第1部:資本の生産過程

第4篇:相対的剰余価値の生産

第12章:分業とマニュファクチュア

第4節
マニュファクチュア内部の分業と社会内部の分業



各々のマニュファクチュア作業場での分業と、それらを包括している社会のなかでの分業とは、どのような関連があるのか。

マルクスはまず、「労働そのものだけを眼中におくならば」と前提したうえで、「一般的分業」「特殊的分業」「個別的分業」の三種の分業を指摘している。下の引用は、マルクスが参考にした文献。

注(50)「われわれは、ある程度の文明に達している諸国民のもとでは、三種の分業に出会う。第一のものは、われわれが一般的分業と名づけるものであって、生産者を農業者、工業者、および商人に区別し、国民的労働〔原文は「産業」〕の三つの主要部門に照応する。第二のものは、特殊的分業と名づけうるものであって、各労働〔産業〕部門の種への分割である。……最後に第三の分業は、仕事の分割または本来の意味での分業と呼ばれるべきものであって、それは、個々の手工業や職業のなかで形成され、……たいていのマニュファクチュアと作業場のなかで地歩を占める分業である」スカルベク『社会的富の理論』、84、85ページ[371]

社会内部の分業の発展

マルクスは社会内部の分業の発展を「相対立する出発点から」分析している。一方では、一共同体内における「自然発生的な分業」、他方では、異なる共同体社会の接触によってはじまる生産物交換による分業の発生である。

ここでは、第2章で考察された「交換過程」の発展が概観され、つぎのように指摘されている。

交換は、諸生産部面の区別をつくり出すのではなく、異なる生産部面を関連させ、こうしてそれらを、一つの社会的総生産の多かれ少なかれ相互に依存し合う諸部門に転化させるのである。この場合、社会的分業は、本来異なっていて互いに独立している諸生産部面間の交換によって成立する。……

……生理的分業が出発点となっているところでは、直接の結びつきでつくられている一全体の特殊な諸器官が、相互に分解し、分裂し――この分裂過程にたいして、他の共同体との商品交換が主要な衝撃を与える――、自立化して、異なる労働の連関が商品としての諸生産物の交換によって媒介されるまでになる。[372-3]

原初の「家族」形態と「交換」のはじまりをめぐって

この項のなかで、マルクスは

一家族の(50a)内部で、さらに発展すると一部族の内部で、自然発生的な分業が、性や年齢の相違にもとづいて、すなわち純粋に生理学的な基礎の上で発生する[372]

と叙述しているが、この部分はその後の研究によって修正されるべき部分で、そのことは注(50a)でエンゲルスがつぎのようにのべている。

注(50a)――人類の原始状態にかんするその後のきわめて徹底的な研究によって著者の達した結論によれば、本源的には、家族が部族に発達したのではなく、その逆に、部族が、血縁関係にもとづく人類社会形成の本源的な自然発生的形態であった。したがって、部族的きずなの解体が始まってから、あとになってはじめて、いろいろと異なる家族諸形態が発展したのである。[373]

ここでエンゲルスが「著者の達した結論によれば」としている「著者」とはもちろんマルクスのことを指しているのであるが、マルクスは草稿ノートにその考察や「結論」を書いてはいても、マルクス自身のこの問題に関するまとまった著書はない。いま私たちは、エンゲルスの詳細な研究による著書(『家族、私有財産および国家の起源』)で、そのまとまった考察と「結論」を読むことができる。

また、ここでは、第2章「交換過程」で考察された、異なる「共同体あるいはその成員」間の接触による交換のはじまりをめぐって、その必然性が分析されている。

異なる共同体は、それぞれの自然環境のなかに、異なる生産手段や異なる生活手段を見いだす。それゆえ、これら共同体の生産様式、生活様式、および生産物は異なっている。この自然発生的な相違こそが、諸共同体の接触のさいに、相互の生産物の交換を、それゆえこれら生産物の商品へのゆるやかな転化を、引き起こす。[372]

社会の人口・密度と分業

あらゆる発達した、商品交換によって媒介された、分業の基礎は、都市と農村との分離である。

マニュファクチュア内部の分業にとっては、同時に使用される労働者の一定数がその物質的前提をなすのと同じように、社会内部の分業にとっては、人口の大きさとその密度……とが物質的前提をなす。とはいえ、この人口密度は相対的なものである。交通手段の発達している相対的に人口の希薄な地方は、交通手段の発達していない人口のより多い地方よりも、稠密な人口をもっているのであって、この意味では、たとえばアメリカ合衆国の北部諸州は、インドよりも人口が稠密である。[373]

