◎大谷弘著『道徳的に考えるとはどういうことか』(ちくま新書)

 

 

「はじめに」に本書の目的が書かれているのでまずそれを引用しておきましょう。「私は「道徳的思考」とは何かを解明することを目指す。私のアプローチはパッチワーク的なものであり、道徳的思考の本質を取り出し理論的に解説することを目指すものではない。そうではなく、それは道徳的思考が現れている現場をよく見ることで、その様々な側面を提示していこうとするものである(11頁)」。では「道徳的思考」という言葉で著者は何を意味しているのかというと、「第1章 当たり前を問い直す」に次のようにある。「この本において、私は「道徳的思考」という語をおばあさんに席を譲るときのようなとっさの判断から、キング牧師の活動がなぜ正当だと言えるのかを「よく考える」ときのような熟慮まで、幅広いタイプの思考を指す用語として用いることにする。すなわち、道徳的観点からなされる思考であれば、直観的判断から熟慮まですべて「道徳的思考」と呼ぶことにする(34頁)」。

 

この記述で私めが特に注目したのは「直観的判断」というくだり。というのも、「直観」はわが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』や、その基盤をなす著書、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』の核心をなす主題でもあるから。ただしメルシエやスペルベルは、道徳的思考に対象を限定しているわけではなく、より包括的な合理的思考を扱っているわけだけど、いずれにせよ道徳的思考はその下位区分をなすと考えても問題はなさそうに思える。メルシエ&スペルベルの考え方の肝には、「合理的思考は直観的推論の一形態(同書90頁)」という見方がある。現代人はともすると、合理的思考とは抽象的で普遍的なものだと考えたがる。しかし昨今の認知科学によって、その考えは決定的に誤りであることが判明しつつある。メルシエやスペルベル以外にも、たとえば認知科学者のマーク・ジョンソンや脳科学者のアントニオ・ダマシオらによる身体化(embodiment)の概念があげられるけど、ジョンソンもダマシオもこの新書本のあとのほうの章で登場するので、そこでやや詳しく取り上げる予定。もちろんメルシエやスペルベルは直観がすべてと言いたいわけではなく、進化的に特定の環境に適応するために獲得された直観的な能力は、適応時とは異なる環境に置かれた場合バックファイアーする怖れがある。そこで重要になるのが、新書本の著者の言う「熟慮」であり、どんどん複雑化しつつある現代において「熟慮」と「討議」を核とする熟議民主主義という考えが重要になる理由の一つもそこにある。それに対して直観的判断は意識することなく自分にとって自明の判断を下すことであり、新書本の著者はその具体例の一つとして「おばあさんに席を譲るときのようなとっさの判断」をあげている。まあ周囲を気にして体面上そうする人もいるだろうけど、ここでは特に意識することなく自然に下される自明の判断を指す。

 

自明の判断が自明であるのは、種としての進化の過程や個人としての成長の過程を通じて直観という形態でそのような判断能力が脳に組み込まれているからであって、本質的に自明であるわけではない。そのことは、その種の判断能力を失った精神病患者の振る舞いによってよくわかる。つまり、たとえば目の前の床が次の瞬間にも存続していることが自明ではないような世界に生きている人々もいるのであり、そのような人々は日常生活を送ることさえ困難なのですね。このあたりの話は、ぜひともヴォルフガング・ブランケンブルク著『自明性の喪失』(みすず書房)あたりを参照して下さい。いずれにせよ、「目の前の床が次の瞬間にも存続していること」を自明のこととしてとらえる能力は進化の過程で獲得されたものであり、この能力を失えばまともな生活が送れなくなる。「おばあさんに席を譲るときのようなとっさの判断」を下す能力も、種としての進化の過程で獲得されたのか、個人の成長の過程で教育などによって得られたのかは別として、日常生活を無事に送るための直観として備わっていると考えられる(ただしそれがなくても、「目の前の床が次の瞬間にも存続していることが自明ではないような世界に生きている人々」ほど、致命的な結果に至らないであろうことは確かだけどね)。いずれにせよ私めがここで強調しておきたいことは、新書本の著者が「道徳的思考」に「直観的判断」を含めていることで、この点は非常に重要だと個人的に思っている。

 

