第1部:資本の生産過程

第1篇:商品と貨幣

第3章:貨幣または商品流通

第2節
流通手段



商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段と言う機能を受け取る[128]

a 商品の変態

すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾し互いに排除しあう諸関連を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を取りのぞくのではなく、これらの矛盾が運動しうる形態をつくり出す。これが、一般に、現実的諸矛盾が自己を解決する方法である[118-9]

ここで言われている「矛盾し互いに排除しあう諸関連」というのは、たぶん、第2章のつぎにあげる部分で述べられたことだろう。

立ち入って見てみると、どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれも自分の商品の特殊的等価物として意義をもち、それゆえ、自分の商品は他のすべての商品の一般的等価物として意義をもつ。しかし、すべての商品所有者が同じことを行なうのだから、どの商品の一般的等価物ではなく、それゆえまた、諸商品は、それらが自己を価値として等置し、価値の大きさとして比較し合うための一般的相対的価値形態をもってはいない。だから、諸商品はおよそ商品として相対しているのではなく、ただ生産物または使用価値として相対しているにすぎないのである[101]

そして、この矛盾は、商品交換という社会的行為によって、貨幣という一般的等価物を生み出すことで解決されたわけだが、ここでマルクスは、商品の交換という行為がもつ本質をより深く分析していく。

交換過程が、諸商品を、それらが非使用価値である人の手から、それらが使用価値である人の手に移行させる限りにおいて、それは社会的素材変換である。ある有用な労働様式の生産物が他の有用な労働様式の生産物に取って代わる[119]

「社会的素材変換」は、商品交換によってどのように生じているのか

交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化を、すなわち、諸商品がそれらに内在する使用価値と価値との対立をそこに表わす外的対立を生み出す。この対立においては、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立の両側は商品であり、したがって使用価値と価値との統一である。しかし、区別のこの統一は、両極のそれぞれに逆に自己を表わしており、そうすることによって同時に両者の相互関連を表わしている。商品は、実在的には使用価値であり、その価値存在は、価格のなかに、ただ観念的に現われるにすぎない。この価格によって商品はその実在的な価値姿態としての、対立する金と関連させられる。逆に、金材料は、価値の体化物としてのみ、貨幣としてのみ意義をもつ。それゆえ、金は、実在的に交換価値である。その使用価値は、一連の相対的価値諸表現のなかに、やはりただ観念的に現われるにすぎないのであり、この一連の相対的価値表現のなかで、金は、その実在的な使用諸姿態の全範囲である、対立する諸商品と関連させられる。諸商品のこれらの対立的な形態が、諸商品の交換過程の現実的な運動諸形態なのである[119]

ここまでは、これまで、私たちがマルクスとともにたどってきた叙述の「まとめ」である。さて、マルクスは、貨幣を仲立ちとして商品が取引される市場での一例を取り上げる。

20エレのリンネル ― 2ポンド・スターリング ― 聖書

こうして、商品の交換過程は、相対立し、かつ互いに補い合う2つの変態――商品の貨幣への転化と貨幣から商品への商品の再転化――において、行なわれる。商品変態の諸契機は、同時に、商品所有者の諸取り引き――販売、すなわち商品の貨幣との交換、購買、すなわち貨幣の商品との交換、および、両行為の統一、すなわち買うために売る――でもある[120]

この取り引きの過程は、リンネル商品をもっている人にとってみれば、価値は同じだけれども、リンネルとは有用性のちがう別の商品を手に入れた、ということである。貨幣を仲立ちにしたこの商取引は、かれの労働生産物であるリンネルと他人の労働生産物である聖書との交換を媒介しているということで、

その素材的内容からすれば、W―W、すなわち商品と商品との交換であり、社会的労働の素材変換であり、その結果のなかでは過程そのものが消えうせている[120]

実際の商品の交換過程は、つぎのような形態変換において行なわれる。

商品―貨幣―商品

W ― G ― W

W―G。商品の第一の変態または販売

商品価値が商品のからだから金のからだに飛び移ることは、私が別のところで名づけたように、商品の“命がけの飛躍”である[120]

