第2部:資本の流通過程
第1篇:資本の諸変態とそれらの循環
第1章:貨幣資本の循環

第3節
第三段階、W'−G'



商品は、すでに価値増殖された資本価値の、直接に生産過程そのものから生じた機能的定在形態として、商品資本となる。商品生産がその全社会的範囲において資本主義的に営まれるならば、すべての商品は、……はじめから商品資本の要素であろう。[43]

資本は、その商品形態においては商品機能を果たさなければならない。資本を構成する諸物品は、はじめから市場のために生産されるもので、販売され、貨幣に転化され、したがってW−Gという運動を経過しなければならない。[43]

G−Wでは、前貸された貨幣が貨幣資本として機能する。なぜなら、それが流通の媒介によって独自な使用価値をもつ諸商品に転換されるからである。W−Gでは、商品が資本として機能しうるのは、その流通が始まるまえに、この資本的性格を既成のものとして生産過程からもち込んでくる限りでのことでしかない。[44]

WをW'にするもの

生産過程を経て流通過程に登場する商品W。この商品は、第一段階で購買された商品Wとは、使用価値も商品の形状もことなる商品であり、その価値は、生産資本P、プラス、生産資本によって生み出された剰余価値Mに等しい。

生産資本は、それが機能するあいだに、それ自身の構成諸部分を消費して、それらをより価値の高い生産物総量に転換する。労働力は生産資本の諸器官の一つとして作用するにすぎないから、労働力の剰余労働によって生み出される、生産物価値のうちその形成諸要素の価値を超える超過分もまた、資本の果実である。労働力の剰余労働は資本の無償労働であり、それゆえ資本家のために剰余価値――彼にとってなんらの等価物も費やさせない価値――を形成する。[43]

マルクスの例では、商品生産物として登場するのは1万ポンド(このポンドは重量の単位)の綿糸。仮に、この綿糸を生産するのに要した生産諸手段と労働力の価値がそれぞれ372ポンド・スターリング(このポンド・スターリングは価格の単位)、50ポンド・スターリングとする。紡績過程で精紡工たちの労働によって128ポンド・スターリングの新たな価値が生みだされたと仮定すれば、1万ポンドの綿糸の価値は500ポンド・スターリング。

ここで、精紡工たちが産出した新価値128ポンド・スターリングのうち、50ポンド・スターリングは資本家が労賃の対価として支出した価値と等価であり、78ポンド・スターリングが剰余価値である。

したがって、1万ポンドの綿糸商品にふくまれる価値を分析すると、

500ps(1万ポンドの綿糸)=372ps(生産手段)+50ps(労賃)+78ps(剰余価値)

綿糸商品Wに含まれている「綿糸商品価値の構成部分」(生産資本Pの価値と生産過程で新たに付加された剰余価値)を、「綿糸商品の比率部分」で表現してみると……。

1万ポンドの糸の価値は、……消費された生産資本Pの価値を含んでおり、……その合計は422ポンド・スターリングで、8440ポンドの糸に相当する。……この糸の価値は、1560ポンドの糸に相当する78ポンド・スターリングの剰余価値を含む。[44]

すなわち、

生産資本P価値をふくむ綿糸+剰余価値Mをふくむ綿糸=8440ポンドの綿糸+1560ポンドの綿糸

1万ポンドの糸の価値表現としてのWは、W+ΔW、すなわち、WプラスWの増分(78ポンド・スターリング)に等しい。この増分は、原価値Wがいまとっているのと同じ商品形態で実存するのであるから、これをwと呼ぶことにしよう。したがって、1万ポンドの糸の価値=500ポンド・スターリングはW+w=W'である。[44]

WをW'にするものは、W'の価値の相対的大きさ、W'の生産に消費された資本Pの価値に比べてのW'の価値の大きさである。[44]

1万ポンドの糸は、……自己の資本で糸を生産した資本家にとってのみ、商品資本W'である。価値の担い手としての1万ポンドの糸を商品資本にするものは、いわば内的関係だけであって、決して外的関係ではない。……この1万ポンドの糸が500ポンド・スターリングというその価値どおりに販売されるならば、この流通行為は、それ自体として考察すれば、W−Gであり、ある不変な価値の商品形態から貨幣形態への単なる転化である。しかし、一つの個別資本の循環のなかの特殊な段階としては、この同じ行為が、商品によって担われた資本価値422ポンド・スターリング、プラス、商品によって担われた剰余価値78ポンド・スターリング、の実現であり、したがって、W'−G'であり、商品形態から貨幣形態への商品資本の転化である。[45]