次は「第2章 想像力を働かす――プラトンの『クリトン』を読む」。この章では、道徳的思考における想像力の重要性が、副題にあるようにプラトン著『クリトン』を例にあげて示されている。長くなるので、ここではその詳細は説明しない。ただ本論とはあまり関係ないけど、冒頭にある、ソクラテスの提唱する有名な「無知の知」の概念については取り上げておきましょう。次のようにある。「ソクラテスは政治家、作家、職人たちのもとを訪れ、彼らと哲学的対話を交わす。そこからわかってきたのは、そのような人たちは世間から知恵があると思われており、また自身を知者だと考えているが、実は大事なこと、価値あることについては何も知らないということである。¶これが「無知の知」あるいはより正確には「不知の自覚」として知られるエピソードである(納富 二〇〇三参照)。そのポイントは、世間で知者とされている人々は自分が知識を持たないことに気づかず、自身を知者だと見なしているが、ソクラテスだけは自身の無知を自覚しており、その点においてのみ知恵があるということにある。「ソクラテスより知恵のある者はいない」という神託の意味は、ソクラテスが価値あることについて知恵を持っているということではなく、自身の「不知の自覚」を持つという点でソクラテスには知恵があるということだったのである。¶ソクラテスはこの経験をきっかけに、人々と哲学的対話を交わすようになる。対話においてソクラテスは対話相手を論駁し、その人が自分では何かを知っていると思っていても実は無知なのだということを明らかにしていく。ソクラテスの哲学的対話は、ソクラテスが価値あることについて知っていて、それを教えるという営みではない。そうではなく、それは何が価値あることかについて無知なので、そのことを探求する必要があると人々に気づかせるための営みである。大事なことが何であるかを知っている気になってそれを追い求めるのではなく、そもそも本当の意味で大事なことは何なのかを吟味し、探求すること。これがソクラテスの哲学的対話の目指すものなのである(『弁明』30d-31a)(41〜2頁)」。よく知られた「無知の知」の概念に関する記述をわざわざ長々と引用したのは、そう、状況は現代でも何も変わっていないから。政治家や作家やジャーナリストや芸人が、メディアやSNSでいかにも「俺は何でも知ってるぜ!」と言わんばかりにご託宣を垂れていることは言うまでもない。挙句の果てにコミュノートで指摘されちゃうという、実にカッチョ悪い結果が待っている。真の好奇心を持っている人はその手の陥穽にはそうやすやすとはまらないのであり、知識人とは真の好奇心を持つ人のことだと思っている。自称知識人が跳梁跋扈する現代は、古代ギリシャの頃から何も変わっていないように思えちゃうよね。「現代人もソクラテスの基本に立ち返ったほうがよかんべさ」と思ったから、本論にそれほど関係がないにもかかわらず長々と引用したというわけ。

 

「第3章 意味の秩序を現出させる――想像力と言語ゲーム」は、個人的に非常に重要だと思われたので少し詳しく紹介しましょう。前章では「プラトンの『クリトン』を読み解きつつ、道徳的思考において想像力が重要な働きを示している例を見た(78頁)」わけだけど、この章では「道徳的観点から想像力を働かすことに関わる「想像」に焦点を絞って、そのあり方を考えてみること(78頁)」が意図されている。まず著者は、道徳に限らず一般的な想像作用について取り上げ、それがいかなるメカニズムなのかを論じている。次のようにある。「我々は想像する際に様々な想定を伴いつつ、ある状況を思い描いている。それは、状況をシミュレートすることだと言ってもよい(cf. Barsalou 1999)。()このように想像力を一種のシミュレーション能力として捉えると、()空想上のケースだけでなく、現実の状況把握においてもこの能力が働いていると考えることができる(80〜1頁)」。ちなみにもうすぐ刊行されるわが訳書、マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』には、このようなシミュレーション能力は、意図的行為主体たる太古の哺乳類に進化したとある。次のように書かれている。「哺乳類の行動は目標指向的であるばかりでなく意図的でもあり、その個体は、認知シミュレーションや{計画立案/プラニング}によって、自己のさまざまな行動を、それぞれの利点を比較することで、より柔軟に組織化し選択する能力を備えている。ブルナーによれば、意図的行為の肝は、個体が同一の目標を目指す複数の行動の候補を準備しておき、その目標の達成に向けてそれらの行動を必要に応じて試してみることができる点にある(同書84頁)」。つまりシミュレーション能力は、進化の過程で獲得された一つのメカニズムであり、その目的は生存や繁栄にあることになる。想像力はまさに、生存や繁栄のために、自分が置かれている文脈を把握するための能力として進化したのであり、「空想上のケースだけでなく、現実の状況把握においてもこの能力が働いていると考えることができる」のですね。