ここでマルクスが指している「別のところ」というのは注にあるとおり『経済学批判』のなかで述べたところだ。

商品Wは、たんに特殊な使用価値、たとえば1トンの鉄としてだけではなく、また一定の価格をもつ使用価値、たとえば3本と17シリング10ペンス1/2、すなわち1オンスの金という価格をもつ使用価値としても、流通過程にはいる。この価格は、一方では、鉄にふくまれている労働時間の量、すなわち鉄の価値の大きさの指数であるが、それと同時にまた、金になりたいという鉄の敬虔な願望、すなわち鉄そのものにふくまれている労働時間という姿をあたえたいという願望を表現している。もしこの化体が成功しないならば、1トンの鉄は商品でなくなるだけでなく、生産物でもなくなる。なぜならば、鉄はその所有者にとって非使用価値であるからこそ商品なのであり、言いかえれば、彼の労働は、他人にとっての有用労働としてだけ現実的労働であり、抽象的一般的労働としてだけ彼にとって有用であるからである。だから、鉄または鉄の所有者の任務は、商品世界で鉄が金をひきつける場所を見つけることである。しかしこの困難、商品の命がけの飛躍は、この単純な流通の分析で想定されているように、販売が実際におこなわれれば克服される。1トンの鉄は、その譲渡によって、すなわちそれが非使用価値である人の手から使用価値である人の手に移ることによって、使用価値として実現されるが、それと同時にその価格を実現して、ただ表象されただけの金から現実の金となる(『経済学批判』第1部第2章B貨幣の度量単位にかんする諸理論2流通手段(a)商品の変態[70-71])

「販売が実際におこなわれる」ということは、売り手が実際に貨幣を手に入れるということだが、貨幣を「他人のポケット」[121]から引き出すということは、容易ならざることである。まさに“命がけの飛躍”……。

マルクスは、この困難とその克服の過程を、商品生産社会における私的生産労働の社会性――この社会に特有の「分業」形態の特徴という観点から分析し、実際の市場における丁丁発止の緊迫感あるやりとりをリアルに再現している。

こうして、商品は貨幣を恋い慕うが、「“まことの恋が平穏無事に進んだためしはない”」。分業体系のうちにその“ひきさかれたる四肢”を示している社会的生産有機体の量的編成は、その質的編成と同じく、自然発生的・偶然的である。それゆえ、わが商品所有者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立のものとすること、諸人格相互の独立性が全面的物的依存の体制によって補完されていること、を見いだすのである。

分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この全質変化が成功するかどうかを偶然にする。とはいえ、ここでは、現象を純粋に考察しなければならず、それゆえその正常な進行を前提しなければならない。いずれにせよ、およそ過程が進行するならば、したがって、商品が売れなくなるのでない限り、商品の形態変換はつねに行なわれる。もっとも、異常な場合には、この形態変換において実体――価値の大きさ――が減らされたり増やされたりすることはあるだろうが[122]

さて、W―G、商品と金との交換は、商品にとっては金というその商品の“一般的価値姿態”と交換される、ということであり、金にとっては商品というその使用価値の一つの“特殊的姿態”と交換される、ということである。

金が貨幣としてリンネルに対応しているのは、リンネルの価格=貨幣名が貨幣としての金にリンネルを関連させているからである。だから、W―Gとは、

商品の価格においてただ表象されているだけの金を、その商品の使用価値が現実に引き寄せる

ということを意味する。

商品価格の実現、あるいは商品の単に観念的なだけの価値形態の実現は、同時に、逆に、貨幣の単に観念的なだけの使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に貨幣の商品への転化である。同じ一つの過程が二面的な過程なのであり、一方の極、商品所有者からは販売であり、対極、貨幣所有者からは購買である。言い換えれば、販売は購買であり、W―Gは同時にG―Wである[123]

金が貨幣材料としての地位を占めるにいたると、鉱山などから産出され、ほかの労働生産物と交換されて、いったん商品市場に入った瞬間から、金は、商品価格をその実体でもって表わすことになる。

