第1部:資本の生産過程

第1篇:商品と貨幣

第2章
交換過程



商品を交換関係のなかに関連させるためには、なにより、そういう行為を意図する商品所有者が存在しなければならない。また、おのおのの商品所有者たちが交換する商品をどうこうする権利を、彼ら自身が確かにもっているということが前提となるし、交換し合う商品所有者たちの双方が、自分の商品を相手に譲渡することで他人の商品を自分の物にするのだ、という共通の意志をもっていることが前提されていなければならない。この契約関係は、商品生産社会の経済的関係が反映された、意志関係である。

これまでに分析してきた、価値形態のあり方、価値関係は、実際に商品所有者たちのあいだの関係をどのように反映しているのだろうか。

商品にとっては、他のどの商品体も、その商品の価値の現象形態としての意義しかもたない。商品所有者にとっては、彼自身の商品には直接的な使用価値はない。むしろ、彼の商品体の具体性は、彼以外の他人にとっての使用価値である。だから、商品所有者にとっては、彼の商品は、ただ交換価値の担い手であり、交換手段という使用価値をもっているだけである。

すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値である。したがって、これらの商品は、全面的に持ち手を変換しなければならない。ところが、この持ち手の変換が諸商品の交換なのであって、またそれらの交換が諸商品を価値として互いに関連させ、諸商品を価値として実現する。それゆえ、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない。[100]

他面では、諸商品は、みずからを価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない。というのは、諸商品に支出された人間的労働が、それとして認められるのは、この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、それゆえその生産物が他人の欲求を満足させるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることである。[100]

商品所有者にとって、交換過程は2つの面をもっている。一面では、交換は彼にとって個人的な過程である。なぜなら、商品所有者は、自分の欲求を満たす使用価値をもっている別の商品としか自分の商品を引き換えようとはしないからである。他面、交換は彼にとって社会的過程である。なぜなら、彼自身の商品が他の商品所有者にとって使用価値をもっているかいないかにかかわりなく、同じ価値をもつ他のどの商品ででも価値を実現しようとするからである。しかし、また、この交換過程は、すべての商品所有者にとって、同時に個人的であるとともに一般的社会的であるということは、ありえない。

すなわち、商品所有者にとって、他人の商品は自分の商品の特殊的等価形態として存在し、自分の商品は他のすべての商品の一般的等価形態として存在するが、すべての商品所有者が同じことを行なうのだから、どの商品も一般的等価形態とはなりえないし、それぞれの商品はそれらの価値を表現するための一般的相対的価値形態をもっていない。商品は商品として相対しているのではなく、たんに使用価値として、生産物として相対しているのである。

彼らは、彼らの商品を一般的等価物としての他のなんらかの商品に対立的に関連させることによってしか、彼らの商品を価値として、商品として、互いに関連させることができない。このことは、商品の分析が明らかにした。だが、もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価物にすることができる。だから、他のすべての商品の社会的行動がある特定の商品を排除し、この排除された商品によって他のすべての商品はそれらの価値を全面的に表示するのである。これによって、この排除された商品の自然形態が社会的に通用する等価形態となる。一般的等価物であるということは、社会的過程によって、この排除された商品の独特な社会的な機能となる。こうして、この商品は――貨幣となる。[101]

貨幣結晶は、種類を異にする労働生産物が実際に互いに等置され、それゆえ実際に商品に転化される交換過程の必然的産物である。交換の歴史的な拡大と深化は、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を発展させる。交易のためにこの対立を外的に表示しようとする欲求は、商品価値の自立的形態へと向かわせ、商品と貨幣とへの商品の二重化によってこの自立的形態が最終的に達成されるまでとどまるところを知らない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が生じるのと同じ度合いで、商品の貨幣への転化が生じるのである。[102]

