◎小原雅博著『外交とは何か』(中公新書)
著者の小原雅博氏の著書は『戦争と平和の国際政治』(ちくま新書)をすでに取り上げたことがあるので、そちらも参照されたい。『外交とは何か』はタイトル通り外交をテーマとした本だけど、戦前の日本に関する具体的な記述が最初の二章(『第1章 日本外交史の光と影』と『第2章 戦前の教訓と戦後の展開』)を占めており、外交というより抽象的なテーマに的を絞りたいので、これらの章はここでは取り上げない。また今回は、いつものように章ごとに順を追って見ていくというやり方は基本的に取らない。
ということで「序章 外交とは何か」から。まず次の記述に着目しましょう。「軍事も外交も国家・国民を守るためにある。どちらか一方だけでは国家の生存と安全は期し得ない。しかし、優先すべきは外交である。外交官は国家の前面に立って平和のために粘り強く交渉する。軍人は万が一を想定して、その背後で静かにどっしりと構えて準備を怠らない。この外交と軍事の関係を間違えてはいけない(9〜10頁)」。当たり前田のクラッカーであるように思えるが、実のところここにはむずかしい問題が潜んでいる。軍事などというものは存在しないと考えている絶対平和主義者や、軍事こそすべてだと考えている軍国主義者は論外としても、外交と軍事をきれいに分けることはきわめて困難なのですね。よく「国際問題は必ずや話し合いで解決するべきだ」とのたまう絶対平和主義者がいるが、習近平の中国のような、近年軍拡を続けている好戦的な国でさえ「話し合い」を前提にしていると考えられる。もちろんロシアのようにいつかは戦争を引き起こすかもしれないとしても、戦争を始めれば自国も多かれ少なかれダメージを受けざるを得ないので、国際情勢が自国に都合が悪くなったからといって、いきなり軍事に訴えるサイコパスな国などまず存在しない。いくら中国のような好戦的な国でも、「(軍事的に)戦わずして勝つ」が理想なのですね(『孫氏の兵法』あたりにもそんな言葉がなかったっけ?)。だからまずは「話し合い」を有利に進めることから着手する。そしてその「話し合い」を有利に進めるために、自国の軍事力を、いわば恐喝手段として利用する。だから「武力」か「話し合い」かという二項対立を立てて考えること自体が間違っている。それら二つは緊密に関連し合っているのだから。
その点に関して、「第3章 法と力」に次のようにある。「日清戦争当時に外務大臣を務めた稀代の外政家、陸奥宗光は、三国干渉の苦渋を味わった後に著した『蹇蹇録』にこう書き残している。¶《要するに兵力の後援なき外交は如何なる正理に根拠するも、その終局に至りて失敗を免れざることあり》¶当時、時代の通念は帝国主義であった。陸奥の発言もそうした時代背景の下で捉えられるべきであるが、それでもなお今日的警鐘として考えさせられる(146頁)」。『蹇蹇録』とは「けんけんろく」と読むらしい。読めんがな! もちろん現代はかつての意味での帝国主義の時代ではない。けれども、軍拡を続ける中国や、実際に戦争をおっ始めたロシアや、嬉々としてミサイルをぶっ放している北朝鮮が日本の周囲にはひしめいていることに変わりはない(というより、帝国主義という一つの論理に従っていないだけ、これらの国は、予見がむずかしく余計にたちが悪いとすら言えるかもしれん)。つまり、「兵力の後援なき外交」をすればウクライナの二の舞になる可能性があるということね。それに続けてさらに次のようにある。「1962年のキューバ危機当時、米国はカリブ海での海空戦力のみならず、グローバルな核戦力でもソ連よりはるかに優位に立っていた。ケネディ大統領の果たした指導力と交渉力は称賛されるべきだが、同時に米国の力の相対的優位がフルシチョフ第一書記の心理に影響を与え、妥協的行動を促したとの分析にも留意すべきである。外交にはこうした「力」の要素が介在することを常に念頭に置く必要がある(146頁)」。この件でも、トルコのミサイルの撤去とキューバのミサイルの撤去とがバーターされたわけで、外交の背後に軍事が大きく関わっていた。本書でもキューバ危機に触れられていて、「第5章 国益とパワー」に次のようにある。「ソ連が米国フロリダ州の目と鼻の先にあるキューバにミサイルを配備したことは直接性を持つ脅威であった。ケネディ政権は、その撤去との交換条件として、ソ連にとって直接性を持つトルコに配備したジュピターミサイルの撤去を約束し、危機を収束させた(205〜6頁)」。ちなみにキューバ危機を扱ったおもろい映画にロジャー・ドナルドソン監督の『13デイズ』がある。主演のケビン・コスナーが、この手の政治劇の主演としては軽すぎるという印象があるものの、総体的に悪くはない。どうでもいいことだけど、この映画は、私めがわが8階建て超高層ウルトラモダンマンションの隣にオープンしたユナイテッドシネマ入間(今では頭に「ローソン・」がついているけどね)で観た最初の映画だった。
それから同じく第3章にある、砲艦外交を推進したセオドア・ルーズベルト大統領の「大きな棍棒を持って、穏やかに話せば、成功する(158頁)」という言葉も興味深い。話し合い一点張りの日本の左派が理解していないのは、まさにこの点だと言える。世界中の国々がすべて、現代の日本のようにお行儀がよければ確かに話し合い一点張りでもいいのかもしれんが、現実にはそうではない。その点については新書本の著者も「序章」で次のように述べている。「戦後の日本は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(憲法前文)。しかし、マキャベリとその後のリアリストたちが観察した「抗しがたい力の原則」に突き動かされる人間の本性は変わらない。平和憲法と現実の国際政治という二つの対極的要請を前にして、果たしてどう日本を守るのか。日本に突き付けられてきた難題である。一つの有力な答えは外交であった。しかし、世界には話せばわかる善人だけでなく、隙あらば武力によってでも目的を達しようとする悪人もいる。戦前の日本のように、軍事が外交を押しのけてまかり通るようなことはあってはならないが、軍事を嫌悪し忌避して、外交だけで平和が保てると考えるのもユートピアに過ぎる(13〜4頁)」。憲法前文の「平和を愛する諸国民」とは、もちろん「日本国民」を指しているのではなく周辺諸国家を指している。そのことは対応する英文が「all nations」であることからもわかる。「諸国民」ではなく「諸国家」なのですね。ということは、中国やロシアや北朝鮮を「平和を愛する諸国家」だと言っているに等しい。現代の状況を見れば、それがちゃんちゃらおかしいことは火を見るより明らか。どうやら憲法前文を字義通りに解釈すると、「平和を愛する」国家が、ウクライナに侵略戦争を仕掛けてもおかしくはないらしい。はっきり言って日本国憲法は、当時はよかったとしても今となっては、前文からボタンをかけ違えていると言わざるを得ない。