金の産源地での金と商品との交換を別にすれば、金は、どの商品所有者の手中においても、譲渡された彼の商品の脱皮した姿態であり、販売すなわち第一の商品変態W―Gの産物である[123]

この起点から、W―G―Wの連続運動が始まる。

わがリンネル織布者がその商品を譲渡して得た2枚の金貨は、1クォーターの小麦が転化した姿態であると仮定しよう。リンネルの販売W―Gは、同時にその購買G―Wである。だが、リンネルの販売としては、この過程は、その反対の過程、聖書の購買によって終わる一つの運動を始動させる。リンネルの購買としては、この過程は、その反対の過程、小麦の販売によって始まった一つの運動を終わらせる。W―G(リンネル―貨幣)、すなわちW―G―W(リンネル―貨幣―聖書)のこの最初の局面は、同時に、G―W(貨幣―リンネル)、すなわちW―G―W(小麦―貨幣―リンネル)というもう一つの運動の最後の局面である。一つの商品の第一の変態、すなわち商品形態から貨幣への商品の転化は、つねに同時に、別の商品の第二の対立的な変態であり、貨幣形態から商品へのその商品の再転化である[124]

G―W。商品の第二の、または最後の変態、すなわち購買

貨幣は、他のすべての商品の脱皮した姿態であり、言い換えれば、それらの一般的譲渡の産物であるから、絶対的に譲渡されうる商品である[124]

第一の商品の変態である、販売にたいして、購買という商品の変態は絶対的にその転化が保障されている。それはなにより、貨幣が、「直接的交換可能性」の一般的形態であり、一般的等価形態であるからに他ならない。

貨幣は、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる諸商品を代表する[124]

“命がけの飛躍”とマルクスが形容した販売という商品変態と、この購買という商品変態との相違は、マルクスの次の指摘に集中的に表わされている。

商品生産者は単一の生産物だけを供給するので、それをしばしば大量に販売するが、他方、彼は、彼の多面的な欲求に迫られて、実現された価格または入手した貨幣額を絶えず、多数の購買に分散しなければならない。だから、一つの販売は、さまざまな商品の多数の購買になっていく。こうして、一つの商品の最後の変態は、他の諸商品の最初の諸変態の総和をなす[125]

一つの商品の総変態過程――四つの終点と三人の契約当事者

“販売は購買であり、購買は販売である”――商品流通の内部では、売り手と買い手とは、決して固定的な役割を担っているわけではない。

商品所有者は、販売の担当者としては売り手になり、購買の担当者としては買い手になる。しかし、商品のどちらの転化においても、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが、相対立する両極に分かれながらも同時に実存するのと同じように、同じ商品所有者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が、相対する。同じ商品が二つの相反する転化をつぎつぎに経過し、商品から貨幣になり、また貨幣から商品になるのと同じように、同じ商品所有者が売り手の役割と買い手の役割とをつぎつぎに取り替える[125]

最初に商品にはその価値姿態としての貨幣が相対するが、この価値姿態は、向こう側の他人のポケットのなかに物的な堅固な実在性をもっている。こうして、商品所有者に貨幣所有者が相対する。つぎに、商品が貨幣に転化すると、貨幣は商品の一時的等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容は、こちら側の他の諸商品体のうちに実存する。第一の商品転化の終点としての貨幣は、同時に第二の商品転化の出発点である。こうして第一幕の売り手は第二幕では買い手となり、そこでは彼にたいしてある第三の商品所有者が売り手として相対する[125]

商品流通と直接的な生産物交換との本質的なちがい

リンネル織布者は、リンネルを聖書と、すなわち自分の商品を他人の商品と、無条件に交換した。しかし、この現象はただ彼にとって真であるにすぎない。冷やすものよりも温かくするものを好む聖書の売り手は、聖書と引き換えにリンネルを得ようなどとは考えもしなかった。それは、ちょうど、リンネル織布者が、彼のリンネルと交換されたのが小麦であったことなどは知らないのと同じである[126]

