第2部:資本の流通過程
第1篇:資本の諸変態とそれらの循環
第1章:貨幣資本の循環

第4節
総循環



資本循環過程の考察の進展―一般的定式から「その明細な形態」まで

まず冒頭、第1部(第4章第1節)で取り上げられた「資本の一般的定式」(G―W―G')と、この第2部第1章で考察対象になっている貨幣資本循環の流通過程とが比較され、その相違点と共通点が指摘される。

相違点。いずれの流通系列も、購買と販売の2つの局面に分解することができるが、「一般的定式」として提示されていたG―W―G'において、購買と販売の2つの局面で示される商品は同一であるのにたいして((1)G―W1、(2)W1―G')、貨幣資本循環の流通過程においては、購買と販売の2つの局面で示される商品は、第1の局面における商品と第2の局面におけるものとでは、素材的価値的に異なっている((1)G―W1、(2)W2―G')。

共通点。いずれも、その流通系列で、貨幣の還流が示されること。また還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過すること。

これらのことから、購買と販売の2つの局面においては、価値変化は生じておらず、それぞれ等価の価値の実存するものどうしの置換が行なわれているにすぎず、価値変化は生産過程に属することが明示される。

生産過程は、流通の単に形態上の諸変態にたいして、資本の実質的な変態として現われる。[56]

つぎに、第1章第3節で示された、「貨幣資本の総運動の明細な形態」(G―W<Pm,A…P…W'(W+w)―G'(G+g))の特徴が示される。

ここでは資本は、連関し合い互いに制約し合う諸転化の一系列、すなわち、一連の諸変態――これらの変態は、一つの総過程のいくつかの一連の諸局面または諸段階を形成する――を経過する一つの価値として、現われる。……この運動の内部において、前貸価値は、みずからを維持するだけでなく、増大し、その大きさを増す。最後に終結段階では、前貸価値は、総過程の始めに現われたのと同じ形態に復帰する。それゆえ、この総過程は循環過程である。[56]

マルクスは、この資本循環過程において、「諸転化の一系列、一連の諸変態を経過する一つの価値として現われる」資本を、産業資本と呼ぶ。

総循環の経過中にこれら〔貨幣資本および商品資本、生産資本〕の形態を身につけてはまた脱ぎ、それぞれの形態においてその形態に照応する機能を果たす資本は、産業資本である――……上記の資本が資本主義的に経営されるどの生産部門をも包括する……。[56]

マルクスのこの段階での考察では、産業資本循環が、よどみなくつぎからつぎへ転化してゆくことが想定されている。しかし、資本の循環が停滞するとどうなるか(実際の循環の中ではしょっちゅう起こっていることだが)。

もし資本が第一局面G―Wで停滞すれば、貨幣資本は凝固して蓄蔵貨幣となる。もし生産局面で停滞すれば、一方の側には生産諸手段が機能しないで横たわり、他方の側には労働力が就業しない状態におかれたままである。もし最後の局面W'―G'で停滞すれば、売れないで山と積まれた商品が流通の流れをせきとめる。[56]

よどみなく循環過程がすすむと想定しても、「循環そのものが、一定の期間、循環の個々の部分において資本の固着化を生じさせることは、当然の成り行きである」([59])

前貸貨幣資本は、生産資本Pとして機能しうるまえに、まずこれら〔工場建物、機械など〕の〔労働諸〕手段に転化されていなければならないこと、すなわち第一段階G―Wからすでに抜け出していなければならないことは明らかである。それと同様に、われわれの例で、生産過程中に糸に合体された資本価値額422ポンド・スターリングは、糸ができあがるまえには、1万ポンドの糸の価値構成部分として流通局面W'―G'にはいり込みえないことも明らかである。糸は紡がれるまえには販売されえない。[59]

輸送産業における資本の循環過程

マルクスは、「生産過程の生産物が新たな対象的生産物でなく、商品でないような自立的な産業諸部門」について言及している。とくに、「そのうちで経済的に重要な…交通業――商品と人間を運ぶ本来の輸送業であれ、単に報道、手紙、電信などの移送であれ――」の資本循環について。

