◎加藤博章著『自衛隊海外派遣』(ちくま新書)
タイトル通り、戦後における自衛隊の海外派遣の経緯が述べられている。「第2章――前史」までは章題が示すように自衛隊海外派遣の前史、具体的に言えば一九八〇年代のイライラ戦争までの経緯なので、「始まり――「汗を流さない大国」からの脱却をめざして」という、「本格的な話はここからだ」と言わんばかりの章題がついた第3章から始めましょう。第3章で「始まり」として取り上げられているできごととは、湾岸戦争における掃海艇派遣なのよね。
ちなみに事実を一点だけ述べておくと、日本は戦後しばらくのあいだ(朝鮮戦争まで)は掃海艇を派遣していた(そもそも日米両軍ともに、そこいら中に機雷を撒き散らかしていたし)。というのも日本はアメリカの占領下にあってまだ独立を果たしていなかったために、アメリカの要請でそうせざるを得なかったから。朝鮮戦争時、日本はアメリカに基地を提供していたことはよく知られている。ウィリアム・ホールデン主演の『トコリの橋』やユル・ブリンナー主演の『あしやからの飛行』(タイトルの「あしや」とは兵庫県の芦屋市ではなく福岡県の芦屋町のこと)を始めとする一九五〇年代、六〇年代のハリウッド映画では、日本の基地、もしくは日本の港を母港とする空母から主人公が出撃するところが描かれ、日本ロケも多かった。それに対して、実は掃海艇という、日本人が乗り組んだ艦艇も出していたという事実は意外に知られていないのかも。
湾岸戦争に話を戻すと、この章を読んでいて戦後日本の風潮がいかにケッタイなものであるかがよくわかった。日本はすったもんだの末に掃海艇を派遣したわけだけど、「なんでそうなるの?」と思わざるを得ない。というのは、当時も今も、日本は中東産の原油に大幅に依存してエネルギー需要を満たし、産業を維持していた(る)わけだから、ペルシャ湾におけるタンカーの航行の安全を確保するために機雷を除去することは、日本国の維持や繁栄のためにはいやでもやらねばならないことなんだから。そもそも掃海艇で戦争をおっ始めることなどできないし、湾岸戦争が終わって「日本が戦争に巻き込まれる」可能性がほぼゼロになってからですら掃海艇派遣が紛糾していたというのは信じられないと言わざるを得ない。すでにペルシャ湾に掃海艇を派遣していた米英やドイツ(ドイツも当初は、日本と同様掃海艇を派遣できなかった)にしてみれば「なんじゃ、こいつらは!」って気がしただろうね。
日本ではとりわけ社会党が反対していたようで(のみならず自民党の海部首相も乗り気ではなかったとのこと)、それに対して日本国内でも「一国平和主義」の批判が巻き起こったらしい。でも私めから見れば、それは「一国平和主義」ですらなく、欧米諸国を当てにして身銭をまったく切らないで、日本のエネルギー源を確保しようとする「フリーライダー主義」だとしか思えない。なお「身銭」と言ったけど、日本は九〇億+追加五億ドルを投入したにもかかわらず、クウェートが感謝広告から日本をはずしたことはよく知られており、本書にはクウェートの意図は定かでないとあるけど、要はこの手の国際問題では銭だけ切っても身を切らなければ感謝されないどころか、かえって信用を失いすらするということなんだろうと思う。個人間でもフリーライダーは嫌悪されるけど、国際関係でもまったく同じなのでしょう(しかもおじぇじぇを払えばいいってものでもない)。法の縛りで「フリーライダー主義」を取らざるを得ないのだとすれば、その法は独立した国家の法として何かがおかしいと言わざるを得ない。
ちなみに紛糾して掃海艇派遣が遅れたために結局どうなったかというと次のようにある。「その結果[現地の状況を調査した結果]、イラクが敷設した一二〇〇個の機雷のうち、八〇〇個以上の処理が進んでいること、そして、日本の掃海部隊が到着した後、技術的に難しいクウェート沿岸の掃海を行う必要があることが判明した。(…)掃海部隊は困難な海域での活動を余儀なくされたのである(143頁)」。それでも「ペルシャ湾に派遣された部隊は、九月一一日に作業を終えて、一〇月三〇日に呉へ寄港した。自衛隊初の海外派遣は、一人の犠牲者も出すことなく、無事任務を達成したのである(145頁)」。そしてその結果、「ペルシャ湾掃海艇派遣は、国内における自衛隊に対する評価を変えた(145頁)」。具体的に言えば、「派遣前の一九九一年二月に総理府が行った自衛隊の平和維持活動関与に対する世論調査では四五・五%が賛成を示していた(145頁)」のに対し、「派遣終了後に行われた世論調査においては、自衛隊派遣を容認する動きが強まった。例えば、六月九日と一〇日に実施された朝日新聞の世論調査では、七二%が自衛隊の海外派遣を容認すると回答している(145頁)」のだそう。そもそも自分たちの生活がかかっているにもかかわらず、死活ルートへの掃海艇派遣に半数近くが反対していたこと自体、おかしな話だったわけではあるけどね。結局、危ないことは米英やドイツに任せておけってことだったのかな? 普通、そんな考えは通用しない。だから要するに、このペルシャ湾掃海艇派遣は、日本がようやく世界的な基準に向かう道を歩み始めるきっかけになったということ。