「序章」でもう一つ取り上げておきたいのが、外交と言えば必ず出て来るメッテルニッヒに関する記述。メッテルニッヒが主催?したウィーン会議は、「フランス革命に対する保守反動」とか「会議は踊る」とか揶揄されることが多い(まあ前者に関して言えば、フランス革命は世界の未来に対して恩恵よりも多くの危害をもたらしたと考えている私めには、揶揄には聞こえないとしても)。しかし、その実はどうだったのかということで一箇所引用しておきたい。次のようにある。「ウィーン会議では、メッテルニッヒによって考案されたゲームの枠組みとルールが共有された。勢力均衡と価値の共有からなる共通の基盤が戦争ではなく、外交による平和と安定を可能とした。それは政治体制を含む現状維持と平和の配当という現実的利益を大国すべてに享受させることにより、欧州に長い平和をもたらすこととなった。問題は誰がルールを作るかであり、ルールを作りに参加した国家は現状維持勢力となり、参加しなかった国家は現状打破勢力となる。第一次世界大戦後のパリ講和会議は、ドイツを「被告人」としてゲーム作りから排除し、結果的に現状打破勢力に追い込んだ。メッテルニッヒの凄いところは、敗戦国フランスを含め、欧州列強すべてをゲーム作りの参加者として招き入れたことであった。こうして「踊る会議」は古典外交の最高傑作を生み出したのである(25頁)」。「保守反動」にあえて意味を見出すとすれば、保守主義は基本的に戦争を嫌うがゆえに、戦争より外交が優先されたということでしょう。左派メディアの悪影響のゆえか、戦争はナショナリズムや保守主義が起こすと考えられているフシがあるが、これほど誤った見方はない。確かに極右的な国粋主義は戦争を起こす場合があるが、ナショナリズムや保守主義を国粋主義と同一視してはならない。これまで何度も述べてきたことなのでここでは詳細は繰り返さないが、国粋主義に染まって過去を美化する極右は、ユートピア思想に染まって未来を美化する極左と時間的なベクトルが逆を向いているだけで、本質は変わらない似た者同士だと見るべきなのですね。
次に「第3章 法と力」の扉にあるヘンリー・キッシンジャーの「一国の外交を遂行する上で、アメリカほど現実主義的であった国家もなかったし、自国の歴史に育まれた道徳的信念を推し進める上でアメリカ以上にイデオロギー的な国家もなかった(137頁)」に注目しませふ。この言葉の前半は、『アメリカ 異形の制度空間』で私めが提起した「アメリカの第一の顔」に相当し、後半は「アメリカの第二の顔」に相当すると見ることができる(それらについてはそちらを参照されたい)。どうやらキッシンジャーさんも、『アメリカ 異形の制度空間』を取り上げたときに私めが書いたことと似たような考えを持っていたらしい。ウレピーねえ。なお、現代の観点からすると、とりわけグローバリゼーションと結びついた「アメリカの第二の顔」が大きな問題になることはそこで述べた。またキッシンジャーさんは、ウッドロウ・ウィルソン大統領の「正義は平和よりも大切である。……世界を最終的には自由なものとすることを通じて正義が世界を支配することのために、戦わねばならない(155頁)」という言葉と、セオドア・ルーズベルト大統領の「力の裏付けのない気のぬけた正義に酔っていることは、正義という口実を捨てた力以上に害悪を及ぼすものである(155頁)」という言葉を取り上げて、「国際システムの動きについて、ルーズベルト以上に正確に見抜いていた大統領はいなかった。しかし、ウィルソンはアメリカが行動する場合の動機づけの源泉が何であるかを把握していた(155頁)」とコメントしたとのこと。新書本の著者は、理想主義者のウィルソンと現実主義者のルーズベルトを対比するためにこの話を取り上げているわけだが、個人的には「アメリカの第二の顔」の初期の代表者であるウィルソンと、「アメリカの第一の顔」の代表者であるルーズベルトの対比として捉えたいところ。またウィルソンの「アメリカの第二の顔」的な側面は、次のような記述にも見て取れる。「第二次世界大戦後、米国は自由や法の支配といったリベラルな国際秩序を構築し、維持してきた。「パクス・アメリカーナ」の前提には、世界が従うべき「理念の灯台」としての役割を果たし得る「他に類を見ない美徳と力を持った例外的な国」としての米国が存在した。この米国の例外主義がウィルソンの理想主義以来、米国の外交政策を突き動かしてきたのである(157頁)」。「自由や法の支配といったリベラルな国際秩序を構築し」というくだりは非常にポジティブな響きがあるが、それには裏があるのですね。引用文中にも「米国の例外主義」とあるように、そこには自分こそ正義だとする考えに基づいて自らのイデオロギーや制度空間、そして政治支配を世界中に拡大しようとする傾向がある。今の中国にも似たような部分があるが、中国についてはあとで取り上げる。いずれにしてもこの「アメリカの第二の顔」の大きな問題については、『アメリカ 異形の制度空間』を参照してね。
