1919年(大正8年)に京都に産声を上げた軟式野球は、翌1920年(大正9年)には早くも全国大会を開催することになります。大会に先立って、それを主催し、今後の少年野球の指導と統轄を目的とする「大日本少年野球協会」が結成されました。事務所は神戸市の関西学院内に置かれたと記述されています。 全国大会は、1920年8月に「全国少年野球優勝大会」として兵庫県鳴尾運動場で開催されました。大会は年齢別になっており、高等小学校・中学校1、2年生対象のA組と、小学校児童対象のB組で、参加数はそれぞれ13校でした。第1回はAB両組とも岡山県の学校が優勝しています。 大日本少年野球協会は、その後財団法人となり、昭和6年までに計12回の大会を主催しましたが、その間、全国のみならず、当時の台湾・朝鮮・満州・樺太・上海にまで支部を持つ組織に成長しました。この時の大日本少年野球協会の事業は、
(1)少年野球規則の制定および改正 以上でした。また、目的として以下のことが謳われていました。 「国民精神の作興は、国民の健全なる身体に基づく、健全な精神を作らんがために、体育の向上を期し、少年時代よりこれを好ましむる気風を養うにある」
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