さてペルシャ湾掃海艇派遣の次に扱われている大きなできごとは、PKO協力法制定とカンボジアPKO。当時のカンボジアは、内戦は終わっていたとはいえ、情勢は不安定だった。そこへ軽装備の自衛隊を派遣し「一九九二年九月から一九九三年九月まで活動し(164頁)」たわけだけど、「一人の犠牲者を出すこともなかった(164頁)」。とはいえ文民警察官と選挙監視員には一人ずつ犠牲者が出たらしい。紛争地域では、たとえ内戦が終結していても、いつなんどき危機的状況が降りかかってくるかわからないから、危機対応のスペシャリストを送る必要がある。自衛隊を軍隊と考えるとアレルギーを起こす人は今でも多いんだろうけど、そうであるのなら自衛隊は危機状況に対応する訓練を積んだ危機管理のスケシャリストと考えればよい。著者も、カンボジアではなくイラク派遣に関してだけど、「実際問題として、刻一刻と状況が変化する中で戦闘地域と非戦闘地域は移り変わっており、明確な線引きは不可能に近い状況だった。そもそも、安全な場所であれば、自衛隊を送る必要はない。[イラク]戦争が終結したが、いまだに不安定であり、NGOなどが安全に活動できない場所であるからこそ、自衛隊が求められていた(178〜9頁)」と述べている。
確かホルムズ海峡で日本に向かうタンカー(ただし日本人は乗り組んでいなかったし、船籍も日本ではなかったはず)がミサイル攻撃されたときだったか、タンカー護衛のためのホルムズ海峡への自衛隊派遣に反対していた人々がいたよね? いかにそれが本末転倒かは言うまでもない。タンカーの船員は丸腰で危険な水域に送っても構わないエクスペンダブルな人々だということなのだろうか? それとも船員は日本人じゃなければいいの? これではまさに「フリーライダー主義」だよね。この件などは、いかに戦後の日本の世論とメディアがおかしな方向にねじれていったかを示しているように思う。
そしてカンボジア以降も、モザンビーク、エルサルバドル、ルワンダなどへ、自衛隊が次々にPKO派遣されたそうな(ただしここ最近は中国を警戒しなければならないこともあって、派遣されなくなっているそうだけど)。それから対テロの一環として米空母キティホーク護衛問題というのが生じて一悶着あったらしい(私めの記憶にはまったくないけど)。このできごと自体は大きな問題になったわけではないようなので詳細は述べないけど、最後の次の指摘は重要だと思う。「しかし、これは日本の安全保障政策で繰り返されてきた場面に過ぎない。法的整備が追い付かず、アクロバティックな論理で現場が対応する。本来責任を取るべき政治ではなく、現場がそのつけを払わされる。キティホークの護衛をめぐる問題はその一つとも言える(175頁)」。
キティホークは米空母だし、それまでのPKO派遣にしても日本からははるか遠く離れた外国に対して行なわれたものだったからまだしも、これが国内の安全保障に関するものだったら、非常にヤバい状況だと言わざるを得ない。日本のまわりにはヤバい国が勢ぞろいしているというのに、法改正が遅々として進まず、「アクロバティックな論理」で対応していたのでは大問題だしね。それどころか、国外でもアフガニスタン撤退時には現行法の縛りで後手を踏んだことは記憶に新しいし、本書でもそのいきさつは「第5章 自衛隊海外派遣のゆくえ」に書かれている。危機にはたいていそれに至る兆候があるわけだけど、その兆候をとらえそこなったり、とらえてもそれに迅速に対応することができなかったりすれば、犠牲者は増えるばかりでしょう。
次はイラクのサマーワへの、給水、医療支援、学校や道路の補修作業のための自衛隊派遣が扱われているけど、このケースでは集団的自衛権が問題になっている。つまりイラクで他国と連携すれば集団的自衛権の行使にあたるわけだけど、そもそも当時のイラクでは、他国(イギリス、オーストラリア)と連携せずに活動するのは困難で実際連携していたにもかかわらず、その事実を公表することができなかったとのこと。「ならば、最初から派遣しなければいい」ということになるのかもだけど、現代の国際社会でその種の一国平和主義を貫けば、いざ自分が支援を受けたいとなったときにどのような結果が待っているかを考えた方がいいでしょうね。
ちなみに集団的自衛権は、国連の集団安全保障が機能するまでの一時的な対策として認められているものであり、日本以外でそれが悪しざまに扱われている国はいったいどれくらいあるのだろうか? それどころかウクライナ戦争が起こって、その国連の集団安全保障がまったく機能しないことが明らかになった現在、それを頼りにしていればウクライナのようになってしまうことが明確化している(というよりその兆候はウク戦争以前から見られていた)。すると結局、集団的自衛権を用いるか、永世中立国スイスのように徴兵制を敷いて国全体をハリネズミのようにするしかない。さもなければ降伏主義を取るしかなくなる。何度も述べてきたように降伏主義は論外だと思っている。とすればあとは集団的自衛権を行使するか、ハリネズミになるしかない。