ということでキッシンジャーさんについてはこれくらいにして、第3章の本文に移ると「「法の支配」の脆弱性」というタイトルのもと、次のように述べられている。「国際社会は「法の支配」が脆弱な社会である。¶その最大の原因は、国際社会には、主権国家を超える世界的権力主体が存在しないという構造にある。この構造の原型は1648年のウェストファリア講和会議にまでさかのぼる。この会議を境に、中世の宗教的束縛を捨て去った主権国家の一群がヨーロッパ国際秩序の担い手となった(138頁)」。ここで非常に重要なので、今まで他の本を取り上げた際に何度も述べてきたことを繰り返す。それは「インターナショナル」と「グローバル」の区別について。面倒なので、前回『コミンテルン』を取り上げたときに書いたことをコピペしておく。「「インターナショナル」は政治的な制度空間の単位を国家に求め、国際法によって規定された諸国家間のやり取りによって各国が統合されるのに対し、「グローバル」は、国境をなくして地球全体を単一の政治的な制度空間で覆うことを意味する。したがって「インターナショナル」の場合には、諸国家という多様な存在が先に存在しているという点で多様性が担保されており、そのうえでボトムアップに国際関係が成立するのに対し、「グローバル」の場合にはどこまでも均質な政治的、文化的な空間が広がり、トップダウンに政治支配がなされ、そのため多様性は消失せざるを得ない」。この区別からすれば、ウェストファリア講和会議後に確立した国際関係は、あくまでも「インターナショナル」な関係であることになる。したがって諸国家の存在を前提とするボトムアップ的な関係になるので、基本的に、トップダウンで世界を統制する「主権国家を超える世界的権力主体が存在しない」ことになる。だからボトムアップに成立する国際社会は、トップダウンによる「法の支配」が脆弱にならざるを得ないのですね。
なお「主権国家を超える世界的権力主体が存在しない」と書いている著者も、あるいは私めも、そのこと自体が大きな問題だと主張したいわけでは決してない。それに関して著者は次のように述べている。「近代主権国家は、「正当な物理的暴力行使の独占」(マックス・ウェーバー『職業としての政治』)によって領域内のすべての人と物に対する排他的な統治権限(対内主権)を行使する。また、外部の国家等からの支配や命令に服さない独立権(対外主権)を持つ。¶多数の主権国家が並存する国際社会においては、国家主権を超える世界的権力は存在しない。国際連合は、主権国家間の合意を形成する多国間外交のプラットフォームとして重要であるが、主権を前提とする国際システムの限界を乗り越えることはできない。国連憲章は安全保障理事会(安保理)の決議が加盟国を拘束すると明記しているが、拒否権を持つ安保理常任理事国の国益に反する決議が採択されることはまずない。ロシアによるウクライナ侵攻はこうした国連の限界を改めて印象づけた。¶また、ヨーロッパ統合の歴史は地域共同体による超国家的権力の萌芽を感じさせたが、それが将来すべての国家から主権を委譲された「世界国家」につながると期待することは余りにナイーブである。¶国際社会の基調は、大小200程のリヴァイアサンが{鎬/しのぎ}を削る権力政治(power politics)である。そこに、強制力のある世界的法執行機関が生まれなかった理由がある。その意味で、国際社会は「法の支配」が脆弱な社会なのである。大国が法の支配に基づく国際秩序にコミットし、それに反する力の行使を自制することが平和の条件となる(140〜1頁)」。国際社会が「インターナショナル」な社会である限りは、「法の支配」が脆弱になってしまうことになる。だからと言って、「グローバル」な世界政府のようなものを確立することはそもそも無理だし、仮に確立できたとしても、それは、一部の権力者が世界をトップダウンに支配する全体主義的機関に成り下がるであろうことは火を見るより明らかだと個人的には思っている。
まあそれはそれとして、「インターナショナル」な国際社会は、法の支配が脆弱であるがゆえに無法国家が出現する可能性も高い。ロシアや北朝鮮もそうだが、もっとも厄介なのは中共が支配する中国であることは明らか。その中国に関して次のようにある。「目覚ましい経済成長によって米国に迫る国力を付けた中国は、自己主張を強め、「力ずくの外交」を展開するようになった。¶それを象徴したのが、2016年のハーグ常設仲裁裁判所の裁定を中国が「紙くず」と呼んで拒絶したことである。同裁判所は、フィリピンの提訴を受けて、中国の主張する「九段線」が国際法上の根拠を持たないとの裁定を下した。同裁定は、中国政府が批准した国連海洋法条約に基づくものであり、同条約の締約国である中国は同裁定に従う義務がある。しかし、中国はその義務を一顧だにしなかった。それどころか、2023年、中国は九段線を台湾東部海域まで延長し、「十段線」とした。しかし、中国の一方的宣言による「九段線」や「十段線」が国際法上認められる海洋境界線とはなり得ない。(…)中国の力による一方的な現状変更は、「法の支配」に基づく国際秩序への挑戦と言わざるを得ない(147〜8頁)」。こんなチンピラ国家にへつらう親中(媚中)政治家がどこぞの国にはいるらしい。やれやれ、なんでこうも情けないことになっているのか。
ちょうどいいので、ここで本書における中国に関する記述をいくつか引用してみましょう。「第4章 内政と外交」には次のようにある。「中国でロング・セラーとなった一冊に『アメリカのデモクラシー』(アレクシ・ド・トクヴィル)がある。裁判官、国会議員、外務大臣という国家の三権すべてに関わったトクヴィルは、「民主主義国家に特有の性質は数多くあるが、およそ外交政策はそうした特質をほとんど必要としない。むしろ逆に、外交政策は民主主義国家の苦手とするような特質を十分に行使することを必要としている」と指摘し、「多数者の専制」が外交政策を支配することの恐れに警鐘を鳴らした。共産党一党支配の中国が外交に自信を持つ理由の一つがここにある。ちなみに、習近平国家主席の執務室の本棚には同書が置かれている(169頁)」。『孫氏の兵法』の中国だけに、その点はしたたかだと言えるでしょうね。すぐあとで引用するように、中国の外交が「戦狼外交」と呼ばれているのも故なしとしない。また、「第6章 戦略と地政学」には次のようにある。「米ソ冷戦は、中国に大きな戦略的機会の窓を開かせた。米国を始めとする西側諸国は、中国の改革・開放を支援し、自由で開かれた国際秩序に関与させることで、中国の政治的変化を促そうとした。この「関与」戦略の下で、膨大な資金や技術やノウハウが提供された。世界貿易機関(WTO)に加盟し、米国主導の国際経済システムの恩恵に浴した中国は目覚ましい経済成長を遂げた。¶しかし、米国が期待した民主化という政治的変化は起きなかった。改革と開放も、中国共産党中央とその核心となった習近平総書記への絶対忠誠(「二つの擁護」)の下での共産党指導の徹底によって色褪せた。大国意識と自己主張が強まり、「強国強軍」路線と「戦狼外交」が国際社会の懸念を掻き立てた(219頁)」。「膨大な資金や技術やノウハウ」を中国に提供した西側諸国の一つに日本が含まれることはあえて言うまでもない。ある意味で、中国というモンスターを生み出した責任の一端は日本にもある。