 

新書本の著者は次に、「想像力を一種のシミュレーション能力として把握したところで、道徳的思考と想像力の関係について、さらに考えていこう(82頁)」と前置きしたうえで、アメリカの哲学者マーク・ジョンソンの説を取り上げる。ちなみにここで著者が参照しているジョンソンの著書は『Morality for Humans』(Chicago, 2014)のようだけど、私めはこの本を読んでいない。ただそれ以前に刊行された『The Meaning of the Body』(Chicago, 2007)は二度読んだことがあり、しかも二回目は奇しくも先月読んだ。いわゆる「身体化」を主題とした本で思考の基盤を感覚運動系に求めている。たとえば彼の考え方は次のような主張によく現れている。「私たちのほとんどは、思考の方向性や関係性に関して感情が持つ些細で微妙な役割に着目しようとはしないため、それが論理において果たしている重要な役割を否定しようとする。しかし、ひとたび(デューイやジェイムズが指摘するように)論理が人間の探究に基づくことを認め、思考するあいだいかに感じているかに注意を払うようになれば、思考を支え、その一部をなしている感情という埋没した大陸の存在に気づくはずだ。(…)理性的推論(reasoning)は知性的な動物が持つ手段であるが、私たちが住まう、問題に満ちた世界において多かれ少なかれうまく生きていくことを可能にする身体化された理解を追求するに際して、状況の意味を考え抜くために用いられるものなのである(同書97頁)」。この新書本の章で取り上げられているジョンソンの見解は、「身体化」というより「感情」「理性」「想像力」に関するものだけど、のちにダマシオのソマティックマーカー仮説が取り上げられていることからもわかるように「身体化」も大いに関係していると見ることができる。次にそれらを一つずつ取り上げていきましょう。

 

「感情」については次のようにある。「感情は直観的判断において大きな役割を果たす(82頁)」。ここでメルシエ&スペルベルは「合理的思考は直観的推論の一形態」と考えていることを思い出されたい。ジョンソンとメルシエ&スペルベルの考えを合体させると、「感情は合理的推論において大きな役割を果たす」という命題を導けるように思える。それを念頭に置くと、感情と思考が複雑な相互作用を持つことを示唆する次の記述もより理解しやすくなるはず。「怒りや悲しみ、あるいは恐怖のような感情は、自身の身体状況をモニタリングすることで、外的な環境世界の評価を行っている(…)。そして、人間が複雑な社会的、文化的な環境世界に住まうようになったことで、感情はヘビの危険のような単純な生存に関わる価値だけでなく、社会的、文化的価値にも反応するようになる(Damasio 2003, chap.4)。例えば、上司の暴言に怒りを感じるとき、私はその言語的、文化的意味を認識し、その不当さを感じ取っている。ヘビの出現による身体的な危険といった生物としての人間のあり方に関わる価値だけでなく、道徳的価値を含む、社会的、文化的価値にも我々の感情は反応するようになったのである(82〜3頁)」。この記述に関してわが訳書との関連で二点コメントしておく。一つはジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか』では、ダン・スペルベルら(『The Enigma of Reason』ではない)に参照して、「ヘビの危険のような単純な生存に関わる価値」を「オリジナル・トリガー」と、また「社会的、文化的価値」などの派生的なトリガーを「カレント・トリガー」と呼んで区分けされており、さらに次のように述べられている点。「文化間で道徳が変化する理由の一つは、どんなモジュールでも文化によってカレント・トリガーの対象となる範囲が変わるからだ。(…)モジュールの設計やオリジナル・トリガーの変化には何世代もの遺伝的な進化が必要な一方、カレント・トリガーは、(…)たった一世代でも変化し得る(同書204〜5頁)」。「モジュール」とはハイト氏が進化心理学のモジュール理論を取り入れているがゆえの用語だけど、ここでは機能単位くらいに理解しておけばよいのかも。彼の道徳基盤理論の生物学的な前提の一つにはこのモジュールの考え方があり、「オリジナル・トリガー」は遺伝的な側面が、また「カレント・トリガー」は文化的な側面が強いと考えればいいのでしょう。もう一つはリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』で提起されている、「概念」を介して情動が形成されるとする見方は、まさに感情が社会的、文化的価値にも反応するメカニズムを説明していると見なせる点。ちなみに「情動」と「感情」の違いについてここで説明することはしない。バレット流に言えば上の文章の「感情」は「情動」に相当すると思うけど、バレットは「情動(emotion)」や「感情(feeling)」という用語を一般的な定義とはやや異なる意味でとらえているとだけ言っておきましょう(その点は本人にもメールで確認した)。感情については「第5章 感情を信頼する」でも取り上げられているので、ここではこのくらいに留めておく。

