物資統制令下で軟式ボールの製造が制限されると、製造を許された数少ないボールを如何にして全国に配分するかという問題が必然的に生じることになりました。このため、神戸の日本軟式野球協会、大阪の日本軟式野球連盟、東京の日本軟式野球連盟、川崎の極東軟式野球連盟の四団体が名古屋にて会合を開き、軟式野球団体を一つにまとめて全国的に統一した団体とすることが決まりました。
1939年(昭和14年)、東京で発起人会が開かれ、日本軟式野球綜合協会が誕生しました。この時、東京の大日本軟式野球協会は参加していませんでしたが、後に綜合協会に統合されることになります。 このようにして、数少ない軟式ボールを日本全国に公平に分配するしくみができあがりました。このしくみは国が作ったものではなく、軟式野球を愛する人たちの主導でできあがったものです。 日本軟式野球綜合協会は、結成したその年の11月、第1回の全国大会を東京・神宮球場で開催しました。全国16地区の代表が集まり、決勝戦は阪神地区代表の神戸合同運送と近畿地区代表の京都市役所との間で行なわれ、3−1で神戸合同運送が優勝しました。なお、この時は7回戦ではなく9回戦で行なわれています。 第1回大会の参加チームは以下のチームでした。
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