商品流通の内部において成立している商品と商品の交換、すなわち「社会的生産物の素材変換」は、それが貨幣を仲介しているために、それぞれの商品所有者が、所有する商品を互いに交換し合うわけではない。彼らは、自分の商品が、何と交換されるのか、直接的には知りようがないし、知る必要もない。このことは、

一面では、商品交換が直接的な生産物交換の個人的場所的制限を打ち破り、人間的労働の素材変換を発展させる。他面では、当事者たちによっては制御不可能な、社会的な、自然的諸関連の全範囲が発展する[126]

“カネは天下のまわりもの”という言葉があるけれども、貨幣がいったん流通過程のなかに入ったら、そのときから、商品と商品の変換の間を取り持ち、それぞれの商品所有者とは別の第三者の手を介する。このような過程の連続する総過程が商品流通過程である。

流通過程は、直接的な生産物交換と違って、使用価値の場所または持ち手の変換によって消失するものではない。貨幣は、商品が立ちのいた流通上の場所につねに沈殿する。……商品による商品の置き換えは、同時にある第三者の手に貨幣商品を付着させる。流通はつねに貨幣を発汗する[127]

販売と購買との同一性――その本質

商品交換社会のなかでは、販売は購買であり、購買は販売である。商品流通は販売と購買との均衡をもたらす、ということは、実際の販売の件数と購買の件数が同じだということを言っているのであって、その限りでは同義反復である。さて、しかし、

販売と購買は、二人の対極的に対立する人物、すなわち商品所有者と貨幣所有者とのあいだの相互関係としては一つの同一の行為である。それらは、同じ人物の行動としては二つの対極的に対立する行為をなす。だから、販売と購買との同一性は、もしも流通の錬金術的蒸留器に投げ入れられた商品が貨幣として出てくるのでなければ、すなわち商品所有者の売るところとならず、したがって貨幣所有者によって買われないならば、その商品は無用になるということを含んでいる。さらに、その同一性は、この過程がもしも成功すれば、それは一つの休止点を、商品の生涯の長いこともあれば短いこともある一時期を、なすということを含んでいる[127]

だれも、別の人が買わなければ、売ることができない。しかし、だれも、自分自身がすでに売ったからといって、ただちに買う必要はない。流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を打ち破るが、それはまさに、生産物交換の場合に存在する、自分の労働生産物の譲渡と他人の労働生産物の入手との直接的同一性が、流通によって販売と購買との対立に分裂させられることによってである[127]

このことの重大な矛盾、矛盾であり、商品流通の発展を促す本質、だからこそ、商品生産社会のかかえる深刻さというのを、マルクスはつぎのように指摘している。ただし、ここでは、まだそれを、つまり“恐慌”という矛盾の爆発点を全面的に分析、展開するには、まだ早すぎるので、匂わせる程度であるが。しかし、貨幣の流通手段としての機能のなかに、すでにその萌芽があるのだ、という指摘は、たいへん衝撃的だ。

自立して互いに相対している諸過程が一つの内的な統一をなしているということは、とりもなおさず、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということを意味する。互いに補い合っているために内的に非自立的であるものの外的な自立化が、一定の点まで進むと、統一が強力的に自己を貫徹する――恐慌によって。商品に内在的な対立、すなわち使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的労働として現われなければならないという対立、特殊的具体的労働が同時に直接に社会的労働として現われなければならないという対立、物の人格化と人格の物化との対立――この内在的矛盾は、商品変態上の諸対立においてそれの発展した運動諸形態を受け取る。だから、これらの形態は、恐慌の可能性を、とはいえただ可能性のみを、含んでいる。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく実存しない諸関係の全範囲を必要とする[127-8]

b 貨幣の通流

流通部面での貨幣の運動

訳注に示されているとおり、ここで“通流”と訳されている言葉は、本来、貨幣のたどる「過程または経路」という意味で使用されているとのこと。“流通”とはまったく別の過程を意味する。