「終章 試練の日本外交」には次のようにある。「中国は、米国が「法の支配に基づく国際秩序の維持」という美名に隠れて自らの既得権益を守ろうとしていると批判し、習近平国家主席は「アジアの問題はアジアで解決する」安全保障観を提唱した。しかし、それは米国を排除した「中華秩序」の構築をめざす現状変更の試みであり、日本が米国と共に推進する「自由で開かれたインド太平洋」構想を柱とする、法の支配に基づく国際秩序とは相容れない(316頁)」。「米国が「法の支配に基づく国際秩序の維持」という美名に隠れて自らの既得権益を守ろうとしている」という中国の批判は、「アメリカの第二の顔」の問題を指摘しているわけで、必ずしも間違いではない。とはいえ、そう批判する中国自体が、アジア、場合によっては世界における「アメリカの第二の顔」になろうとしている点に大きな問題がある。「中華秩序」の拡大は、「アメリカの第二の顔」、あるいはコミンテルンがやってきたような「異形の制度空間」の拡大に等しいと言える。著者は続けて次のように述べる。「国際秩序は国内秩序と深く関係する。国際秩序と親和性を欠く国内秩序を持つ大国には、対外的摩擦を和らげるべく、国内の政治経済体制の改革に取り組むか、あるいは、力ずくで国際秩序を国内秩序に合うように作り変えるか、という二つの選択肢がある。中国は前者と決別し、後者の道を歩んでいる。自由や民主主義を普遍的価値ではなく、西側の概念であると排斥し、社会の監視と抑圧を強める。中国がめざす国際秩序は安定的にも、持続的にもなり得ないであろう(316〜7頁)」。まさにこれは西側諸国の誤算で、今となって慌てても遅いとしか言いようがない。とりわけ極東の共産主義国で、儒教の伝統が強い中国が、西側と同じ考えを持つようになるなどと想定したこと自体、西側の驕りだとすら言えるかもしれない。
だからたった今、日本の周囲で次のような危機的状況が出来しているわけ。「日本周辺には、そんな事件や紛争がいつ起きても不思議ではない発火点がいくつも存在する(…)。朝鮮半島、尖閣諸島、台湾海峡、そして南シナ海である。¶かつて米中が戦った朝鮮半島では、核兵器やミサイルを{弄/もてあそ}ぶ独裁者が中国やロシアの後援を頼んで、米韓日との対決姿勢を強める。尖閣諸島周辺海域では、中国公船の侵入が常態化し、海上保安庁の懸命な海上保安活動が続く。台湾海峡では、中国軍機の台湾防空識別圏への侵入や台湾の海上封鎖を想定した軍事演習などの威圧行動が増大し、緊張が高まる。南シナ海では、中国が領有権をめぐって対立するフィリピンなどへの威嚇を強め、「航行の自由作戦」を展開する米国を牽制する。¶いずれの対立もエスカレートすれば、軍事的衝突につながりかねず、核戦争のリスクも孕む。中でも、中国が武力統一を排除しないと明言する台湾をめぐる情勢が懸念される(330〜1頁)」。「台湾有事は日本有事」なのですね。それに関して著者は次のように述べている。「有事の中身にもよるが、米国が軍事的行動を決定すれば、地理的に在日米軍がその先頭に立つことになる。日本が傍観して済むはずがないし、中国から在日米軍基地にミサイルが撃ち込まれる事態も想定する必要がある。有事が起きてから議論するようでは、間に合わない。有事を起こさせない抑止力の強化に加えて、万一有事となったときの備えを平時から怠らないことが肝要である(332〜3頁)」。だから米軍を日本から追い出せと、自称リベラルは言うのかもしらんが、米軍を追い出したあとどうするのかを議論することなしにそんなことを言い出せば無責任でしかない。日本も抑止手段として核武装するのかね? それとも中国が実際に台湾侵攻したら、シーレーンが分断されるにもかかわらず見て見ぬふりをするのかね? もし戦前の日本のように軍事大国になった中国が日本に侵攻してきたら、日本は中国のような専制独裁国家に無条件降伏するのかね? そうなったら憲法9条なんか、単に無視されるだけだよ。歴史に基づいて言えば、侵略の先兵にされる可能性さえある。だから、まさか護憲派は中国に無条件降伏すべしなどと言わないよね?
何しろ中国の対日認識は今では次のようなものになっているらしい。「中国外交には力を重視するリアリズムが色濃く漂う。2010年以来、GDPで日本を大きく引き離した中国は、中国共産党機関紙『人民日報』傘下の『環球時報』の社説(2018年4月16日)で、日本をこう牽制した。¶《2017年に、中国は経済規模で日本の2・5倍以上に達しており、最早中国と競争などできるわけもなく、日本社会はその差に慣れて、競争意識を失いつつある。米中の間で中立的立場に動くことが日本の国益により適う。それが地政学の常識だ》(195頁)」。2018年は安倍内閣だったからまだマシだったと思うが、現在では「米中の間で中立的立場に動く」どころか、与野党ともに親中(媚中)政治家がわんさかいる体たらくだからねえ。もちろん中国のこの国内向けと思しきプロパガンダを真に受ける必要はない。著者も直後に次のように述べている。「しかし、国家のパワーは、GDPだけで測られるものではない。軍事力や経済力以外にも、さまざまな要素が複雑に絡み合う。モーゲンソーは、国家のパワーの要素として、地理、天然資源、工業力、軍備、人口に加えて、「国民性」「国民の士気」「外交の質」「政府の質」を挙げた(195〜6頁)」。さらにはのちの章で、中国の現状について次のように指摘している。「ここに来て、中国はかつてない経済の逆風に晒されている。経済成長が鈍化し、1000万人を超える大学卒業生の就職が困難となり、貧富の格差も拡大する。「中進国の罠」「未富先老(豊かになる前に高齢化が進む)」「国進民退(国有企業が前進し、民営企業が後退する)」、膨らむ債務やゾンビ化する不動産など、問題は山積みである。背景には、「社会主義市場経済」の歪みという構造的要因がある。改革と開放の深化が必要だが、習政権は党の指導と国家の安全を優先する。2030年までに米国を追い越すとの予測には大きな疑問符が付き始めた(340頁)」。