社会的分業への反作用――分業の地域的人的「骨化」

よく「市場経済」という言葉を「資本主義」と同義語のように用いる人がいるが、それは不正確である。いわゆる「市場」は生産物が商品として売り買いされ、流通する場をいうのであるが、この商品生産、商品流通がはじまったのは、はるか紀元前の時代にまでさかのぼる。「市場経済」というときには商品生産や流通がその社会全体に支配的なものになっているという意味で用いられ、とくに貨幣流通をともなう経済活動へと発展している段階をいうのであるが、そのような経済社会は、資本主義社会以前にすでに長期間にわたって存在していた。日本においては貨幣による商品流通の発達はたいへんゆっくりとしたテンポであったが、それでも平安時代末期からすでにはじまっており、とくに江戸時代中期以降急速に発展している。現代の「市場経済」はむしろ「資本主義的市場経済」とでも言うべきか。マルクスが原書ページ[374]で「商品生産および商品流通は、資本主義的生産様式の一般的前提である」と述べている部分は、第1部第4章第3節「労働力の購買と販売」のなかの考察が前提となっている(原書ページ[184])。

さて、商品生産、商品流通が発展してゆくと、すなわち商品交換が発展してゆくと、上で分析されたように、その社会内部の分業が発展してゆく。社会的分業の一定の発展がマニュファクチュア生成の前提であるが、こんどはマニュファクチュアにおける分業の発展が、社会的分業に「反作用」する。

労働諸用具の分化とともに、これらの用具を生産する職業がますます分化する。これまで本業または副業として他の諸職業と連関させながら、同じ生産者によって営まれていたある職業が、マニュファクチュア的経営によってとらえられると、ただちに分離と相互の自立化とが生じる。また、マニュファクチュア的経営がある商品の一つの特殊な生産段階をとらえると、その商品のさまざまな生産段階がさまざまな独立の職業に転化する。……製品が、部分生産物を単に機械的に組み合わせてつくられた全体にすぎない場合、部分労働は、ふたたび自己を独自な諸手工業に自立化しうる。マニュファクチュアの内部で分業をより完全に行なうために、同じ生産部門が、その原料の相違に応じて、または同じ原料がとりうる形態の相違に応じて、さまざまな――部分的にはまったく新しい――マニュファクチュアに分裂させられる。[374]

地域的分業は、特殊な生産諸部門を一国の特別の地方に縛りつけるのではあるが、これはすべての特殊性を利用するマニュファクチュア的経営によって、新たな刺激を与えられる。……社会内部の分業は、社会の経済的領域のほかに、社会のあらゆる他の領域をもとらえ、いたるところで専業すなわち専門職のあの形成と人間分割の基礎をすえる[374-5]

植民地主義とマニュファクチュア

社会内部の分業のための豊富な材料をマニュファクチュア時代に提供するのは、マニュファクチュア時代の一般的実存諸条件の一部をなす世界市場の拡大および植民制度である。[375]

15世紀末から16世紀にかけて世界各地へ進出していったポルトガルやスペインの「大航海時代」には、西欧がアメリカ大陸にたどり着き、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama 1469-1524)によって喜望峰経由によるインド航路が開拓された。これらは、その後のオランダやイギリスなどをはじめとする西欧諸国によるアジア、アメリカの植民地化の開始を準備した。

この植民地化の実態の一端が、この節の注のなかにも叙述されている。この段落の前で「人口密度と交通機関の発展度合との関係」が述べられている部分に対応する注であるが、イギリスによるインドの植民地化の様子の一端がわかる。

注(53)1861年以来の綿花の大需要の結果、東インドのもともと人口の多いいくつかの地方で、米の生産を犠牲にして、綿花の生産が拡張された。それゆえ局部的な飢饉が発生した。なぜなら、交通機関の不完備、それゆえ物理的連絡の不完備のために、地方における米の不足が他の諸地方からの輸送によって補充されえなかったからである。[373]

綿花の大需要の結果、主食である米の生産を犠牲にして綿花生産を拡張したのは、当時のインド国民自身の貿易利潤追求による結果だったのだろうか。この注につけ加えられなければならないのは、この飢饉が、物理的連絡の不完備が直接的な原因だったとはいえ、もともとの自然発生的な地域分業の連関を断ち切り、飢饉発生の経済的「土台」をつくった、東インド会社を拠点にインドの植民地化をすすめていたイギリスの経済政策方針に遠因があるということだ。