商品流通によって貨幣に直接与えられる運動形態は、貨幣が絶えずその出発点から遠ざかること、ある商品所有者の手から別の商品所有者の手に移っていくこと、すなわち貨幣の通流である[129]

この貨幣の運動は、錯覚を生みだす。この運動が、その本質とは反対の概観を生みだすからだ。

貨幣は、絶えず商品の流通場所で商品に取って代わり、それによって貨幣自身の出発点から遠ざかることにより、諸商品を絶えず流通部面から遠ざける。それゆえ、貨幣の運動は商品流通の表現にすぎないにもかかわらず、逆に商品流通が貨幣の運動の結果にすぎないものとして現われるのである[130]

この貨幣の運動を、マルクスは、さきの「a 商品の変態」で分析された、第一の変態と第二の変態とのちがいにもとづいて解説している。

商品の第一の変態は、貨幣の運動としてだけでなく、商品自身の運動としても目に見えるが、商品の第二の変態は、ただ貨幣の運動としてしか目には見えない。商品は、その流通の前半においては、貨幣と場所を換える。それと同時に、商品の使用姿態は、流通から脱落して消費にはいる。商品の価値姿態または貨幣仮面が商品に取って代わる。流通の後半を、商品は、もはやそれ自身の生まれながらの外皮ではなく、金の外皮に包まれて通り抜ける。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側に帰することになり、商品にとっては二つの相対立する過程を含むその同じ運動が、貨幣自身の運動としては、つねに同じ過程を、すなわち貨幣がつねに別の商品と行なう場所変換を、含む[129-130]

商品の「変態」が貨幣の「場所変換」に反映される。W―G―Wで表わされる商品の形態変換は、その方向とは反対方向への貨幣の場所変換という運動に反映されている。

流通はどれだけの貨幣を吸収するか

どの商品も、流通へのその第一歩によって、その第一の形態変換によって、流通から脱落し、そこにはつねに新しい商品がはいってくる。これにたいして、貨幣は、流通手段として絶えず流通部面に住みつき、絶えずそこをかけめぐっている。そこで、流通部面はどれだけの貨幣を絶えず吸収するのか、という問題が生じる[131]

ここで考察されている商品流通の段階では、金や銀などの貨幣が直接商品と対置される。だから、その社会でどれだけの貨幣が必要かということは、その社会の商品の価格の総額で規定されるはずだ。ただし、価格と貨幣材料の価値とのあいだの相互関係からして、貨幣材料の価値の変動によって、商品の価格も変動するから、当然、流通が吸収できる貨幣の総量もそれにともなって変動する。

流通手段の総量における変動は、この場合、確かに貨幣そのものから生じるけれども、流通手段としての貨幣の機能から生じるのではなく、価値尺度としての機能から生じるのである。諸商品の価格がまず貨幣の価値に反比例して変動し、次に流通手段の総量が諸商品の価格に正比例して変動する[131]

なぜこのことが強調されているのだろう。先を読み進めていって、マルクスの問題意識の一端がここにあるのではないか、と考えたのが、すぐあとのつぎの叙述。

新しい金銀産源地の発見に続いて生じた事実の一面的観察は、17世紀およびことに18世紀に、商品価格が上昇したのはより多くの金と銀とが流通手段として機能したからであるという誤った結論に導いた[132]

さて、金などの貨幣材料の価値がある与えられた大きさであると前提されれば、貨幣総量は、商品の価格総額によって規定される。そして、すべての商品の価格がある与えられた大きさであると前提されれば、商品の価格総額は、流通している商品量によって決まる。だから、

商品総量を与えられたものと前提すれば、流通する貨幣の総量は、諸商品の価格変動に応じて、増減する[132]

諸商品の価格変動が現実の価値変動を反映しようと、単なる市場価格の動揺を反映しようと、流通手段の総量にたいする影響は同じである[132]

貨幣通流の速度

1クォーターの小麦―2ポンド・スターリング―20エレのリンネル―2ポンド・スターリング―1冊の聖書―2ポンド・スターリング―4ガロンのウィスキー―2ポンド・スターリング