そういう現状もあるのだろうが、中国はもっと重要なことを見落としていると言わざるを得ない。それは「信頼」「信用」が国際関係では非常に重要になるという点。たとえば一帯一路政策で、発展途上国の味方を気取っても、結局スリランカのハンバントタ港のようなことをやっていれば信用は失われていくのですね。ちなみにハンバントタ港の問題については『新興国は世界を変えるか』などを参照されたい[ページ内検索キーワード:ハンバントタ港]。あるいは最近の例をあげましょう。それはミャンマーで起こった地震の影響でタイのバンコクで中国の企業が施工していた高層ビルが、震度3から4程度の地震で瓦礫の山と化したこと。近くにあった日本のビルは崩れなかったとかあったけど、そもそもあのビル以外のビルは、日本製か否かを問わずまったく崩壊していないのだから、日本の耐震技術の優秀さうんぬん以前の問題で、安全やクオリティーを無視した中国の安直な建築法のせいであることは火を見るよりも明らか。このあたりの心構えが、積もり積もって国際関係における「信用」「信頼」につながるのですね。日本は戦後の長い年月をかけてそれを確保してきたという点を中国は知ったほうがいい。成金根性丸出しのがさつな心構えでは、いくら経済力や軍事力で日本を凌駕したとしても、他国に対する良い意味での影響力は皆無に等しいと言わざるを得ない(悪い意味での影響力は圧倒的だけどね)。たとえば日本の鉄道車両が、発展途上国などではない欧米で活躍している理由をよく考えてみたほうがいい。脱線した高速鉄道の車両を埋めようとしていた国には思い及ばないのかもだけどね。とはいえ、中国はある意味で、つまり悪い意味で首尾一貫しているのに対し、日本は石なんちゃらとかいう、政治家にはまったく向きそうもないひ弱なヌエみたいな奴がトップなので、予断をまったく許さないのも確かだよね。
中国に関してはこのくらいにして、再び前に戻り、いくつか気になった記述を取り上げていきましょう。まず「外交の透明性」に関して。次のようにある。「民主的外交における「透明性」は、交渉の目的や結果(合意した場合はその内容)を国民に明らかにすることであり、外交交渉をガラス張りにすることではない。交渉前には対処方針が作られるが、その中身は民主主義国家においても対外秘である。¶交渉者は相手のボトム・ラインがどこにあるかを探りながら、自らのボトム・ラインより少しでも大きな成果(+α)を確保しようと努める。「ボトム・ライン+α」が国民の期待するラインに届かなければ国内世論の批判を浴びる。従って、交渉前にボトム・ラインを説明し理解を求めるべきであるが、それでは手の内を相手国に知られてしまう。ここに外交と内政のジレンマが生じる。それは民主主義国家では大きな圧力となって交渉者に伸しかかってくる(176〜7頁)」。トクヴィルが「外交政策は民主主義国家の苦手とするような特質を十分に行使することを必要としている」と言った理由の一つも、ここにあるのでしょうね。
それから最近何かと話題のトランプ米大統領に関係する次の指摘を取り上げましょう。「例えば、国家国民の安全には多様な「安全」利益が含まれる。脅威が多様化し、複雑化しているからだ。地政学リスク、核の脅威、サイバー攻撃、宇宙をめぐる競争、感染症、気候変動など、実に多くの脅威が挙げられる。これらの脅威はトランプ大統領の「アメリカ第一」では解決できず、国際協調と国際協力を必要とする(193頁)」。この指摘はまったく正しい。トランプの最大の問題は、左派メディアが指摘しているように「自国第一主義」にあるわけではなく(自国第一主義は当たり前田のクラッカーで、自国の国益より他国の国益を重視する国などあるほうがおかしい)、「インターナショナル」、つまり国際協調と国際協力を無視する点にある。思うに彼自身、「インターナショナル」と「グローバル」の区別がついていないのかもしれない。「インターナショナル」な問題は、未来の自国民が関与してくる問題でもあるのですね。気候変動対策はその代表例だと言える。だから国際協調や国際協力は、自国の未来を守ることにつながる。それに対して「グローバル」な問題、つまり「グローバリゼーション」は世界中を均質な空間にならそうとすることだから、自国を破壊することにつながる。個人的な印象では、トランプはその「グローバリゼーション」に歯止めをかけようとして(これは正しい)、「インターナショナル」まで破壊しようとしているように思える(これはまずい)。著者もその点を指摘しているのだと考えられ、その点においてこのトランプ批判はまったく正しい。
ただし前著の『戦争と平和の国際政治』でも気になったのだが、どうも左派メディアの言説を鵜呑みにしたかのようなトランプ批判が見られるのはちょっと残念なところ。そもそも「あとがき」の末尾に「トランプ大統領就任の日に、¶不確かな平和を憂いつつ、¶平和の外交に希望を託す(346頁)」などといった、嫌味にしか聞こえない余計な一言をつけ加えているのは「なんだかなあ!」という感じがする。そのような私めには嫌味に思えるトランプ批判は本書にも前著にも散見されるが、他に一箇所だけあげておきましょう。「価値をめぐる対立が世界を権威主義と民主主義という二つの陣営に引き裂きつつある。しかし、その行方は、トランプ大統領の再登場もあって、民主主義の更なる後退につながることが懸念されるのである(212頁)」。著者が「民主主義」をどのように定義しているのかはよくわからんが、まず指摘しておきたいのは、トランプはアメリカ人有権者の半数以上が投票して民主主義的手続きによって選ばれたという大統領だという点。ヒトラーのように細工をしたわけでもない。ちなみに第一次政権のときは選挙人の数ではヒラリーに勝っていても、総得票数では負けていた。しかし今回は、総得票数でもハリスに勝っている。それから選挙によって立法府の代議士や行政府の長を決めるシステムとして民主主義を捉えるのなら、不正の多い郵便投票の廃止や、投票時にIDカードの提示を求める政策を実施しているトランプはむしろ民主主義を守っていると言える。むしろそれらをなし崩しにしたバイデン政権と民主党のほうが民主主義を危殆に追いやったと見なせる。あるいは現在、イーロン・マスクらのDOGEがやっている政府の無駄の削減はどうか。民主主義とは直接関係はないとしても、少なくとも国民が収めた税金の無駄遣いをなくすことは、国民にとって重要なことであることに疑問の余地はない。ここでは「大きな政府」「小さな政府」は関係がない。大きな政府であろうが、小さな政府であろうが、税金を無駄に使ったり、公金チューチューや利権の巣窟になったりすることは、国民にとっては許されないことだからね。昔、日本で民主党がやっていた「事業仕分け」は、その縮小版だと言える。これまでの政権は、それらをまったくやらなかったんだから、彼らこそ国民を無視していたことにならないか? 日本でも公金の使用に関してDOGEばりの監査をしたほうがいい。
