少年野球から火がついた軟式野球熱は、当然のようにそのまま青年層へも伝播していきました。当時、硬式野球も大学野球を中心に高い人気がありましたし、すでに1915年には、現在の高校野球の前身である全国中等学校野球大会(朝日新聞社主催)も開催されていました。野球専用の球場は当時数えるほどしかありませんでしたが、ほとんどは硬式野球に使われていました。 しかし、大学野球の場合は、大学生という“一部のエリート階級だけに許される娯楽”の域を脱しなかったようです。また中等学校野球は“教育の一部”として位置づけられていました。そのためホームプレートを挟んでの整列と挨拶、開会式の軍隊的行進など、教育行事としての様式が整えられていき、果ては1918年の米騒動の際に、「父母の苦しんでいるときは、子供も連帯して責任を負うべし」と、連帯責任という教育的視点から大会が中止されるまでに至りました。 しかし、軟式野球は誕生したときから、“庶民が楽しむ娯楽”としての性質を持っていました。ゴム製であるため、「安全」で「価格が安い」ということが余りにも庶民のニーズに合致したためでしょう。野球場の替わりに校庭や広場を使って野球を楽しんだのです。「草野球」という名称はこのような軟式野球の発展の背景を反映していることは間違いありません。
大正11年(1922年)には、青年用の軟式ボールが相次いで発売されました。最もメジャーだったものが、最初に軟式ボールを開発した神戸の東神ゴム工業の「学校ボール特号」でした。その他、高等小学校用として「学校ボール1号」なども発売されていました。 大正時代の文化の特徴は、「文化の大衆化」にあると言われます。新聞や月刊誌・週刊誌などが出現し、1925年にはラジオ放送も開始されました。このような、いわゆる“マスコミ”の発達は、この時期のスポーツの発展に大きく寄与しました。軟式野球もこのような時代背景の中で発展していったのです。 |
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