 

次は「理性」だけど、「ここでの理性とは、大雑把に言うと、(…)判断の理由づけやその吟味に関わる能力である。我々は状況に直観的、感情的に反応するだけでなく、自分の判断の理由を与え、その整合性を吟味することができる(83頁)」とある。メルシエ&スペルベルは、前述のとおり「合理的思考は直観的推論の一形態」と考えているけど、だからと言って直観だけで済ませられると主張しているわけではない。理性が必要になる理由の一つは、これまた前述したように「進化的に特定の環境に適応するために獲得された直観的な能力は、適応時とは異なる環境に置かれた場合バックファイアーする怖れがある」から。それを正すのが理性の仕事だということになる。他の本を取り上げたときに何度も述べているように、バックファイアーを誘発する大きな要因の一つは「イデオロギー」だと言える。「イデオロギー」はおおむね近代になってから誕生したもので、したがって進化によって獲得された直観的な能力ではそれに対処することがきわめて困難であり、そこに理性の行使の必要性が生じる。だから私めは、イデオロギーに絡み取られる危険性や、事実よりイデオロギーを重視する昨今のマスメディアの姿勢の問題をさんざんあげつらっているわけ。コミュノートのような仕組みは、そのようなイデオロギーの欺瞞を暴露する装置としてもっと早くから実装されるべきだったし、今のマスメディアに対してもコミュノートと同等な仕組みを設けるべきだと思っている。

 

三つ目の「想像力」について。想像力とは状況を思い描く、あるいはシミュレートする能力として第2章で定義されていたわけだけど、さらに次のようにある。「想像力の重要性を強調することは、理性の働きを軽視することではない。(…){論証/傍点}を機能させるものである。そして論証とは判断の理由を与えることであり、その適切さや整合性を問題にすることができる。(…)もしも論証というものが、まったく抽象的で、現実世界と切り離されたところで行われているのであれば、それは想像力とは無関係でありうるかもしれない。しかし、道徳的思考、そしてその要素としての論証は、我々がこの世界で行うことである。したがって、そこに登場する概念も抽象的な形ではなく、何らかの具体的な状況と結びつくことで、その意味内容を与えられる必要がある。想像力を通してそのような状況を描くことで、我々は論証に対して明確な概念を供給し、論証を機能させることができるのである(85頁)」。この記述には100%同意する。ただここで「道徳」と「倫理」の違いについて個人的な見解を述べておきたい。この本を通じて著者は「道徳」と「倫理」を明確に分けていないように思える(もちろん一般向けの新書本なのでその点は特に問題にならないけど)。ただそれらを明確に分けて考える人もいる(あるいはおそらく著者も分けてはいるんだろうけど、新書本なのであえて分けなかったのかもしれない。そのことは「情動」と「感情」についても言える)。個人的には「道徳」とは普遍的な原理を指し、「倫理」はその普遍的な「道徳」をいかに個別のケースに当てはめるかを考えることを指すと思っている。神学で言えば「道徳」は教義、「倫理」は「決議論(casuistry)」に当たると思う。あるいは「倫理」は「道徳」の日常生活へのインプリメンテーションであるとも言えるのかも。だからそう考えている私めには、ここで述べられるていることは「道徳」というより「倫理」に近いように思える。

 