では、なぜこんな細かなことをわざわざ指摘するかと言うと、高坂正堯の弟子?の国際政治家で、左派イデオロギーに汚染されているわけでもない著者でさえ、ことトランプのこととなるとなぜか「民主主義の敵」みたいなレッテルを貼りたがる風潮は、政治的な判断の誤りを呼び込む可能性を増大させると思っているからですね。どこかに書いたと思うが、トランプについて少しでもポジティブなことを述べていた学者は、これまでのところマルクス・ガブリエルただ一人しかいない。まるで学者たるもの、トランプを批判しなければ格好がつかない、あるいは自身の評判を落とすと思っているかのように。それは洋書でも和書でも変わらない。オールドメディアに至っては救いようがないことは、昨年の11月にトランプが大統領に選出された結果、ハリスの当選を予想し、ハリスが優勢と嘘の報道を続けていたほぼすべてのオールドメディアがお通夜状態になり、それがツイのトレンドになるほど揶揄されたことを思い出せばわかる。なお個人的には、ハリスが当選する可能性はそれなりにあると思っていたが、その理由は、日本と同様アメリカでも左派メディアが強く、FOX以外の主流メディアが日本と同じような報道を繰り返していたので、アメリカの有権者がその風潮に呑み込まれる可能性は十分にあると思っていたから。でも、アメリカ国民は、アメリカを悲惨な状況に陥れたバイデン政権の副大統領だったハリスを次の大統領にするほど愚かではなかったので安心した。何しろ、バイデン政権がやっていたようなことをもう4年間続けていたらアメリカはマジで崩壊する可能性があると思っていたからね。そうなれば、喜ぶのは習近平だしね。いくらアメリカは他所の国だとはいえ、中国がこれ以上増長する展開になるのは日本としては非常にマズいので、トランプが勝ってホッとしたというわけ。少なくとも中国共産党が中国を支配しているあいだは、日本人の私めとしてもアメリカがグダグダになってもらっては困る。なおトランプの当選が決まったときの左派のすったもんだに関しては、先崎彰容氏の『国家の尊厳』を取り上げたときに枠内記事(「―――――」でページ内検索されたし)として書いておいたので参照されたい。
いずれにせよオールドメディアのみならず学者でさえトランプの長所と短所を客観的に捉えていないから、彼に24%の関税をかけられて日本中があたふたしなければならなくなる。「タリフマン」を自称するトランプが、そのくらいのことを仕出かすことくらい最初からわかっていたにもかかわらず。ていうか、大統領選挙期間中から、「TRUMP VANCE MAKE AMERICA GREAT AGAIN!」と題するサイトで、彼が当選したら実行する政策を明示していた。「公約を守る必要などない」と国会で嘯いたらしい、どこぞの国の首相とは大違いで、トランプは選挙前の公約を淡々と実際に実行しているだけなのですね。日本のオールドメディアや自称知識人たちは「トランプは何をやるかわからない!」と叫んでいるが、これまた彼らがトランプを「民主主義の敵」として悪魔化しているがゆえに、彼が公言していることすらまったく頭に入っていないことの証拠になる。そもそも彼は選挙前の公約をきっちりと律義に実行しているわけで、その徹底性は予想できなかったとしても、基本的に思いつきでまったく突拍子もないことをやっているわけではないのだから。ちなみに、このサイトの2頁目の「CHAPTER FIVE: PROTECT AMERICAN WORKERS AND FARMERS FROM UNFAIR TRADE」の「1. Rebalance Trade」に、「Our Trade deficit in goods has grown to over $1 Trillion Dollars a year. Republicans will support baseline Tariffs on Foreignmade goods, pass the Trump Reciprocal Trade Act, and respond to unfair Trading practices. As Tariffs on Foreign Producers go up, Taxes on American Workers, Families, and Businesses can come down」とある。もちろん24%もの関税をかけてくることは予想できなかったとしても、トランプを「民主主義の敵」として悪魔化するのではなく、彼を長所も短所も併せ持つ強力な政治リーダーとして客観的に捉えていさえすれば、公表されていた彼の公約をもとに予め何らかの対策を講じることができたはず。なのに、どこぞの国の無能な首相は2月の首脳会談で何を話したのかね? 関税に関する記者の質問に「仮定の話には答えられません」とか回答して、トランプにせせら笑われていたよね。あれは褒められたのではなくせせら笑われたのですね。その証拠に、そのすぐあとでトランプはすたこらさっさと記者会見会場をあとにしていたじゃん。私めでさえ、アメリカ人に対してそういう返答をしたらまずいことを、仕事や趣味の経験で知っているのに、ましてやかつてビジネスマンだったトランプの前で記者の質問に対してそんな答え方をすれば彼に軽蔑されるであろうことくらいわからないのだろうか。このように、トランプを悪魔化することは、同盟国アメリカの大統領に対する日本の政治的判断を歪める結果にしかならないと思う。日本中の学者やメディアがそんなことをやっていたら、マジでヤバい事態に陥るよ!