商品交換の歴史的発展過程

そのはじまり

商品交換のはじまりは、物々交換である。この直接的な生産物交換は、第1章で分析された価値形態Aの等式にあらわされた価値表現の形態をもっているが、ただし、交換のまえには商品ではないから、他面ではまだその形態をもってはいない。それはたんに使用対象として存在する。それは交換を通してはじめて商品となる。ある使用対象が、交換しうるものとなるためには、その使用対象が余剰生産物であり、その使用対象の所有者の「直接的欲求を超える分量の使用価値」となっていなければならない。

物はそれ自体としては人間にとって外的なものであり、それゆえ譲渡されうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人々は、ただ、黙って、その譲渡されうる物の私的所有者として、またまさにそうすることによって相互に独立の人格として、相対しさえすればよい。[102]

しかし、商品交換のはじまりに存在するであろう、氏族社会のような自然発生的な共同体社会の成員のあいだには、互いに他人である「私的所有者として、相互に独立の人格として、相対する」というような関係はない。だから、商品交換は、その共同体社会が、他の共同体または他の共同体の成員と接触するところではじまる。そして、その使用対象がいったん商品として対外的に機能しはじめると、それらのものは交換価値をもつものとして意識されるから、その共同体社会のなかでも商品となる。

この交換のはじまりでは、物と物とがどれだけの分量で取り引きされるかは、ケース・バイ・ケースである。そのうちに、他者の使用対象への欲求がしだいにたかまり、交換は反復される。すると、交換が規則的な社会的過程となり、その交換比率が固定されてくる。時の経過とともに、生産物の一部分が意図的に交換のために生産されるようになり、この瞬間から、その社会の生産物の有用性が、成員にとって直接的に必要な有用性と、交換のための有用性とに分離する。この瞬間から、これらの生産物の量的な交換比率は、生産物の生産される度合いに依存するようになる。

諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。[103]

物々交換の段階では、どの商品もその商品所有者にとっては交換手段であり、その商品をもっていない他の商品所有者にとっては、その商品が彼にとっての使用価値をもっている限りにおいて、等価物である。

したがって、交換品は、それ自身の使用価値または交換者の個人的欲求から、独立した価値形態をまだ受け取ってはいない。[103]

交易の発展と貨幣の登場そのはじまり

交易の実際では、さまざまな商品所有者の商品がその交易のなかで第三の商品種と交換され、価値として比較される過程がともなう。この第三の商品種は、他のさまざまな商品にとって等価物となることで、狭い範囲内においてにしろ、一般的社会的な等価形態を受け取る。

この一般的等価形態は、それを生み出す一時的な社会的接触とともに発生し、それとともに消滅する。この形態は、あれこれの商品に、かわるがわる、かつ一時的に帰属する。しかし、それは、商品交換の発展につれて、もっぱら特殊な種類の商品に固着する。すなわち、貨幣形態に結晶する。それがどのような種類の商品に固着するかは、さしあたり偶然的である。しかし、一般的には、二つの事情が決定的である。貨幣形態が固着するのは、外部からはいってくるもっとも重要な交易品――これは、事実上、内部の諸生産物がもつ交換価値の自然発生的な現象形態である――が、さもなければ、内部の譲渡されうる所有物の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものである。[103]

商品交換がそのもっぱら局地的な束縛を打破し、それゆれ商品価値が人間的労働一般の体化物にまで拡大していくのと同じ割合で、貨幣形態は、一般的等価物という社会的機能に生まれながらにして適している商品に、すなわち貴金属に、移っていく。[104]

金や銀などの物体的特性が貨幣のさまざまな機能に適していることは確かである。それらの貴金属が、貨幣として機能するのは、商品の価値の大きさが社会的に表現される材料として役立つからである。すなわち、どの一片をとってもみな均等な質をもっており、任意に分割することが可能で、その分割されたものがふたたび合成可能であるという属性をそなえているからである。

貨幣として機能しはじめた商品の使用価値は二面性を帯びる。一面では、たとえば金が虫歯の充填や、奢侈品の原材料などに役立つというような特殊的な使用価値を、他面では、貨幣としての独特な社会的機能から生じる形式的な使用価値を帯びる。