A.チュプローフは次のように言う――「工場主はまず物品を生産することができ、それからそれの消費者を求めることができる」。{彼の生産物は、完成品として生産過程から放出されたあと、生産過程とは分離された商品として流通へと移っていく。}「こうして、生産と消費とは、空間的にも時間的にも分離された二つの行為として現われる。新たな生産物をつくり出すのではなく、人間と物とを移すにすぎない輸送業では、この両方の行為が一つに融合している。鉄道の役立ち」{場所の変更}「は、それが生産されるのと同じ瞬間に消費される。……」。〔A.チュプローフ『鉄道経済』、モスクワ、1875年、69、70ページ〕[60]

輸送業が販売するのは、場所の変更、輸送過程そのもの。販売されるものが、輸送手段の場所移動という、生産過程そのもの。そして、この商品は、輸送手段の場所移動中にのみ消費される。

その有用効果は、……その生産後にはじめて取引物品として機能し、商品として流通する使用物――としては実存しない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じく、その有用効果〔の生産〕に消費された生産諸要素(労働力および生産諸手段)の価値、プラス、輸送業に就業している労働者たちの剰余労働が創造した剰余価値、によって規定されている。この有用効果は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されるならば、その価値は消費とともに消えうせる。それが生産的に消費されるならば、したがって、それ自身が輸送中の商品の一生産段階であるならば、その価値は、追加価値としてその商品そのものに移転される。したがって、輸送業についての定式は、G―W<Pm,A…P―G'であろう。……この定式は、貴金属生産についての定式とほとんどまったく同じ形態をもつのであり、ただ、輸送業ではG'は生産過程中に生み出された有用効果の転化形態であって、この過程中に生み出されてそこから放出された……現物形態でないだけのことである。[60-61]

産業資本は資本の唯一の定在様式

産業資本は、そこにおいて剰余価値または剰余生産物の取得だけでなく、同時にそれの創造も資本の機能となっている、資本の唯一の定在様式である。それゆえ、産業資本は、生産の資本主義的性格の条件となる。産業資本の定在は、資本家と賃労働者との階級対立の定在を含む。産業資本が社会的生産を支配する程度に応じて、労働過程の技術と社会的組織とが変革され、それと同時に社会の経済的歴史的類型が変革される。産業資本以前に、過去の、または没落しつつある社会的生産状態のまっただなかに現われた他の諸種類の資本は、産業資本の従属させられ、そして自己の諸機能の機構の点で産業資本に適応するように変化させられるだけでなく、いまではもう産業資本の基礎上で運動するにすぎず、それゆえ、この自己の基礎〔産業資本〕と生死存亡をともにする。それらの諸機能によって独自の事業部門の担い手として産業資本とならんで登場する限りでの貨幣資本と商品資本とは、いまではもう、産業資本が流通部面の内部で、あるいはとり、あるいは脱ぐさまざまな機能形態の社会的分業によって自立化され一面的に発達させられた実存様式であるにすぎない。[61]

このなかで、産業資本が社会的生産を支配するにつれて、従属させられ、産業資本の基礎上で運動するように変化させられる「過去の、または没落しつつある社会的生産状態のまっただなかに現われた他の諸種類の資本」とは、「第1部第4章第2節 一般的定式の諸矛盾」や「第1部第14章 絶対的および相対的剰余価値」などで言及されていた「商業資本」「高利貸資本」などのことだろう。

また、同じくこのなかで、「独自の事業部門の担い手として産業資本とならんで登場する限りでの貨幣資本と商品資本」とあるのは、例えば、銀行や商社などのことだろう。銀行など金融資本が、現代においては、産業資本を統制し管理する独自の機能と力をもっていることは明らかだが、金融資本や商業資本の源泉となっているのは、産業資本によって生み出される剰余価値である。