第3章の後半は副題に「言語ゲーム」とあるように、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論を用いて道徳的思考が説明されている。ちなみにカバー裏の著者紹介欄を見ると、ウィトゲンシュタイン関連の本が数冊あがっているので、どうやら著者はウィトゲンシュタインの専門家らしい。とはいえここでは、一か所だけ引用するに留めておく。次のようにある。「道徳的観点から熟慮する際、我々は「善悪」「平等」「正義」、そして「同意」や「尊敬」といった概念を用いて思考する。ウィトゲンシュタインの議論が示しているのは、概念はその概念を使用する状況、すなわち言語ゲームおよびその背景となる生活の下で意味を持つ、ということである。したがって、道徳的思考を構成する概念も特定の言語ゲームと生活の形の下でのみ明確な意味を持つのである(98頁)」。「道徳的思考を構成する概念も特定の言語ゲームと生活の形の下でのみ明確な意味を持つ」という最後のくだりは、先の「道徳」と「倫理」の区別からすると、「道徳は、特定の言語ゲームと生活の下で「倫理」としてインプリメンテーションされることでのみ明確な意味を持つ」と読めそう。「第4章 動物たちの叫びに応答する」では、「想像力に訴える道徳的思考の現代的な事例(136頁)」があげられているけど、具体例なのでここでは省略する。

 

「第5章 感情を信頼する――道徳的思考と感情」では再び道徳的思考における感情の役割が取り上げられている。この章では、まず現代の哲学者の多くが感情の役割を低く見積もっていると述べたうえで、それとは正反対の見解を取り上げている。その一人はマーサ・ヌスバウムで次のようにある。「アメリカの哲学者マーサ・ヌスバウム(一九四七−)は感情が論証による保証なしに、それだけで客観的な理由を提供するものとして道徳的なガイドとなりうると論じる。ヌスバウムによると、複雑な状況では、道徳的観点から見て重要な事柄を「論証」という形で表現できる保証はない(144頁)」。ヌスバウムの本は個人的には大著『Upheavals of Thought: The Intelligence of Emotions』(Cambridge, 2001)を二度読んだことがあるだけ。このヌスバウムの主張に対しては、「ヌスバウムのように感情自体に理由としての力、すなわち、主張を正当化する力を認めると、明らかに不当な感情にも正当性を認めざるを得なくなり問題である(145頁)」という反論が主流の哲学者から出るだろうとある。たとえば怒りにも正当な怒りと不当な怒りがあり、その区別は理性によって判別するしかないのではということなんだろうと思う。個人的には、先にあげたヌスバウムの本の副題が「The Intelligence of Emotions(情動の知性)」となっていることもあり、ここで言われている「感情」を、たとえばバレットが主張するような「概念」の介在を得て形成される「情動」としてとらえれば様相は一変するような気もするけど、ヌスバウムのこの大著の内容はうろ覚えなので、いつかもう一度読んでから考えることにする。

 

いずれにせよここで新書本の著者が取り上げているのは、アントニオ・ダマシオのソマティックマーカー仮説であり、次のようにある。「重要なのは、そのような身体反応の感覚としての感情は意思決定におけるシナリオやサブシナリオのコストと利益の計算を始める前に、いわば直観的に感じられる(153頁)」。ここでメルシエ&スペルベルは、「合理的思考は直観的推論の一形態」と見なしていることを思い出されたい。新書本の著者はさらに次のように続ける。「ソマティックマーカー仮説によると、(…)感情は理性的吟味の際の選択肢を絞り込み、また特定の選択肢を際立たせることで、少数の選択肢のみを理性的吟味のために用意する、という役割を持つのである。(…)ここから言えるのは、感情は道徳的思考において重要な役割を果たしているということである。我々は感情なしに[は]様々な選択肢や状況について理性的吟味を開始することすらできない。合理的探究としての道徳的思考に感情は欠かせないのである(153〜4頁)」。ところで私めは、ダマシオの現時点での最新刊『進化の意外な順序』を訳しているのでそれについて簡単に触れておきましょう。この本ではソマティックマーカー仮説には直接的には言及されていないけど、感情に関しては次のように述べられている。「感情とはホメオスタシスの心的な表現であり、感情の庇護のもとで作用するホメオスタシスは、初期の生物を、身体と神経系の並外れた協調関係へと導く機能的な糸と見なすことができる。この協調関係は意識の出現をもたらし、かくして生まれた感じる心は、人間性のもっとも顕著な現われである文化や文明をもたらした(同書15頁)」。道徳や道徳的思考については特に言及されていないけど、この文章からすると理性というより感情があってこそ文化や文明の誕生が可能になったことがわかる。

 