これはマルクスがこの節でよく取り上げる例だが、

この2ポンド・スターリングは、4回の通流をなしとげる[133]

この過程が経過する、相対立し、互いに補い合う諸局面は、空間的に並存することはできず、ただ時間的に継起することができるだけである。それゆえ、期間がこの過程の継続の尺度をなす。あるいは、与えられた時間内における同じ貨幣片の通流の回数が、貨幣通流の速度をはかる[133]

流通のある与えられた期間については――諸商品の価格総額/同名の貨幣片の通流回数=流通手段として機能する貨幣の総量となる[133]

この貨幣の通流速度が表わすものはなにか。

貨幣通流一般には、諸商品の流通過程だけが、すなわち相対立する諸変態を通しての諸商品の循環だけが現われるとすれば、貨幣通流の速さには、諸商品の形態変換の速さが、諸変態系列の連続的なからみ合いが、素材変換のあわただしさが、流通部面からの諸商品の急速な消滅と新しい商品による同じく急速な置き換えが、現われる[134]

流通する貨幣の総量を規定する三つの要因

価格の運動、流通する商品の総量、そして最後に、貨幣の通流速度という三つの要因は、さまざまな方向とさまざまな割合で変化しうる。したがって、実現されるべき価格総額、それゆえ、それによって制約される流通手段の総量は、非常に多くの組み合わせを取りうる[135]

さまざまな要因の変化は相互に相殺されうるから、それらの要因が絶えず動揺しているにもかかわらず、実現されるべき商品価格の総額は、したがってまた流通する貨幣の総量も、一定不変のままである。だから、ことにかなり長い期間を考察すれば、各国において流通する貨幣総額の平均水準が、外見から予想されるよりは、はるかに一定していること、また、周期的には生産恐慌や商業恐慌から生じ、まれには貨幣価値そのものの変動から生じる激しい攪乱をのぞけば、この平均水準からの偏差が、同じく予想されるよりはるかに小さいことがわかる[136]

流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣通流の平均速度とによって規定されるという法則は、諸商品の価値総額が与えられていて、それらの変態の平均速度が与えられていれば、通流する貨幣または貨幣材料の量はそれ自身の価値によって決まる、というように表現することもできる[136-7]

これにたいして、

商品価格は流通手段の総量によって、その流通手段の総量はまた一国に存在する貨幣材料の総量によって、規定される

という学説がある。これは、当初、より端的に、

世界における金銀の総量と世界における商品の総額とを比較すれば、個々の生産物または商品は、金銀の一定部分と比較されうる……世界にただ一つの生産物または商品しか存在せず、または買いうる商品がただ一つしか存在せず、またそれが貨幣のように分割可能であると仮定すれば、この商品のこの部分は貨幣の総量のある部分に相当し……諸物の価格の決定は、根本的にはつねに、貨幣章標全体にたいする諸物全体の割合に依存する【モンテスキュー『法の精神』第3巻、12-3ページ】[138]

という見解に現われているように、

商品は価格なしに、貨幣は価値なしに、流通過程にはいり、次にそこにおいて、ごたまぜの商品群の一可除部分が山をなす金属の一可除部分と交換される[138]

というあやまった仮説に根ざしている。これは、貨幣となる金銀も商品である、ということが見抜けなかったために生まれたあやまりであった。商品と貨幣は相対立して眼前に立ち現われるので、そのようなあやまりに陥りやすかったのだろう。

c 鋳貨。価値章標

はじめは地金のまま使われていた貨幣は、取引がさかんになり、流通手段としての機能が発揮されればされるほど、そのままでは日常の取引には不便になってくる。そこで、政府が、一定の品質と重量をもつ貴金属を一定の形に鋳造するようになる。鋳貨とは、造幣された貨幣のこと。

