主に学生を中心にして行われるようになった「野球」は、やがて用具や用語も整っていき、学校どおしの対校試合なども活発になっていきました。一高や早稲田、慶応などの対抗戦がそれで、まだまだ一部の学生のスポーツに過ぎませんでした。しかし、これが全国の少年達を刺激することになります。みようみまねの野球のまねごとが街の空き地や原っぱで始まりました。およそ明治の終わり頃(1910年頃)からと言われています。「三角ベース」や「折り返しベース」などは、この頃の野球少年達の“発明”といってもいいでしょう。
しかし、まだこの頃は野球用具などを持てる時代ではなかったので、少年達はおもちゃのボールを素手で扱っていました。バットは木を削った手製のものでした。 この頃は日本の子供達をめぐる環境が大きく変わった時でもあります。1886年に学校令が発令され、小学校の4ヶ年義務教育制度が確立して以来、年々就学率は上昇し続け、1907年に義務教育6ヶ年制に移行する頃には、95%程度に達しました。“学校”という場が、当時の野球人気の媒体となったとみることができるかもしれません。 大正時代に入ると、さらに野球熱は高まっていきます。この頃には、ボールもおもちゃのボールから、軟式テニスボールやスポンジボールなどが使われるようになっていました。特にスポンジボールは重さや硬さが適度にあり、変化球が投げられたので、子供達に非常に評判がよく、またたく間に普及しました。
しかし、当時のスポンジボールには耐久性が悪いという欠点がありました。1試合もてば上出来というレベルだったのです。また、当然ながら打球に伸びがなく、かつ、バウンドが高く、イレギュラーしやすいという欠点もありました。 |
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