ついでに関連していえば、いまや主食である米をはじめとする食料自給率を4割を切るところまで低めてしまった現代日本は、新たな植民地主義的国際経済戦略のもとに自国の利益優先をWTOなどのあらゆる国際機関を通じてつらぬこうとしている現代アメリカの新型の「植民地」ではなかろうか。ただし現代日本の場合は、日本国政府が甘んじてその自国にとっては屈辱的戦略を、屈辱的だとは感じないまま積極的に受け入れているのではあるが。その日本国自身も、かの第二次世界大戦時、アジア諸国において、軍事優先の植民地主義的経済政策による飢饉発生を引き起こし、多数の人びとを餓死させている。

マニュファクチュア内部の分業と社会内分業とのちがい

社会の内部における分業と作業場内部の分業とのあいだには数多くの類似および諸連関があるにもかかわらず、この両者は、ただ程度が異なるだけでなく、本質的にも異なっている。[375]

商品として生産されるかいなか

社会の内部における分業は、さまざまな労働部門の生産物の売買によって媒介されており、マニュファクチュアにおける諸部分労働の連関は、同一の資本家にさまざまな労働力が販売され、その資本家がこれらを結合労働力として使用することによって媒介されている。[376]

マルクスは第1部第1章第2節「商品に表わされる労働の二重性」のなかで、分業といっても、社会内部のそれと工場内でのそれはちがうと指摘していた。その節でも指摘されていたもっとも本質的なちがいは、それぞれの分業部門で生産される製品が商品として生産されるのかいなかである。

古典派経済学の巨頭の一人であるアダム・スミス(Adam Smith 1723-1790)が、社会内部の分業を「大マニュファクチュア」注(57)[377]と評し、マルクスが指摘しているように

社会的分業は、ただ主観的に、すなわち観察者にとってのみ、マニュファクチュア的分業と区別されるにすぎず、マニュファクチュア的分業の場合、観察者は多様な部分労働をひとめで空間的に見渡すが、社会的分業の場合には、広い面積にわたって部分労働が分散しており、各特殊部門の従業者が多数であるため、その連関が見えにくくされている[376-377]

と「思い込」んでいたわけである。この分業にかんする観点をめぐる批判的指摘が、すでに第1部第1篇「商品と貨幣」で行なわれていたわけだ。とくに、第1章第2節「商品に表わされる労働の二重性」の節で指摘されていたことは、重要だと思う。この「商品における労働の二面性」こそ、古典派経済学の巨頭たちがたどり着き得なかった認識だったし、この発見こそが、「人間労働一般」と「労働力の価値」の分析を可能にし、したがって、商品交換の発展過程そのものの科学的認識が可能となり、分業の発生をめぐる認識も発展したからである。

市場経済の法則のはたらき方のちがい

そしてマルクスはこの指摘にとどまらず、社会的分業と個々の工場内での分業とのちがいを、「市場経済」のもつ根本的矛盾の観点から分析している。

商品交換が成立するためには、個々の商品生産者たちにそれぞれ生産手段が分散していることが前提となる。その前提の上に商品交換が発展し、マニュファクチュアのように、ある特定の商品生産者のもとに生産手段が集中する段階にいたっているわけである。すなわち、

マニュファクチュア的分業は、一人の資本家の手に生産手段が集中されることを想定しており、社会的分業は、相互に独立的な多数の商品生産者たちのあいだに生産諸手段が分散することを想定している。[376]

マルクスは第1部第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」で、個々の商品生産者と社会的分業との関係を考察した。商品生産、商品流通が支配的な社会においては、個々の私的な商品生産活動が総体として社会的分業をなしている。このことから市場経済の強制的法則――価値法則が作用する。この強制的法則が、マニュファクチュアが発生している段階ではどのように作用するのか。

一方で、各商品生産者はある使用価値を生産し、したがってある特殊な社会的欲求を充足しなければならないのであるが、これらの欲求の範囲は量的に相違している。それで、一つの内的なきずながさまざまな欲求群を一つの自然発生的体系に連結することによって、生産部面の均衡が保たれる。他方では、社会がその処分しうる全労働時間のうち、特殊な商品種類のそれぞれの生産にどれだけ支出しうるかを商品の価値法則が規定するということによって、右の均衡が保たれる。しかし、均衡を保とうとするさまざまな生産部面のこの絶え間ない傾向は、この均衡の絶え間ない破壊にたいする反作用としてのみ働く。作業場の内部における分業にあっては“先天的”に計画的に守られる規則が、社会の内部における分業にあっては、市場価格のバロメーター的変動において知覚されうる、商品生産者たちの無規則な恣意を圧倒する、内的な、無言の、自然必然性として、ただ“後天的”にのみ作用する。[377]