他のすべての商品は貨幣の特殊的等価物にほかならず、貨幣はこれらの商品の一般的等価物であるから、これらの商品は、一般的商品としての貨幣にたいして特殊的商品としてふるまう。[104]

貨幣形態をめぐるこれまでの経済学研究

貨幣形態は、他のあらゆる商品の関連の反映が、一つの商品に固着したものであって、「貨幣は商品である」というのは、完成された貨幣形態を分析した際の一つの発見ではあったが、それだけでは不十分である。

交換過程は、ある商品種に貨幣としての価値を与えるのではなくて、貨幣という独特な価値形態を与えるのである。この「価値」と「価値形態」という2つの規定の混同は、金や銀の価値は、想像的なものだという誤りを生んだ。また、貨幣が社会のなかで機能するうちに、一定量の貨幣が一定の章標で置き換えられうるようになることから、「貨幣は物の章標である」という誤った見方が生まれた。

他面、この誤りのうちには、物の貨幣形態はその物自身にとって外的なものであり、その背後に隠されている人間の諸関係の単なる現象形態にすぎないという予感があったのである。この意味では、どの商品も一つの章標であろう。なぜなら、どの商品も、価値としては、それに支出された人間的労働の物的外皮にすぎないからである。[105]

しかし、一定の生産様式の基礎上で、諸物が受け取る社会的諸性格、あるいは労働の社会的諸規定が受け取る物的諸性格を、単なる章標として説明するとすれば、そのことによって同時に、それらの性格を人間の恣意的な反省の産物として説明することになる。これこそは、その成立過程がまだ解明されえなかった人間的諸関係の謎のような姿態から少なくともさしあたり奇異の外観をはぎ取ろうとして、18世紀に好んで用いられた啓蒙主義の手法であった。[106]

第1章で分析されたように、ある商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。だから、たとえば金が貨幣である場合、金が他のすべての商品と直接的に交換されうるものであるからといって、それだけでは10ポンドの金の価値の大きさを規定することはできない。貨幣である金も、それ自身の価値の大きさを表現するには、他のさまざまな商品を対応させなければならない。貨幣である金そのものの価値は、それが生産されるのに必要な労働時間によって規定されるのであり、それと同量の労働力の支出によってつくりだされた他の商品の一定量で表現される。貨幣である金の相対的価値の大きさは、それが産出される場所での金としての直接的な交換取引のなかで確定される。

すでに17世紀の最後の2、30年間に貨幣分析の端緒はかなり進んでいて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、なにによって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。[107]

貨幣物神の謎は、その背後にある商品物神の謎にほかならない

われわれが見たように、すでにもっとも簡単な価値表現、x量の商品A=y量の商品Bにおいても、他の一つの物の価値の大きさがそれによって表わされる物は、その等価形態を、この関連から独立に社会的自然属性としてもっているかのように見える。われわれはこの虚偽の外観の確立を追求した。一般的等価形態が、ある特殊な種類の商品の自然形態に癒着したとき、あるいは貨幣形態に結晶したとき、この外観は完成する。他の諸商品がその価値を一商品によって全面的に表示するので、その商品ははじめて貨幣になるのだとは見えないで、むしろ逆に、その商品が貨幣であるからこそ、他の諸商品はその商品で一般的にそれらの価値を表示するかのように見える。媒介する運動は、それ自身の結果のうちに消失して、なんの痕跡も残さない。諸商品は、みずから関与することなく、自分たち自身の価値姿態が、自分たちの外に自分たちとならんで実存する一商品体として完成されているのを見いだす。金や銀というこれらの物は、地中から出てきたままで、同時に、いっさいの人間的労働の直接的化身なのである。ここから、貨幣の魔術が生じる。人間の社会的生産過程における人間の単なる原子的なふるまいは、それゆえまた人間の管理や人間の意識的な個人的行為から独立した彼ら自身の生産諸関係の物的姿態は、さしあたり、彼らの労働生産物が一般的に商品形態をとるという点に現われる。だから、貨幣物神の謎は、目に見えるようになった、人目をくらますようになった商品物神の謎にほかならない。[107-108]



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