造幣業務はそれぞれの国の政府によって行なわれるから、その品質や重量の基準もそれぞれの国によってちがう。しかし、この鋳貨がいったん国の外に出て行くと、造幣された国での命名も基準も関係なくなり、ほんらいの金属重量が唯一の基準として機能するようになる。ここにはすでに、商品流通の国内的部面と世界市場的部面との分離が現われている、ということが言える。そして、このことは、

金鋳貨と金地金とは、もともとただ外形によって区別されるだけであり、金は一方の形態から他方の形態に絶えず転化することができる[139]

ということも現わしている。だが、しかし……

鋳貨のもつ宿命

造幣局から出ていく道は、同時に坩堝への歩みでもある。すなわち、通流しているうちに、金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく、摩滅する。金の肩書きと金の中身とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を歩み始める。同名の金鋳貨でも、重量が異なるために、価値が等しくなくなる。流通手段としての金は、価格の度量基準としての金から背離し、したがってまた、諸商品――金がこれらの商品の価格を実現するのであるが――の現実的等価物であることをやめる[139]

そしてこのことは、“実質純分”となる鋳貨を、“名目純分”である公称金属純分の象徴に転化させる。金属目減りの程度によっては、その鋳貨を通用不能にする必要がでてくる。日本でも、金本位制がとられていた当時、明治30(1897)年に発効した「貨幣法」という法律にその定めがある。

[貨幣の製造発行権]

第一条 貨幣ノ製造及発行ノ権ハ政府ニ属ス

[単位]

第二条 純金ノ量目七百五十ミリグラムヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ円ト称ス

[貨幣の品位]

第五条 貨幣ノ品位ハ左ノ如シ

一 金貨幣    純金九百分参和銅一百分

二 銀貨幣    純銀七百二十分参和銅二百八十分

三 ニツケル貨幣 純ニッケル

四 青銅貨幣   銅九百五十分錫四十分亜鉛十分

[貨幣の量目]

第六条 貨幣ノ量目ハ左ノ如シ

一 二十円金貨幣  十六・六六六六グラム

二 十円金貨幣    八・三三三三グラム

三 五円金貨幣    四・一六六六グラム

四 五十銭銀貨幣   四・九五グラム

五 二十銭銀貨幣   一・九八グラム

六 十銭ニツケル貨幣 四グラム

七 五銭ニツケル貨幣 二・八グラム

八 一銭青銅貨幣   三・七五グラム

九 五厘青銅貨幣   二・一グラム

[金銀貨幣の純分の公差]

第九条 金銀貨幣純分ノ公差ハ金貨幣ハ一千分ノ一銀貨幣ハ一千分ノ三トス

[金銀貨幣の量目の公差]

第十条 金銀貨幣量目ノ公差ハ左ノ如シ

一 金貨幣二十円ハ毎斤〇・〇三二四グラム一千枚毎ニ三・一一二五グラム十円ハ毎斤〇・〇二二六八グラム一千枚毎ニ二・三二五グラム五円ハ毎斤〇・〇一六二グラム一千枚毎ニ一・五三七五グラムトス

二 銀貨幣五十銭ハ毎斤〇・〇六四一二グラム一千枚毎ニ三・九九九七五グラム二十銭ハ毎斤〇・〇四〇一二グラム一千枚毎ニ一・九九九八七グラムトス

[金貨幣の通用最軽量目]

第十一条 金貨幣ノ通用最軽量目ハ二十円金貨幣十六・五七五グラム十円金貨幣八・二八七五グラム五円金貨幣四・一四三七五グラムトス

金属以外の材料からなる貨幣の登場

貨幣通流そのものが、鋳貨の実質純分を名目純分から分離し、その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば、鋳貨機能においては、金属貨幣に代わって他の材料からなる標章または象徴が登場する可能性を、貨幣通流は潜在的に含んでいる[140]

さきに紹介した「貨幣法」にも補助鋳貨の規定が現われているが、金という高級金属の代替物として、銀やニッケル、青銅というようなより低級な金属による鋳貨が通流するという事情の中に、その可能性が潜んでいる。

銀製または銅製の標章の金属純分は、法律によって任意に規定される。それらは、通流するうちに、金鋳貨よりもいっそう急速に摩滅する[140]