このあとのマルクスの指摘はたいそう皮肉がまじっている。自分が所有する個々の工場内で無条件の権威をもっている資本家たちが、彼ら相互の関係では、競争原理――市場経済の価値法則のもとで、つねに「弱肉強食」のるつぼのなかにいるということ。

マルクスの皮肉のなかには、資本主義的生産様式をのりこえたさきに展望されている生産様式の本質についてふれている部分がある。「社会的生産過程のあらゆる意識的な社会的管理および規制」、「社会的労働のあらゆる一般的組織」は「全社会を一つの工場に転化するものであるということ」。

マニュファクチュア的分業、細目作業にたいする労働者の終生の従属、および資本のもとへの部分労働者たちの無条件的隷属を、労働の生産力を高める労働組織として賛美するその同じブルジョア意識が、社会的生産過程のあらゆる意識的な社会的管理および規制を、個別的資本家の不可侵な所有権、自由、および自律的な「独創性」への侵害として、同じように声高く非難する。工場制度の熱狂的な弁護者たちが、社会的労働のあらゆる一般的組織にたいして、それは全社会を一つの工場に転化するものであるということ以外になんの憤懣をも述べえないということは、きわめて特徴的である。[377]

社会的分業の発展過程のなかの位置づけ

つぎにマルクスは、商品交換の発展のそれぞれの段階における、社会的分業と作業場内分業との関係を考察している。そのなかで、つぎの第5節につながる、マニュファクチュア的分業の歴史的位置づけを明らかにしようとしている。

資本主義的生産様式の社会においては、社会的分業の無政府性とマニュファクチュア的分業の専制とは相互に制約し合っているのであるが、職場の特殊化が自然発生的に発展し、次いで結晶し、最後に法律的に確定された以前の社会諸形態は、これに反し、一方では、社会的労働の計画的かつ権威的な組織の姿を示すが、他方では、作業場内部の分業をまったく排除するか、または、それをきわめて小規模にしか、もしくは散在的かつ偶然的にしか、発展させない。[377-8]

「古インド的共同体」における分業

注によれば、ここで叙述されているインドの共同体社会は、17世紀初頭に発行された『インド南部の歴史的概要』と17世紀中葉に発行された『近代インド』による。どちらもイギリスはロンドンで発行されている。当時インドの植民地化をすすめていたイギリスの知識人層によって観察された、“当時の”インド社会の叙述である。

16世紀末から17世紀のインドと言えば、すでに統一国家としていくつかの政変、王朝の交替を経験している地域である。だからマルクスがここで引用している共同体社会は、明らかに氏族社会が崩壊した後の社会であり、それでも「部分的にいまなお存続している」「太古的な小さいインド的共同体」のことである。「太古的」であり「インド的」であると形容されているとおり、厳密に言えば、氏族社会的要素はもっているものの、すでに商品交換が支配的になっている社会のなかに存続している共同体であるから、マルクスはきちんとそのことを念頭において、この社会の叙述を分析しているものと思われる。それでも、先んじて氏族共同体が崩壊して久しいイギリス社会から見て、当時のインド社会にのこる「共同体」には、往古の氏族社会的要素が、より色濃く見いだされたことだろう。

この共同体は、「土地の共同所有と、農業と手工業との直接的結合と固定的分業を基礎として」いる。

この共同体は、自給自足的な総生産体をなしており、その生産領域は、100エーカーから2、3000エーカーにいたるまでさまざまである。生産物の大部分は、共同体の直接の自家需要のために生産され、商品として生産されるのではなく、それゆえ生産そのものは、商品交換によって媒介されるインド社会の分業全体から独立している。生産物の余剰だけが商品に転化されるのであり、この余剰の一部もまた、大昔から一定分量が現物地代として流入する国家の手によって、はじめて商品に転化する。インドでは、地方が異なれば共同体の形態が異なる。もっとも単純な形態では、共同体が土地を共同で耕作し、その生産物を成員のあいだに分配する[378]

