「草野球の窓」

1918年
『ゴム製野球ボールの誕生』
 ゴム製野球ボール、つまり軟式野球ボール(通称:軟球)は、当時の野球を楽しむ少年達に要望されるものでありました。

 この頃には、すでに野球は「子供の野球ごっこ」から本格的な「少年野球」に進歩しつつありました。そしてその最初の舞台となったのは「京都」でした。

 1916年(大正5年)、京都市の小学校の先生たちを中心に「京都少年野球研究会」が結成され、ゴム製野球ボールの研究開発と、それを用いたルール制定に取り組むことになりました。ルールについては、翌1917年に「児童適用ゴムマリベースボール」という名称のルールブックが完成しました。これは軟式野球界初のルールブックで、つまりそれは世界初の軟式野球ルールブックということに他なりません。

 しかし、ルールブックの名称からわかるように、当時はまだ「軟式野球」という言葉は用いられていませんでした。軟式野球という名称が正式に制定されたのは、1928年(昭和3年)になってからでした。

 さて、ルールブックは完成したものの、肝心のボールはまだ完成していませんでした。ボール開発のポイントは、
 (1)直径
 (2)硬さ
 (3)表面の滑り止め

 の3点だったようです。(1)直径については、紙を丸めて子供たちに実際に握らせ、適当な直径を決めていきました。(2)硬さについては、ズック靴を切ってゴムの厚さと硬さの関係からボールのゴム厚を決定したようです。(3)表面の滑り止めは、研究会の一員であった文具商の鈴鹿 栄が自転車のステップに用いられていたゴムの凹凸にヒントを得たのが基となっていると言われています。

 このように当時でいう“ゴムマリ”の設計が完了し、これを神戸市の東神ゴム工業株式会社に製造を依頼することになりました。試作ボール第1号が完成したのは1918年の夏で、その後、京都市内の小学校でテストを繰り返し、ようやく最終品が完成しました。京都少年野球研究会はこのボールを使用して最初の野球大会を翌1919年7月に開催します。場所は、京都市第二高等小学校(現市立成徳中)の校庭でした。ここに今の軟式野球の発祥を見ることができます。

 鈴鹿 栄という人は、当時の京都文房具商業組合の組合長をしていた人で、試作ボールが完成する1918年には東神ゴム工業株式会社の役員となり、京都少年野球研究会の理事にも就任しています。その後、京都における少年野球大会の開催とともに、全国大会実現に向けて多大な私財を投じ、“ゴムマリベースボール”の普及発展に尽力しました。

 2003年1月10日、その功績が認められて鈴鹿 栄の野球殿堂入りが決定しました。軟式野球界からの初めての殿堂入りです。殿堂入りの理由としてこのような解説がなされています。
 「軟式野球は我が国で最大の人口をもつスポーツであり、また、若年層の野球人口開発に不可欠である。このような点で、我が国における野球の発展に対する鈴鹿栄の功績は大きい。財団法人野球博物館HPより抜粋)


鈴鹿 栄(1888〜1959)
 当時の日本はいわゆる「大正デモクラシー」の波に乗って、1918年に原敬内閣が誕生し、立憲政友会でほとんどの大臣を構成する初めての本格的政党内閣が確立した時代でした。また、ヨーロッパでの第一次大戦を受け、未曾有の大戦景気を迎え、債務国から債権国に転じた時代でもありました。しかし、この好景気のために物価が高騰し、特に米価は暴騰したため、全国各地で庶民が米屋を襲撃する「米騒動」が起こった時代でもありました。


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