1938年(昭和13年)に制限されることになった軟式ボールの製造は、戦争の進捗につれてますます減少していきます。このとき、軟式ボールを作っていたメーカーは全部で17社ありましたが、1940年(昭和15年)6月、第一次企業整備で10社が廃業することになりました。
残った軟式ボールメーカーは、以下の7社でした。 しかし、上記各社はそれぞれ十分な原料生ゴムの割り当てがなかったため、長瀬ゴム製作所で「健康ボール」を共同製造するしかありませんでした。この頃の配給状況は、年に2回、1回に1チーム2〜3個に悪化しています。 第一次企業整備が行なわれた翌月、第2次近衛内閣が成立。そして同年10月には大政翼賛会が結成され、従来の政党はすべて解散させられました。労働組合もすべて解散され、労働者は大日本産業報国会の傘下におかれることとなりました。1941年4月、各地の体育協会などは、陸軍大将東条英機を総裁とする大日本体育報国会にまとめられ、日本軟式野球綜合協会もそこに吸収されることになりました。その半年後の10月、東条英機は首相となります。つまり、他の競技団体もそうですが、野球団体は一時期首相直轄の組織だったということになります。第2回まで日本軟式野球綜合協会が開催していた全国大会は、大日本体育報国会が主催となって第3回を開催する予定でしたが、これは日米開戦のため中止されました。 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃に始まった大平洋戦争は、当初日本が圧倒的な勝利を納めました。しかし、翌年6月のミッドウェー海戦の敗北から戦局は逆転することになります。
細々と軟式ボールを製造していたメーカー7社は、当局の指示により、1943年(昭和18年)3月、日本軟式野球ボール製造株式会社に統合されることになりました。しかし、戦況はさらに悪化し、同年10月、第二次企業整備が実施されるに及んで、工場が廃止に追い込まれ、ついに軟式ボールの製造は中止されることとなりました。 |
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