新書本に戻ると著者は次のような但し書きを加えている。「感情に理由としての力、すなわち判断を正当化する力を認めることは、感情が誤ることなく正しい判断へと導くと考えることではない。感情に正当化の力を認めるとしても、我々は感情がときに誤った判断へと導くということを認めることができる(155頁)」。これはバレットの情動理論の「概念」と「インスタンス」という概念を考えてみればわかりやすくなるかも。IT業界に在籍しオブジェクト指向プログラミングに詳しい人なら「概念」は「クラス」と、「インスタンス」はそのまま「インスタンス」と置き換えればわかりやすくなるかもしれない。この手のアナロジーを多用するのは誤解のもとになるかもだけど、オブジェクト指向プログラミングでは、同じ一つのクラスから複数のインスタンスを生成(インスタンシエート)することができる。そしてメインタスクがあるクラスをインスタンシエートする際、コンストラクターと呼ばれるメソッド(関数)が一度だけ呼び出される。コンストラクターはそのインスタンスの初期状態を設定するために呼ばれるのであって、その際通常はメインタスクからパラメーター(引数)を受け取る。つまり同一のクラスであっても、メインタスクがそのクラスのインスタンスをインスタンシエートした際の文脈によって、インスタンスの内容は変わりうるのですね(これはコンスタラクター以外の何度でも呼び出せるメソッドに関しても事情は同じ)。つまりクラスが同じであっても、そのクラスから派生したインスタンスの振る舞いは異なりうることになる。だから文脈によっては、そのインスタンスは妥当な機能を果たさない、つまりプログラマーが当初意図していた動きとは異なる動きを呈する可能性もある。ただしたいていはパラメーターを受け取る際に、それが適正な範囲に入っているか否かをチェックするパラメーターチェック処理が走り、問題があれば呼び出し元にエラーが戻されるわけだけどね(『人は簡単には騙されない』でメルシエ氏が提唱する「開かれた警戒メカニズム」はそれに似たチェック機能とも見なせるが、人間がプログラミングしたチェック機能ほど厳密でないことは言うまでもない)。とはいえオブジェクト指向プログラミングでは、当然ながらプログラマーがクラス(ソースファイル)に手を加えない限り、クラス自体が変わることはない。それに対してバレットの言う「概念」は、その基盤をなすのが脳の配線であり、脳には可塑性があるので脳の配線それ自体、ひいては「概念」そのものの内容も変わりうる。たとえば文化、慣習、教育、イデオロギーなどにさらされることで「概念」そのものが形成され、ときには歪曲されることもある。このように情動はインスタンスレベルとクラスレベルという二つのレベルで振る舞いが変わりうるのですね。だから情動(感情)は「ときに誤った判断に導く」こともある。

 

さて著者は次に『ハックルベリー・フィンの冒険』を例にあげて、「感情は単に選択肢の発見だけでなく、その正当化にも寄与しうる(156頁)」ことを例証しようとしている。たいていの人はこの小説を読んでいるだろうから(私めは読んだことがありましぇん。すんまへん)、ここでは要点だけ述べる。著者はこの小説を「ジムを逃がす」ことと「ジムの主人たるミス・ワトソンに重大な損害を与えるべきではない」という考えのあいだで生じる心の葛藤の物語としてとらえ、この葛藤が同情心によって解決されているとする。しかしこれら二つの同情心のうち前者を正当、後者を不当であると見なす根拠として、前者の同情心の純粋さをあげているのは、いくらパッチワークにせよ、いかにも論証として弱いように思えてしまった(まあ私めの読み方が悪いのかもだけど)。少なくともこの例に限って言えば、私めなら三段階にわけて考える。第一段階は同情心(sympathy)ではなく共感(empathy)の問題としてとらえる。そして共感には「情動的共感(ただしこの本の文脈では感情的共感のほうがふさわしいのでそう呼ぶ)」と「認知的共感」があると考える。感情的共感とは相手が覚えている感情と同じ感情を覚えることを、また認知的共感とは相手の立場に立ってものごとを考えることをいう。そしてここでは、そのうちの認知的共感が問題となっていると考える。ちなみに情動的共感と認知的共感についてはわが訳書、ポール・ブルーム著『反共感論』を参照されたい。なおタイトルだけ見て誤解されるとまずいので、ブルームは共感すべてではなく、情動的共感に基づいて政策決定を下すことのみを否定しているという点をつけ加えておく。

 