一般的商品流通のなかで自立的循環を形成する資本の運動

循環G…G'は、一方では一般的商品流通とからみ合い、それから出てはまたそれにはいり込み、それの一部分をなす。他方では、この循環は、個別資本家にとっては資本価値の独自な自立的運動――すなわち、一部は一般的商品流通の内部で行なわれ、一部はその外部で行なわれるが、しかしつねにその自立的性格を保持する運動――を形成する。[61]

資本の循環過程は、流通と生産との統一であり、この両者を包含する。両局面G―WとW'―G'とが流通過程である限りでは、資本の流通は一般的商品流通の部分をなす。しかし、流通部面にだけでなく生産部面にも属する資本循環のなかの、機能的に規定された諸部分・諸段階としては、資本は、一般的商品流通の内部でそれ独自の循環を行なう。[64-65]

第一局面がG―Wであることによって、生産資本の構成諸部分の商品市場からの由来も、また一般に流通による、商業による資本主義的生産過程の被制約性も、現われてくる。貨幣資本の循環は、商品生産であるだけではない。それは、それ自身、流通によってのみ成立し、流通を前提する。[65]

貨幣資本総循環過程の特徴

「貨幣資本の循環は、産業資本の循環のもっとも一面的な、それゆえもっとも適切でもっとも特徴的な現象形態であ」[65]るが、この第2部第1篇で考察される、他の資本循環過程の諸形態――生産資本循環、商品資本循環と比較考察したときに、この貨幣資本循環に特徴的な諸点が、リストアップされている([62-64])。これらは、第1章第1節から第3節までで分析されたことのまとめともなっている。

  1. 貨幣形態が総過程の出発点と復帰点をなし、この運動の自己目的が使用価値でなく交換価値であり、“利潤第一”であるという、資本主義的生産の推進的動機をもっとも明白に表わす。
  2. 生産過程が、前貸価値の増殖のための単なる手段として、形態的にも明確に現われる。
  3. 「価値による剰余価値の産出が、過程のアルファとオメガ〔核心〕として表わされるだけでなく、光きらめく貨幣形態ではっきり表わされてる」
  4. 「貨幣資本の循環は、その一回だけの姿態で考察すれば、形態的には、価値増殖過程および蓄積過程だけを表わす。消費は、この循環のなかでは生産的消費としてだけG―W<Pm,Aによって表わされて」いる。販売W'―G'は、買い手側からは購買G―Wであり、商品W'は消費過程に入り込むが、W'を生産物とする個別資本の循環にははいり込まず、W'は販売されるべき商品として資本の「循環から突き出される」。

社会的総資本の循環形態としても通用する定式

産業資本がある事業部門から別の事業部門に移る場合にであろうと、それが事業からしりぞく場合にであろうと、新たに登場する資本がまず貨幣として前貸しされ、同じ形態で回収される限りでは、G…G'が産業資本の循環の特殊な形態になる。この形態は、はじめて貨幣形態で前貸しされる剰余価値の資本機能を含むのであり、剰余価値がそこで自己が生まれた事業とは別な事業で機能する場合にもっとも明確に現われてくる。G…G'は、一資本の最初の循環でありうる。それは、その最後の循環でありうる。それは、社会的総資本の形態として通用しうる。それは、新たに投下される資本――貨幣形態で新たに蓄積された資本としてであれ、一生産部門から他の生産部門に移されるために全部貨幣に転化される旧来の資本としてであれ――の形態である。[65]

資本は労賃支払手段として貨幣形態をとらなければならない

まさしく貨幣資本は、剰余価値を生む資本部分すなわち可変資本のために……G…G'を行なう。労賃の前貸しの正常な形態は、貨幣での支払いである。……労働者にたいしては、資本家は絶えず貨幣資本家として、また彼の資本は貨幣資本として、相対さなければならない。ここでは、生産諸手段の購買と生産用諸商品の販売の場合のように直接または間接の決済(その結果、貨幣資本の大部分は実際に商品の形態でのみ現われ、貨幣は計算貨幣の形態でのみ現われ、そして最後に差額の決済のためにのみ現金が現われる)を行なうことはできない。他方では、可変資本から生じる剰余価値の一部分は資本家によって彼の私的消費のために支出されるが、この消費は小売取引に属し、どのような回り道をするにせよ、現金で、剰余価値の貨幣形態で、支出される。剰余価値のこの部分がどんなに大きかろうと小さかろうと、事態になんの変わりもない。[66]