資本の流通局面、販売W−G。その「迅速さ」と「資本の作用度」

一般的商品流通の世界でも、販売という局面は“命がけの飛躍”だ(第1部第3章「貨幣または商品流通」第2節「流通手段」)。

いまや価値増殖された資本が商品資本の形態にとどまり続け、市場に滞留する限り、生産過程は停止する。この資本は、生産物形成者としても価値形成者としても作用しない。[45]

資本がその商品形態を脱ぎ捨ててその貨幣形態をとる速度の相違に応じて、すなわち、販売の迅速さに応じて、同じ資本価値が生産物形成者および価値形成者として役立つ程度はおおいに異なり、再生産の規模は拡大または縮小されるであろう。[45-6]

第1部「第22章 剰余価値の資本への転化」では、とくに「第4節 剰余価値の資本と収入とへの比例的分割から独立して蓄積の規模を規定する諸事情――労働力の搾取度、労働の生産力、充用される資本と消費される資本との差額の増大、前貸資本の大きさ」のなかで、蓄積元本が不変な場合でも、生産過程における労働強化や生産力の増大などの条件変化が、蓄積の大きさを変動させうる、ということが指摘されていた。

第3節のこの箇所では、資本の流通局面、「販売」の「迅速さ」が、資本の蓄積の大きさを変動させうる、ということが指摘されている。

商品W'は、その総量すべてが貨幣G'への変態をとげなければならない。つまり、すべてを売り切ってしまわなければ、あるいは、すべての商品総量の買い手を見つけなければ、商品所有者である彼にとっての全剰余価値は実現されない。

500ポンド・スターリングの価値が1万ポンドの糸のなかに実存する。もし資本家が7440ポンドだけを372ポンド・スターリングというその価値で販売するのに成功するならば、彼は、彼の不変資本の価値、支出された生産諸手段の価値を補填したにすぎない。もし8440ポンドならば、前貸総資本の価値の大きさを補填したにすぎない。彼は、剰余価値を実現するためには、もっと多く販売しなければならないのであり、78ポンド・スターリング(=1560ポンドの糸)という全剰余価値を実現するためには、1万ポンドの糸を全部販売しなければならない。[46]

ここでもう一度、綿糸商品Wに含まれている「綿糸商品価値の構成部分」(生産資本Pの価値と生産過程で新たに付加された剰余価値)を、「綿糸商品の比率部分」で表現してみる。

W'=W+ΔW=W+w

すべての綿糸の販売に成功することがここでの前提だ。

この商品総量がその価値どおりに販売されるならば、Wは422ポンド・スターリングに等しく、wは、1560ポンドの糸という剰余生産物の価値である78ポンド・スターリングに等しい。貨幣で表現されたwをgと呼べば、W'―G'=(W+w)―(G+g)[46]

貨幣資本の総運動、その明細な形態

G―W…P…W'―G'という循環は、その明細な形態では、G―W<Pm,A…P…(W+w)―(G+g)である。[46]

彼〔資本家〕は価値Gを投げ入れ、そして等価値Wを持ち去った。彼はW+wを投げ入れ、そして等価値G+gを持ち去る。――Gはわれわれの例では8440ポンドの糸の価値に等しかった。ところが彼は、1万ポンドを市場に投げ込むのであり、したがって、彼は自分が市場から取ったよりも大きい価値を市場に与える。……彼がこの増大した価値を投げ入れたのは、彼が生産過程で剰余価値(剰余生産物で表わされた、生産物の可除部分としての)を労働力の搾取によって生産したからにほかならない。この過程の生産物としてのみ、商品総量は商品資本であり、増殖された資本価値の担い手である。[46-47]

W―Gとw―gとの違い

W'―G'の遂行によって、前貸資本価値も剰余価値も実現される。この両者の実現は、W'―G'で表現される総商品量の順次の販売あるいはまた一括販売で、同時に行なわれる。しかし、同じ流通過程W'―G'も、それが資本価値の場合と剰余価値の場合とでは、それぞれにとって両者の流通の異なる一段階を表現する限りにおいて、すなわち両者が流通の内部で経過すべき変態系列のなかの異なる一部分を表現する限りにおいて違いがある。[47]