まあ文句はこの程度にして、次にウクライナ戦争に関する次の指摘を取り上げておく。「ソ連崩壊後、ウクライナはソ連が配備した約2000の核弾頭を継承した。米国はその危機を除去すべく動いたが、ウクライナは引き渡しに抵抗した。手にした自由がロシアによって奪われることを恐れたからである。その結果出来上がった合意が「ブダペスト覚書」である。米ロ英は、「核兵器の放棄と引き換えに、ウクライナの独立と主権、そして現行の国境線を尊重する」ことを約した外交文書に、ウクライナと共に署名した。ウクライナは主権が侵された際の米国の介入を保証する文書を求めたが、中途半端な法的拘束力を持つものに止まった。そんな合意は、2014年のロシアによるクリミア半島併合によって踏みにじられた。米英の反応は鈍く、ウクライナには裏切られたとの哀感が漂った。その後、ロシアは容赦なく全面侵攻した。ウクライナは核兵器を持つ無法者国家との孤独な戦いを続けることになった(198頁)」。ウクライナが約2000発の核兵器を放棄していなければ、ロシアによる2014年のクリミア侵攻や、2022年の全面侵攻は起こらなかったのでは?というWhat ifシナリオはここでは取り上げない。しかし一つだけ言えることは、覚書にせよ「ブダペスト覚書」のような国際的なお約束が、必ず実際に履行されるか否かは微妙だということ。もちろん法的拘束力が弱い覚書ではない日米安保が無視される可能性は薄い。とはいえ、西半球に留まろうとする「アメリカの第一の顔」の現代の代弁者であるトランプが、有事が生じたときにほんとうに極東の戦争に関与しようとするかは不透明な部分がある。とりわけ彼は、日米安保を片務的だと見なしているわけだしね。日米安保には、トランプがそう考えるのも無理はない側面があるわけだが、それについてはあとで触れる。いずれにしても学者や自称知識人はトランプのようないかにも粗野な人物を毛嫌いするということなのかもしれないが、残念ながら世界情勢を変える力を持っているのは、著者のような東大名誉教授でもなければ、オールドメディアに登場している自称知識人でもなく、まさにトランプやプーチンや習近平のようないかにも粗野に見える人物たちなのですね。その点を忘れてはいかん。
次に第二次世界大戦前の、ヒトラーに対する地政学を無視した宥和政策がバックファイアーした歴史的経緯を改めて復習しておきましょう。次のようにある。「オーストリアに続くチェコスロバキアの[ドイツによる]併合は、パワーバランスの変化という点でも大きな意味を持った。チェコスロバキアの強力な35個師団とスコダ兵器工場が無傷でヒトラーの手中に転がり込んだからである。英仏側と独側の得失差を合わせれば力の変化はその倍となる。加えて、第一次大戦後、英国が率先して軍縮を進めたのに対し、ヒトラーは再軍備に邁進していた。この結果、ドイツの兵器生産は、戦争勃発前年には英仏を合わせたより少なくとも2倍、あるいは3倍に達していた。¶第一次世界大戦後、欧州では、軍拡競争や軍事同盟が戦争を招いたとして、軍縮や国際連盟の下での集団安全保障によって平和を求める外交が展開された。しかし、一方的軍縮は一方的軍拡を進める国家がいる限り、一方的譲歩、すなわち「悪しき宥和」を生む。また、集団安全保障は、すべての大国が現状維持を望み、現状変更を試みる国家に対し協調して対処することなくしては機能し得ない。¶既に言及した通り、ミュンヘン会談の半年後、ヒトラーは「最後の要求だ」との約束を破り、チェコスロバキア全土を併合した。「我々の時代の平和」と自画自賛して、国民の喝采を浴びたチェンバレン首相は後に「宥和主義者」の汚名を着せられることになった。¶力を欠いた外交は宥和に追い込まれる。暴力を恐れ、暴力から逃れようとする本能は非難されるべきではないが、それは時に、より大きな暴力を招くことを理解していなければならない。¶チェンバレンは、遠くで起きた事件に関わらない方針により、自国の平和を維持することが国益だと信じた。しかし、それは結果的に自国にとっての脅威を増大させ、平和と自由を支えるはずの国際秩序を瓦解させることになった。チェンバレンが己の誤りに気付いた時にはもはや手遅れであった。英国は侵略を阻むだけの力を自ら捨ててしまっていた(267〜8頁)」。このよく知られた歴史的事実に関して、かなり長めに引用した理由は、まさにこの状況が戦後から現在にかけての、「一国平和主義」にしがみつく日本の状況と似ているから。もちろん相手はドイツではなく中国だが。
最後に「一国平和主義」とは対照的な「積極平和主義」について言及されている箇所を引用しておきましょう。これは非常に重要な指摘なので、長めに引用しておく。まず次のようにある。「戦後、非軍事・非暴力の「平和主義(pacifism)」が国民的コンセンサスとも言えたが、紛争を解決して平和を構築し維持するために日本は行動すべきだとの「積極的平和主義」を唱える人もいた。国際法学者・横田喜三郎は、日本国憲法が採用している平和主義の真の精神は「口の先で平和をとなえるだけの消極的な平和主義ではない。実際の行動の上で、平和のために努力し、協力しようとする積極的な平和主義である」と主張した(307頁)」。戦後日本の平和主義とは単なる消極的な引き籠り主義、つまり「一国平和主義」、いやそれどころか『自衛隊海外派遣』など、他の本を取り上げたときに何度も述べたようにフリーライダー主義と化していたと言える[ページ内検索キーワード:フリーライダー主義]。そうではなく、平和は積極的平和主義によって自らの手で確保しなければならないと主張する人々もいたのですね。少し飛んでさらに次のようにある。「しかし、日本が積極的平和主義の色合いを帯びるようになるのは冷戦後である。その契機となったのが、クウェートを侵略したイラク軍と平和回復のために結成された米国主導の多国籍軍が戦った湾岸戦争である。日本は湾岸における平和回復活動への協力として130億ドルに上る資金支援を行ったが、ヒトの貢献がなかったがために国際社会から酷評された。その教訓から、1992年には「国際平和協力法」の制定に漕ぎつけて、内戦終結後のカンボジアを皮切りに、平和維持活動(PKO)に積極的に参加してきた。自衛隊の海外派遣への国民の理解と支持も深まっていった(308頁)」。要するにおじぇじぇだけ出しても国際社会からは評価されないということ。PKOの派遣に関してさえ、当初は戦後日本のフリーライダー主義を当然の立場と考えているらしき、一部のおかしな連中が騒いでいたよね? そんなん国際社会で通用するわけがない。