貨幣資本循環定式の形態自体がもたらす“幻惑”

G'=G+gという結果をともなう定式G―W…P…W'―G'は、その形態のうちに欺瞞を含み、幻惑的性格――前貸しされて増殖された価値がその等価形態すなわち貨幣で定在することから生じる幻惑的性格――を帯びている。〔この定式の〕力点は、価値の増殖にあるのではなく、この過程の貨幣形態に、最初に流通に前貸しされたよりも多くの価値が最後に貨幣形態で流通から引き出されるということに、したがって資本家に帰属する金銀量の増加に、ある。[66]

いわゆる重金主義は、没概念的形態G―W―G'の表現……にすぎない。これに反して、G―W…P…W'―G'は、唯一の形態として固定されて、より発展した重商主義の基礎をなしている……。[66]

このなかで、「重金主義」「重商主義」についてのマルクスの指摘がよく理解できなかったので、『社会科学総合辞典』(新日本出版社)で該当語彙の説明を参照。

重商主義
……その初期の学説である重金主義は、封建制度下のもっとも主要な財産であった土地にたいして、新しい富である金および貨幣の獲得を第1の目標とした。貨幣を重視する考え方は、後期の、本来の意味での重商主義にもひきつがれた。しかし、重金主義者が、すべて買うことは貨幣をへらし、売ることは貨幣をふやすと考えていたのにたいして、重商主義者……は貨幣がより多くの貨幣を生むことを知っており、貨幣を資本としてとりあつかい、貿易差額の超過分としての貨幣の獲得をめざした。……

貨幣資本循環定式の形態自体がさし示す他の諸形態

G―W…P…W'―G'の幻惑的性格と、この定式に照応した幻惑的解釈とは、この形態が流動的な絶えず更新されるものとしてでなく一度だけのものとして固定されるやいなや、それゆえ、この形態が循環の諸形態の一つとしてでなくそれの唯一の形態とみなされるやいなや、そこに現われてくる。しかし、この形態は、それ自身、他の諸形態をさし示す。[67]

この循環は、第一に、第一の局面G―Wの段階ですでに、生産過程を資本の機能として想定しており、第二に、循環が反復されることで貨幣形態への復帰が反復されるから、「貨幣での絶え間ない再前貸しは、それの貨幣としての絶え間ない復帰と同じく、それ自身、循環のなかで消えうせていく諸契機にすぎないものとして現われ」「G―Wは消えうせて、Pに席を譲る」

第三に、……すでに循環の第二の反復にさいして、Gの第二の循環が完了するまえに、P…W'―G'・G―W…Pという循環が現われ、……その後のすべての循環はP…W'―G'・G―W…Pという形態のもとで考察されうるのであり、そのため最初の循環の第一局面としてのG―Wは、つねに反復する生産資本の循環の〔ための〕消えうせていく準備をなすにすぎない……。[67]

他方では、Pの第二の循環が完了するまえに、最初のW'―G'・G―W…P…W'(簡略にすればW'…W')という循環、すなわち商品資本の循環が進行している。このように、第一の形態はすでに他の両形態を含んでおり、こうして貨幣形態は、それが単なる価値表現ではなく、等価形態すなわち貨幣での価値表現である限り、消えうせる。[67]

最後に……産業資本の循環の一般的形態は、資本主義的生産様式が前提されている限りでは、したがって資本主義的生産によって規定されている社会状態の内部では、貨幣資本の循環である。それゆえ資本主義的生産過程は、一つの“先行条件”として前提されている。……この生産過程の絶え間のない定在は、絶えず更新されるP…Pという循環を想定する。[68]



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