しかし認知的共感の問題と考えるだけではまだ不十分だと言える。なぜなら、なぜミス・ワトソンではなくジムの立場に立ってそのときの状況や文脈について考えるべきかはそれだけでは判然とせず、結局理性による論証によって決定するしかないという結論に至らざるを得ないから。そこで第三段階が必要になる。それはメルシエ&スペルベルによる「合理的思考は直観的推論の一形態」という考えを取り込み、合理的思考たる認知的共感を直観的推論の一形態ととらえること。前述したように「進化的に特定の環境に適応するために獲得された直観的な能力は、適応時とは異なる環境に置かれた場合バックファイアーする怖れがある」。だから「ジムの主人たるミス・ワトソンに重大な損害を与えるべきではない」という立場は、まさにこのバックファイアーした典型例としてとらえることができる。なぜなら、進化的に言えばせいぜい古代から実践されるようになったばかりにすぎない一種のイデオロギーたる奴隷制は、進化的に特定の環境に適応するために獲得された直観的な能力には対処し切れるものではないから。ところが「ジムを逃がす」という立場は、一種の仲間/共同体意識、言い換えるとトマセロが『行為主体性の進化』で言うところの社会規範的行為主体性として進化の過程を通じて得られたものなので、生存、繁栄という文脈における妥当性が高く、しかも完全に生得的なものであるがゆえに、「ジムの主人たるミス・ワトソンに重大な損害を与えるべきではない」という、当時の米南部の文化や慣習の影響を受けて後天的に獲得された立場よりはるかに強力なのですね。前述のハイト(スペルベル)氏の用語を使えば、前者は「オリジナル・トリガー」で後者は「カレント・トリガー」と言えるのかも。著者の言う「純粋性」もつまるところそういうことなのかなと思ったりもする。まとめとして個人的な見解を言えば、道徳に関する問題も、このような文化的進化を含めた進化科学の知見を応用したほうがよりすっきりするように思える。

 

最後の「第6章 多様なスタイルで思考する」は、何やら槇原敬之という私めのまったく知らない歌手?を例にとって道徳的思考について考察している。そもそもこの人物をまったく知らない私めは、ほとんど関心が持てなかった(私めはヘタレブケダンのくせに歌詞を含めた詩を理解する能力が限りなくゼロに近く、訳書に詩が出てきて対応する既存の和訳がないといつも七転八倒している始末)。それと全体的にちょっと独り相撲を取っているような印象を受けた。細かくは書かないけど、たとえば自分の考えに対する反論を予想してその反論に対する反論を提起しているんだけど、もとの反論自体、よほど偏屈な人でなければそんな反論はしないのでは?と思える箇所があった。一例をあげると「ポピュラー音楽のメッセージが歌詞のみによって担われていると考えるのは間違いである(200頁)」とある。でも、そんなことを考えている人は、一般人にはほとんどいないのでは? だってたとえば、ラブソングを葬送行進曲の曲調で歌われたら普通は変に思うでしょう。なぜなら普通の人は、歌詞にも、メロディーを含めた曲調にも、メッセージが含まれていることを直観的に理解していて、それらが一致しないからこそ変に思うのだから。ポピュラー音楽ではないけど、ベートーヴェンの「田園交響曲」の内容が「運命交響曲」だったらおそらく誰でも奇妙に思うでしょうね(あるいは、たとえば「「じゃじゃじゃじゃ〜〜ん」という冒頭の有名なパッセージは牧歌的な田園地帯が嵐に襲われる様子を表現しているのだ」などと、標題が伝えるメッセージと音楽内容によるメッセージを無理やり一致させようとするかもしれないけど)。だから逆にわざとそれらを一致させないで、映画で言えばゾンビ映画などのブラックコメディーのような不協和的な効果を演出しようとすることも可能になる。それが可能なのも、まさに「歌詞によるメッセージと曲調によるメッセージはおおむね一致すべき」とする一般的な通念が先にあるから。もちろんそれはもとの著者の見解を否定するものではなくむしろ肯定することになるわけだけど、ただ記述が我田引水的に強引過ぎる、もっと言えば藁人形論法っぽいという印象を受けたというだけの話だけどね。ということでこの章に関してはそれだけ指摘するに留めておく。ということで全体的には非常にお勧めの道徳に関する本だと言える。

 

 

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※2023年11月1日