マルクスがここで指摘している「違い」とは何か。

剰余価値は生産過程のなかで生み出され、W'の一部分として商品市場に商品形態で現われる。剰余価値にとっては、商品形態が最初の流通形態である。すなわち、剰余価値の最初の流通であり最初の変態はw―gである。

これに対して、資本価値の場合は、その最初の流通は貨幣資本として開始される。すなわち、G―W。そして、W―Gという流通によって同じ貨幣形態にもどる。

剰余価値にとっては、商品形態の貨幣形態への最初の転化であるものが、資本価値にとっては、その最初の貨幣形態への復帰または再転化である。[47]

剰余価値から切り離して考えた資本価値の流通過程の両局面だけを考察すれば、この資本価値は(1)G―Wと、(2)W―G――この場合第二のWは、第一のWとは使用形態は変わっているが、価値は同じである――とを経過する。すなわち、資本価値は、G―W―G――貨幣から商品への転化および商品から貨幣への転化という反対の方向での商品の二重の場所変換によって、貨幣として前貸しされた価値の貨幣形態への復帰すなわち前貸価値の貨幣への再転化を必然的に生じさせる流通形態――を経過するのである。[48]

貨幣で前貸しされた資本価値にとっては、第二の終結の変態であり貨幣形態への復帰であるこの同じ流通行為W'―G'が、商品資本によって同時に一緒に担われ商品資本の貨幣形態への転換によって同時に一緒に実現される剰余価値にとっては、第一の変態、商品形態から貨幣形態への転化、W―G、第一の流通局面である。[48]

G'。資本価値が貨幣形態に“復帰”しているということ―資本の没概念的表現

商品資本を構成する諸商品が、ここで前提されているように、その価値どおりに販売されるとすれば、W+wは同じ価値のG+gに転化される。このG+g(422ポンド・スターリング+78ポンド・スターリング=500ポンド・スターリング)という形態で、実現された商品資本がいまや資本家の手中に実存する。資本価値と剰余価値とは、いまや貨幣として、すなわち一般的等価形態で、現存する。

このように、過程の終わりには、資本価値は、ふたたび、それが過程にはいったときと同じ形態にあり、したがって、貨幣資本としてふたたび新たに過程を開始し、経過することができる。[48]

資本価値と剰余価値とが自立的形態として並存している

さきに原書ページ[47]の注(5)で、つぎのような指摘があった。

1万ポンドの糸には1560ポンド=78ポンド・スターリングの剰余価値が含まれているが、1ポンドの糸=1シリングにも同様に2.496オンス=1.872ペンスの剰余価値が含まれている。[47]

商品形態に内在しているこの資本価値と剰余価値とが貨幣形態を獲得することで、資本価値と剰余価値とはもはやこのように

糸のなかでのように互いに結合し合ってはいない。……その211/250は資本価値、422ポンド・スターリングであり、その39/250は78ポンド・スターリングの剰余価値である。[49]

Gとgとが自立的形態として実存・並存しているということは、資本の蓄積、資本の再生産過程において重要である。すなわち、

gがGに全部つけ加えられるか、一部分がつけ加えられるか、またはまったくつけ加えられないかに応じて、すなわちgが前貸資本価値の構成部分として機能し続けるかいなかに応じて[49]

資本の蓄積の度合いが変わってくる。

形式上の内実。概念的無区別性、没概念的区別

GとG'とでは、剰余価値Mの分だけ大きさがちがう。G'はG+gであり、GとG'との量的関係は、「前貸資本プラスその増分」という質的関係も表わす。

ただし、一般的等価形態である貨幣においては、ある特定の部分が他の部分と質的に区別されるということはない(概念的無区別性)。

価値の諸部分は、……価値の諸部分として質的に互いに区別されはしない――このような区別、それは単なる価値の諸部分としての価値の諸部分そのものからは生じない。貨幣においては、諸商品の相違はすべて消滅している。なぜなら、貨幣こそは諸商品のすべての共通な等価形態であるからである。[50]

したがって、「前貸資本プラスその増分」という関係、あるいは「元金と増加額」「資本と剰余額」という関係は、「絶対的な同質性」(概念的無区別性)をもっている貨幣総額の諸部分においては、「総額の分数」として、一定の比率として表現することができる(没概念的区別)。