社会組織としてかなり整備され洗練された社会内分業が行なわれていることが、さきに紹介した2つの記録によって詳細に描かれている。この共同体のなかにはもちろん鍛冶屋、大工、陶工、銀細工師などがおり、それぞれの作業場がある。ただし、

この共同体の機構は計画的分業を示してはいるが、そのマニュファクチュア的分業は不可能である。というのは、鍛冶屋や大工などの市場は不変のままであって、せいぜい、村の大きさの相違に応じて、鍛冶屋や陶工が1人でなく2人か3人いるといったぐらいのものだからである。[379]

インド的共同体内の作業場がしたがうべき強制力は、その共同体内の成員が必要なそれぞれの生産物を必要な量だけつくるという「自給自足的」法則なのである。作業場を牛耳る職人には、ただただ自分が代々継承してきた専門技能を、その共同体内の目的と必要量に応じて発揮することが求められているのである。これらの作業場は、共同体社会の枠組みによって、まだ商品交換市場に完全にはのみこまれてはいない。

「アジア諸社会の不変性の秘密」をめぐって

つぎの考察は、「古インド的共同体」の再生産をめぐるものだが、たいへん興味深い。

注(61)「この単純な形態のもとで……この国の住民たちは大昔から生活してきた。村々の領域の境界は、まれにしか変更されなかった。そして村々は、たびたび戦争や飢饉や疫病に襲われ、荒らされさえしたが、同じ名称、同じ境界、同じ利害、および同じ家族さえもが、幾世代を通じて存続してきた。住民たちは、王国の崩壊や分割によってはわずらわされない。村が分割されない限り、村がどんな権力に引き渡されるか、どんな主権者の手に帰するかは、彼らにとっては、どうでもよい。村の内的経済は、変わらないままである」(元ジャワ副総督Th・スタンフォド・ラッフルズ『ジャワの歴史』、ロンドン、1817年、第1巻、285ページ)。[379]

この自給自足的な共同体の単純な生産有機体は、アジア諸国家の絶え間のない崩壊と再建ならびに絶え間のない王朝交替といちじるしい対照をなしているアジア諸社会の不変性の秘密をとく鍵を提供する。社会の経済的基本要素の構造は、政治的霊界の嵐によって影響されないのである。[379]

雑感的印象であるが、このなかで「村が分割されない限り」、すなわち共同体の経済基盤である土地や居住圏域が分割されない限りにおいて、この共同体は不変的に存続しえたという分析をめぐって。現代日本の先を争っての「合併」競争や、アフリカにおいて宗主国によって経度と緯度にもとづき机上でひかれた国境線のために、それら植民地が独立主権国家となったいまなお起こっている悲劇の数々を想う。

中世西欧におけるギルドと商人資本

ギルド(同職組合)の規則によって、各「親方」の使用する職人の数が制限されていたため、労働力の集中とそれらを効率的に消費するための生産手段の集中も、おのずから制限されていた。一方、すでに存在していた商人階層は、手工業製品の売りさばきのための役割を果たしていたものの、労働者が各々の親方の徒弟として作業場内に、人的関係でも労働過程の面でも強く拘束されていたために、労働力を商品として買うことはできなかった。

それでもその社会の外部からの、あるいは作業場間相互の刺戟から、社会のなかでの分業がすすみうる。しかし、その場合でも、ギルドの枠組みは、既存のギルドの亜種を生みだすか、新たなギルドを、以前のギルドと共存させるにとどめ、やはり、生産手段や職人たちの集中が行なわれることがなかった。

同職組合組織は、その職業の特殊化、分立化、および完成がどんなにマニュファクチュア時代の物質的実存諸条件の一部になるとはいっても、マニュファクチュア的分業を排除した。一般に、労働者と彼の生産諸手段とは、カタツムリとその殻のように、相互に結合されたままであり、したがってマニュファクチュアの第一の基礎、すなわち労働者に対立する資本としての生産諸手段の自立化が、欠けていた。[380]

したがって――とマルクスはつぎのように結論づける。このように、商品交換過程の発展にともなう分業を、社会全体と、その内部のおのおのの作業場、相互の関連を概観すると、マニュファクチュア的分業があくまで、ある特定の経済的要因をもつ歴史的分業形態であり、資本の存在ぬきには考察されえないものであると。

一社会全体のなかでの分業は、商品交換によって媒介されていてもいなくても、きわめてさまざまな経済的社会構成体に存在するのであるが、マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産様式のまったく独自な創造物である。[380]



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