さらに次のようにある。「こうした変化は、日本が国際社会の平和の破壊者とはならないとの「一国平和主義」を超えて、国際社会の平和と安全のために積極的に行動するとの国際主義的な対外姿勢を体現するものであり、積極的平和主義の現れであると言えた。¶そして、第二次安倍政権において、積極的平和主義は政策論を主導するキーワードとなった。安倍首相は、「国家安全保障会議の設置、国家安全保障戦略の策定、集団的自衛権や、集団安全保障措置と憲法との関係など、『積極的平和主義』の旗を掲げるにふさわしい基礎的枠組みを、いかにすれば充実できるか、衆知をあつめて検討している」(2013年9月30日)と説明した。そこでの積極的平和主義は、横田の言う国際主義的な概念を超えて、国家の安全保障と関連付けられた点に特徴があった。国際平和のための取り組みの理念であり、レトリックでもある積極的平和主義は、安全保障政策を語る上でも有用な概念であるとみなされたのである。(…)こうして、積極的平和主義は、安倍政権の下で日本史上初めて策定された「国家安全保障戦略(2013年12月)に明記された。¶《我が国は…平和国家としての歩み(@)を引き続き堅持し、また、国際政治経済の主要プレイヤーとして、国際協調主義に基づく積極的平和主義(A)の立場から、我が国の安全(❶)及びアジア太平洋地域の平和と安定(❷)を実現しつつ、国際社会の平和と安定及び繁栄(❸)の確保にこれまで以上に寄与していく》(…)ここには、二つの平和主義(@とA)と三つの国家目標(❶〜❸)が並存する。戦争の教訓に基づく平和主義(@)を堅持しつつ、積極的平和主義(A)を3つの国家目標の実現について適用すると明記した。積極的平和主義は、国際社会の平和と安定の確保(❸)のための「ヒトの貢献」(自衛隊の海外派遣)のみならず、日米同盟と日本の役割(❶と❷)を強化する論理ともされたのである。その下で、集団的自衛権の条件付き容認を含む「平和安全法制」の制定がなされた(309〜10頁)」。安倍氏が提起した「開かれたインド太平洋」構想もその一環と言える。なお「集団的自衛権の条件付き容認」とは、日本の利害に関連する場合にのみ、批准相手の国の領土が攻撃されたときにその国を支援することが容認されるという条件が付いていることを意味するが、トランプはそれではまだ片務的と考えているのでしょう(日米安保に従えば、アメリカは日本の領土が攻撃されれば、それが自国の利害に関係なかったとしても日本を支援しなければならない)。この「集団的自衛権の条件付き容認」に関しても、一部のおかしな連中が騒いでいたのは記憶に新しい。彼らはいったい何を考えているのかさっぱりわからん。おそらく一国平和主義を喧伝する左派メディアに完全に篭絡されているのだろうが、それでは国際社会にまったく通用しないことはすでに見たとおり。ちなみに安倍氏のこういった業績に関しては、彼の国葬が行なわれた際に、トランプは叩きまくるアメリカの左派メディアですら評価していた。日本の左派メディアはほんまに害悪でしかない。この新書本の著者も、ことトランプとなると前述のとおり叩きまくっているが、安倍氏に関してはこの箇所に限らず公正で妥当な評価を下していると思う。
ということで、まとめとして現代の日本の状況に鑑みた場合に非常に重要な指摘を最後に引用することで、本書についてはおしまいにしたい。次のようにある。「外交だけで平和と安全は守れない。第一次世界大戦後に一方的軍縮を進めた英国は、ヒトラーの威嚇に屈し、不名誉な宥和主義外交を歴史に刻んだ(第7章を参照)。力の支えなき外交は宥和に追い込まれるとの教訓はその後繰り返し説かれてきた。軍事力を否定するわけにはいかない。自衛隊の存在と役割を正当に評価した上で、日本の置かれた安全保障環境についての的確な判断と、それに基づく現実的な戦略に立って、必要最小限の抑止力と防衛力を速やかに整備する必要がある。¶ロシアによるウクライナ侵略は、法の支配に基づく国際秩序の脆弱性を露わにし、横田が批判した「消極的平和主義」は赤裸々な暴力がまかり通る世界の現実に打ちのめされた。(…)脅威の高まりに直面した日本が抜本的な防衛力強化に動き始めたことは、宥和外交に追い込まれた英国の歴史を繰り返さないためにも必要であった。¶日米同盟が外交の基軸であることに変わりはないが、日米同盟さえあれば、日本の平和と安全は万全だとは言えない時代に入った。「自分の国は自分で守り抜く」(新「戦略」)との思いは、それが可能かどうかにかかわらず、国家安全保障の基本姿勢であろう(328〜9頁)」。この結論には100%同意する。前述のように日米安保を片務的と見なすトランプのような大統領が登場した以上は、「自分の国は自分で守り抜く」という心構えが必須になる。ところが現状は、「軍事」と聞いただけで発狂する左派メディアが大勢を支配しているので、このきな臭い世界情勢のもとで日本はマジで危機的な状況のもとにある。
とりわけ左派の姿勢でまずいのは、彼らは侵略戦争と防衛戦争を同じ「戦争」という言葉で括り、前者のイメージで後者を語るという決定的な欺瞞を弄していること。確かに戦前の日本には大きな問題があったが、それは単に日本が軍事力を持っていたことにあるのではなく、その軍事力を侵略戦争に用いたことにある。もし防衛戦争まで否定するのであれば、軍事力を侵略戦争に用いた日本に対して防衛戦争を行なった当時の中国も非難されねばならないことになるが、左派メディアはそれを非難するのだろうか? 当然ながら、かつての日本やドイツ、あるいは現代のロシアのように侵略戦争を仕掛けて来る国があるのなら「自分の国は自分で守り抜く」必要が生じる。それともただちに無条件降伏すべきと言うのだろうか? もし専制国家に無条件降伏すれば、日本国憲法第9条などどこかにすっ飛んで侵略の先兵にされかねない。だから第9条の信者は、余計に防衛戦争の重要性を認識していなければならないはず。ところがそうとは思えないのは、戦後の左派メディアのイデオロギー工作に篭絡された人々が、知識人を装ってその左派メディアを使って非現実的なイデオロギーをバラマキ続けてきたからだと言える。この状況は変えないとマジでヤバい。幸いにもオールドメディアは明らかに凋落の兆しを見せているので、左派メディアのイデオロギーにまみれた言説は通用しなくなりつつある。ということで、この結論はその点を明確化しているという点において、100%同意すると言ったわけ。ということで、トランプに対する扱いが公正だとは思えないことと(それはほとんどの他の著者がそうなので仕方がない側面もあるが)、『戦争と平和の国際政治』を取り上げたときにも指摘したように、「ナショナリズム」の捉え方に違和感を覚えるという細かな点を除けば、今日のきな臭い世界情勢に日本はどう対処すべきかに関するヒントが多々得られるという点で、推薦できる一冊だと言える。
※2025年4月9日