G'は、たとえば、110ポンド・スターリング、そのうち100ポンド・スターリングは元金Gで、10ポンド・スターリングは剰余価値Mであるとしよう。……任意の10ポンド・スターリングは、それが前貸元金100ポンド・スターリングの1/10であろうと、元金を超える10ポンド・スターリングという超過額であろうと、つねに110ポンド・スターリングという総額の1/11である。……われわれの例では、10/11は元金、言い換えれば資本をなし、1/11は剰余額をなす。[50]

実現された資本は、……その過程の終わりに、それの貨幣表現で現われるが、これはまさに資本関係の没概念的表現である。[50]

マルクスは、G'(G+g)のこの概念的無区別性と没概念的区別について、W'(W+w)と比較して、つぎのように述べている。

もちろん、このことはW'(=W+w)についても言える。しかし、次のような区別がある。すなわち、W'においてはWとwとはやはり同質の同じ商品総量の比率的価値諸部分にすぎないとはいえ、このW'は、自己がその直接の生産物である自己の起源のPをほのめかすが、これに反して、直接に流通から生じてくる形態であるG'においては、Pとの直接の関連は消えうせている、という区別である。[50-51]

G'はW'の実現の結果

貨幣資本の循環のなかでは、G…G'という運動の結果を表わす、この資本関係の没概念的表現G'は、その概念的無区別性からして必然的に、資本関係の表現としてでなく、資本価値の前貸形態として、新たな循環の始まりGとなる。

Gが貨幣資本として機能できるのは、Gが“資本の貨幣形態”であったからだ。すなわち、資本価値が貨幣形態をとり、商品として市場で対応している商品A(労働力)および商品Pm(生産手段)と転換できる形態にあったからだ。この場合も、貨幣形態として実存する資本価値が資本として機能しえたのは、労働力Aと生産手段Pmという商品の独自の使用形態のおかげであるが。

G'という表現は、Gの機能によって表現されるものではない。G’におけるGは、W'においてすでに実現されているWの増分wの貨幣形態であるg(=剰余価値M分の差額)によって自己表示されるものである。すなわち、貨幣資本の機能ではなく、むしろW'の機能によるものといえる。

さきにマルクスが言及していたように、

gがGに全部つけ加えられるか、一部分がつけ加えられるか、またはまったくつけ加えられないかに応じて、すなわちgが前貸資本価値の構成部分として機能し続けるかいなかに応じて、資本の再生産過程において重要になる。gとGとがまったく異なる流通を経過することもありうる。[49]

すなわち、gがGと異なる機能を果たすということはありうるわけで、すなわち、gのうちの幾分かは、循環G…G'の反復の最中に資本家自身が生活手段の購買のために消費し前貸資本として機能しない部分となりうるから、その意味で、G’におけるGが、前貸資本価値としての一貫した機能的意義をもっているといえなくはないが、この場合でも、“G’におけるGが、W’においてすでに実現されているwの貨幣形態gによって自己表示されている”ということ、すなわち、G…G'という循環において、G’はGの自己増殖と蓄積とを含むということに変わりはない。

資本によって生み出された剰余価値との関連および区別における資本の表現としては、すなわち増殖された価値の表現としては、G'とW'とは同じものであり、また同じものを――ただ異なる形態で――表わす。……一方は貨幣形態にある資本であり、他方は商品形態にある資本である。それゆえ、それらを区別する独自的機能は、貨幣機能と商品機能との区別以外のなにものでもありえない。[54]

貨幣材料の生産の場合

商品資本は、資本主義的生産過程の直接的生産物として、このようなそれの起源を思い出させるのであり、それゆえ、その形態において貨幣資本よりもより合理的で没概念的ではなく、貨幣資本においては――およそ貨幣においては商品のいっさいの特殊的使用形態が消えうせているのと同じように――資本主義的生産過程のあらゆる痕跡は消滅してしまっている。それゆえ、G'そのものが商品資本として機能する場合にのみ、すなわちG'が生産過程の直接的生産物であってこの生産物の転化形態ではない場合にのみ、G'の特異な形態は消えうせる――すなわち、貨幣材料そのものの生産の場合がそれである。[55]

貨幣材料生産の場合の貨幣資本循環の定式は

G―W<Pm,A…P…W'(W+w)―G'(G+g)

ではなく、

G―W<Pm,A…P…G'(G+g)

となる。



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