くことができるのです(66頁)」と、当たり前と言えば当たり前の指摘をしている。
また次の指摘は重要なので、よく心得ておきましょう。「脳のことを考えるときには、私たちの現代社会に当てはめてはいけません。脳が発展して今の形になる原動力になったのは、太古の地球の環境です。私たちの祖先がまだ狩猟・採集で食物を得て、肉食獣や他の人類に襲われる危険に満ちた世界で、脳は生き残り、子孫を繁栄させることを優先事項として、必死で頑張ってきたのです(73頁)」。必ずしも脳の機能には限られないけど、人間が持つさまざまな機能が、現在とはまったく異なる太古の環境に適応して進化したものであることは最近よく言われている。たとえば最近読んだ『Our Tribal Future』(St. Martin’s Press, 2023)では、太古の環境に適応して人類が取得した、外集団より内集団を優先する部族主義的傾向が、社会がスケールアップした現代においては、排外主義などのマイナスの側面をもたらしている一方で、緊密な社会関係などの、それによって得られていたプラスの側面が等閑に付されるようになったと論じられ、前者を抑制しながら後者を取り戻すことの重要性を強調している。部族主義については、あちらでは最近さまざまな本が刊行されているので、いずれ関連本を取り上げるつもり(すでに取り上げたジョセフ・ヘンリックの大著『The WEIRDest People in the World』も、部族というより親族が主体とはいえその中の一冊と見なせる)。
さて第5章までのその他の章に関しては、この手の本を読み慣れている人には、それほど斬新に思える記述はないのかもしれないけど、個人的な経験からして「第4章 抑制が働いて思い出せない」は興味深かった。というのも、私めは、たとえばストレスがかかる状況下に置かれると、ものごと、とりわけ固有名詞を思い出せないことがときにあり、「わが脳は腐りかけているに違いない」と思い込んでいたんだけど、この章を読んでそれが脳の抑制メカニズムに基づく正常な働きであり、わが脳が腐りかけているからではないことがわかったから。それがいかなるメカニズムなのかは、細かくなるのでここでは説明しない。同様な経験が頻繁にある人は、ぜひ本書の第4章を読んで安心しましょうね。
残るは「第6章 記憶という能力の本当の意味」だけど、個人的には二点注目した。一つはバレット説が紹介されていること。これについてはすでに取り上げたのでここで繰り返すことはしない。もう一つは、『まちがえる脳』でも取り上げられていた自由意志(意思)の問題に言及されていること。前述したようにリベットの実験が取り上げられており、まあこれは、脳科学の本で自由意志(意思)が取り上げられる場合には、お約束事項と言えるでしょうね。ただ新書本の著者は、自由意志(意思)に関して深堀りはせず、次のように述べるに留めている。「自由意思や意識の問題は、まだまだ現在の科学では決着はついていません。先ほど紹介したリベットの実験も、手首を動かすという単純な行動については、意識するより前に準備が始まるだけで、もしかしたらもっと複雑な意思決定では自由意思が存在しているかもしれません(213頁)」。君子危うきに近寄らずといったところか。下手なことを書くと、哲学者や倫理学者や法学者からタコ殴りにされる可能性があるので賢明と言えるでしょう。
とはいえ私めがここで言いたかったのは、自由意志(意思)の問題は、著者も「自由意思とは何か。意識とは何か。¶もはやこれは哲学の問題でもあります(213頁)」と述べているように、これまでは哲学や神学で扱われてきたテーマであったにもかかわらず、それが脳科学でも語られるようになってきたということ。著者も次のように述べている。「実際に、意思や意識の問題については、脳科学者と哲学者がそれぞれの方法論で解明に向けて取り組んでいます。きっとその謎の答えは脳の中に隠れています(213頁)」。このような傾向は当然これからも続き、意思や意識などの心の問題を語る際に脳科学への言及を欠けば、何かが足りないと思われるようになるでしょうね。
個人的にも、脳科学を用いて再解釈してほしい人文科学のトピックはいろいろある。ロックやカント、あるいは現象学やフロイトの理論もそうだけど、もう少し新しいところでは、マーシャル・マクルーハンのメディア論やR・D・レインの精神医学などもその範疇に入る。そうそう、成功しているか否かは別として、ゲオルク・ノルトフ氏はわが訳書『脳はいかに意識をつくるのか』で、それらのうちの脳科学の知見と現象学の知見の統合を目指している。ステマはさておき、「メディアはメッセージである」という有名な標語で知られるマーシャル・マクルーハンのメディア論に関して言えば、彼の理論が凋落した理由の一つが、科学的裏づけが乏しいことにあった点を考えれば、現代の脳科学は、「脳と相互作用するにあたって、メディアそれ自体が、いかに無意識レベルに働きかけることでメッセージとしての役割を果たしうるのか」を明確にできるはずだと考えている。R・D・レインに関して言えば、わが訳書の『眠りつづける少女たち』や『誰も正常ではない』を取り上げたときには、彼について否定的に書いたけど、必ずしも彼の見方を全否定するつもりはない。実際家族のあり方が、環境要因として精神疾患の要因の一つになりうることは間違いないのだろうから。ただ彼は臨床的な証拠はあげても脳科学的な証拠はあげておらず(それが可能なほど脳科学が発達していなかったので仕方がないと言えば仕方がないことだけどね)、言うまでもなくその代わりに家族を否定する反精神医学的左派イデオロギーの影響が濃厚にあったという印象を受けざるを得ない。だから新たに、最新の脳科学の知見に照らして、彼の理論の何が間違っていて、何が正しかったかを明確化したほうがより生産的だと個人的には思っている。
ということで脳の働きで特に記憶に興味がある人は読んで損はない本だと思う。「しかもバレット本への言及もあるよ!」とつけ加えて、ステマも忘れずにしておきましょうね。
※2023年6月20日