マルクスがさきに指摘しているが、低級金属による鋳貨が補助鋳貨として使用されるのは、商品流通が、それだけ小規模に絶え間なく繰り返されるようになっている領域である。鋳貨の流通の速度もそれだけ速いので、鋳貨の摩滅度も当然、大きいということになる。

だから、それらの鋳貨機能は、それらの重量とは、すなわちおよそ価値とは、事実上まったくかかわりのないものとなる。金の鋳貨定在は、その価値実体から完全に分離する。こうして、相対的に無価値な物、すなわち紙券が、金の代わりに鋳貨として機能することができるようになる[140-1]

念をおして、マルクスはつぎのようにことわりがきをしている。

ここで問題となるのは、強制通用力をもつ国家紙幣だけである。それは直接に金属流通から発生する。これにたいして、信用貨幣は、単純な商品流通の立場からいってわれわれのまだまったく知らない諸関係を想定する。しかし、ついでに述べておけば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生じるとすれば、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能に、その自然発生的な根源をもっている[141]

“支払手段としての貨幣”というカテゴリーは、まだわれわれの考察外のカテゴリーである。

なぜ貨幣は無価値な章標に置き換えられうるのか

1ポンド・スターリング、5ポンド・スターリングなどといった貨幣名が印刷された紙券が、国家によって外部から流通過程に投げ込まれる。それらが現実に同名の金総額に代わって流通する限り、それらの運動には貨幣通流そのものの法則だけが反映する[141]

したがって、紙幣は、それが表わす流通部面の金または銀の総量に応じて、発行を制限されるべきである。ところで、現実に流通している金の量は、一定の平均水準をもってはいるものの、絶えずその上下に変動している。しかし変動するとはいえ、ある一国に流通している金の総量は、一定の最小限よりも下がることはない。だから、やはり、この最小総量は、紙幣によって置き換えることが可能なはずだ。

これにたいして、もしもきょうすべての流通水路がその貨幣吸収能力の最大限にまで紙幣で満たされるとすれば、あすは、商品流通の変動の結果、水路があふれるかもしれない。限度はすべて失われる。しかし、紙幣がその限度を、すなわち流通したはずの同名の金鋳貨の量を超過するならば、全般的信用崩壊の危険は別にして、紙幣は、商品世界の内部では、やはりただ、この世界の内在的諸法則によって規定された金量を、したがってまたちょうど代理されうるだけの金量を、表わすにすぎない。もしも紙券の総量が、たとえば、1オンスずつの金の代わりに2オンスずつの金を表わすとすれば、たとえば1ポンド・スターリングは、事実として、約1/4オンスの金の代わりに約1/8オンスの金の貨幣名になる。結果は、金が価格の尺度というその機能の点で変更をこうむったのと同じである。それゆえ、以前は1ポンド・スターリングという価格で表現された同じ価値が、いまでは2ポンド・スターリングという価格によって表現されるのである[142]

紙幣は、あくまで貨幣章標であるということ。紙幣が価値章標として機能するのは、価値分量でもある金分量を紙幣が代理する限りでのことなのである。

紙幣の登場は、商品交換の発展にともなう貨幣の登場と、その貨幣通流速度の増大による鋳貨形態の登場の必然的帰結だったわけだが、一国において、紙幣によって置き換え可能な最小総量の金貨幣は、持続的に流通手段として機能していることが前提となっている。

したがって、その運動は、商品変態W―G―W――そこでは、商品の価値姿態は、ただちにふたたび消えうせるためにのみ、商品に相対する――の相対立する諸過程の継続的相互転換を表わすだけである。商品の交換価値の自立的表示は、ここでは一時的契機でしかない。この自立的表示はただちにふたたび別の商品によって置き換えられる。だから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざける過程においては、貨幣の単なる象徴的実存でも十分なのである……貨幣の章標に必要なのは、それ自身の客観的社会的妥当性だけであり、紙製の象徴はこの妥当性を強制通用力によって受け取る[143]



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