そこで登場する話が、「第5章 自衛隊海外派遣のゆくえ」に出てくる「集団的自衛権の解釈見直し」と「平和安全法制」なのよね。それらをめぐるすったもんだに関しては記憶に新しいし、この本でも簡単にしか述べられていないので(というか最近10年のできごとに関する記述それ自体が多くはない)詳細は省くけど、次の指摘だけは取り上げておきましょう。「しかし、一方で平和安全法制をめぐる議論は、安全保障問題に対して、世論が日本に積極的な関与を望むようになっていたことを証明してもいた。一九六〇年の安保騒動など、これまでは日本が安全保障政策を転換させようとしていたときには大きな反対が巻き起こり、時の政権が失脚してしまうほどだった。しかし、平和安全法制をめぐる議論では、反対勢力が注目を集めたものの、国民的な支持を集めるには至らなかった。安全保障論議に対して、ただ反対するだけでは不十分だということを示したと言えよう。その意味では、平和安全法制をめぐる議論は、賛成派、反対派双方に課題を残す結果となった(204〜5頁)」。
なぜそうなるかと言うと、安全保障の問題は生ものだからでしょう。つまり刻一刻と変化していく国際情勢に柔軟に合わせていかなければ話にならないということ。大戦直後から一九七〇年代くらいまでは、安全保障政策を転換しようとした政権を失脚させても、それでよかったのかもしれないけど、他国を実際侵略しているロシア(平和安全法制当時は、もちろんまだウクライナ本土には侵攻していなかったけど、クリミアには侵攻していたと思う)、大規模な軍拡を進める中国、ミサイルを撃ちまくる北朝鮮が出現した二一世紀において、安全保障に関して対案も出さずに反対だけしていても破局を招き寄せるだけだしね。ちなみに「話し合えばいい」というだけでは対案にはならない。少なくとも独裁国を説得するにはどのような交渉をすればよいかを提案しないとね。しかも「戦わずして勝つ」ことを目指している、中共率いる中国などは、話し合いはそもそも織り込み済みだと考えたほうがいい。つまり軍拡を通じて他国を恫喝することで、話し合いを自分に有利に進め、戦わずして勝とうとするはずだということ。自らゴドウィンの法則を実証することになるけど、ヒトラーがチェンバレンを丸め込んだのも結局そういうことだよね? その手の国に対して、どう対処すればよいかを提案しない限り、何を言っても無意味でしかない。
「戦争」という言葉をどんぶり勘定的に使うと、現実から乖離する結果になる。「戦争」と言った場合、少なくとも、「侵略戦争」だけを指しているのか、それとも「防衛戦争」も含めているのかを明確にする必要がある。「侵略戦争」だけを指しているのなら、一部の好戦的な輩(と死の商人)を除けば、左右を問わず、それに賛成する人などまずいない。他方の「防衛戦争」は自分がしたくてするわけではない。今のウクライナが好例だよね。国連憲章では「侵略戦争」は明確に禁止されているのに対し、「防衛戦争」は国連自体が提供する集団安全保障や集団的自衛権などの形態で認められている。この国連も認めている「防衛戦争」にすら反対するのなら、それは侵略国に即時降伏せよと言うに等しい。また歴史的には、これまで行われてきた防衛戦争のすべてに否をつきつけるに等しい。たとえば現在のウクライナにも、第二次大戦中に軍国日本に対して祖国防衛を行なった中国やナチスに徹底抗戦したイギリスにも否をつきつけることになる。それでいいわけはないよね? ましてや「戦争」というあいまいな用語を使って、「侵略戦争」の持つ意味を密かに「防衛戦争」に滑り込ませるような印象操作は厳に慎むべきだと思う。たとえばメディアはよく、「集団的自衛権を行使すれば他国の戦争に巻き込まれる」とか言っていたけど、「他国の防衛戦争に巻き込まれる」と正しく言わなければ、テレビしか観ていない人は簡単に騙される。自国の安全保障に関して、その種のいわゆる思考停止が国内で一般化していたなら、とんでもない結末になりうる。もちろん集団的自衛権の行使に反対する意見もあってしかるべきだと思うけど、そうするのであれば、飲み屋談義ならまだしも、メディアや政治家なら、集団的自衛権を行使せずにどうやって自国の安全保障を確保するかを明確に提案する義務があると思うぞ。それをしないで先のような印象操作をしていれば、そりゃ国民もバカではないからメディアは衰退していくわな。
要するに、ロシア、中国、北朝鮮のような国が存在している限りは、安全保障の問題を議論しないなどという選択肢はあり得ないということ。ということで最後は個人的な見解の開帳になってしまったけど、この新書本は「自衛隊海外派遣」のみならず「日本の安全保障」について考える際のすぐれた素材の一つになるという印象を持ったとつけ加えることで終わりにする。
※2023年5月30日