「草野球の窓」

1938年
『軟式ボールの統一』
 1938年、ドイツはオーストリアを併合し、翌年にはポーランド侵略を機にイギリス・フランスに宣戦して、ついに第二次世界大戦が始まります。この頃日本では戦時体制強化のため、国家総動員法が施行されました。この法律に基づき、政府は議会の承認を得ることなく、国民徴用令、船員徴用令、賃金統制令、価格統制令などを次々と発令していきます。1938年(昭和13年)、物資統制令が発令されるに及んで、ついに軟式ボールの製造も制限されるようになりました。軟式ボールの原料である生ゴムが重要な戦時資材であったためです。ただし、全国の軍需工場の若者の間でも広く軟式野球が行なわれていたため、生産意欲の向上と体力向上を名目として、軟式ボールは「特免ゴム運道具」の指定を受け、少量ながら製造が認められました。

 しかし、この軟式ボールの製造制限は、思わぬ効果をもたらすことになりました。これまで各製造会社がそれぞれ独自のデザインで製造していた軟式ボールが統一されることになったのです。この時採用されたのが長瀬ゴム製作所(現・ナガセケンコー株式会社)の「健康ボール(写真参照)でした。この健康ボールは、表面に菊の花びらを思わせるギザギザがあり、そのデザインは「菊型」と呼ばれました。
 菊型健康ボールは長瀬ゴム製作所の創業者である故長瀬泰吉氏が考案したもので、デザインの他にも、耐久性を増すために二重構造になっているなどの特徴を持っていました。そしてこのボールはこの後、1950年(昭和25年)まで軟式ボールの標準として使用されることになります。


 2002年8月11日(日)にNHKで放送された「焼け跡のホームランボール」(原作:下駄の上の卵・井上ひさし著)には、菊型ボールの製造メーカーとして「長山ゴム製作所」が登場しますが、そのモデルは長瀬ゴム製作所であり、イッセ−尾形演じる社長は、故長瀬泰吉氏です。(原作では実名で登場。)



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