第1部:資本の生産過程
第2篇:貨幣の資本への転化
第4章
貨幣の資本への転化
貨幣の価値の変化は、流通運動「貨幣―商品―貨幣」の、いったいどこで生じているのだろうか。これまでの考察ではっきりしていることは、(1)貨幣の価値変化は貨幣そのものには起こりえないということ。
貨幣は、それが買いまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、他方では、貨幣は、それ自身の形態にとどまっている場合には、同じ不変な大きさの価値をもつ化石に凝固するからである[181]
また、(2)第二の局面「商品―貨幣」、すなわち商品の再販売にも価値の変化は起こりえないということ。
この行為は、商品を自然形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである[181]
そして、(3)第一の局面「貨幣―商品」によって買われた商品の価値自体にも変化は起こりえないということだ。
というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるからである[181]
それでは、いったい、どこに価値の変化が起こる契機があるのだろうか。ここでマルクスは、これまで考察されなかった間隙をついたのである。
したがって、この変化は、その商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生じうるのみである[181]
商品の購買と、その商品の再販売との間隙。しかし、消費そのものが価値を生む商品などというものが市場において、すなわち流通の内部において存在するのだろうか。貨幣所有者は、その商品を見つけたのであった。それが「人間の労働能力または労働力」という商品である。この商品は独特な性質をもつ商品である。マルクスはその特徴を次のように表現する。
それの使用価値そのものが価値の源泉であるという独自な性質をもっている一商品……したがってそれの現実的消費そのものが労働の対象化であり、それゆえ価値創造である一商品[181]
マルクスは「労働力または労働能力」を次のように定義する。
人間の肉体、生きた人格性のうちに実存していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するそのたびごとに運動させる、肉体的および精神的諸能力の総体[181]
しかし、私は、はたと立ち止まる。さきに、第2節のなかで考察された、流通の外部での長靴の生産過程の例を思い出してみよう。“彼”は革を加工することによって長靴をつくった。長靴は革よりも多くの労働分量を含むためにより多くの価値をもっている。それなら、貨幣所有者が、革という商品を買って、自分自身で長靴に加工し、再販売すれば、価値の自己増殖とはならないのだろうか。生産するさまざまな手段と切り離された、「肉体的、精神的諸能力」という形態で存在する、ある独特の商品である「労働力」をわざわざ市場で購買する必要はないのではないか。
しかし、また私は反省的に考える。それでは、流通「商品―貨幣―商品」という循環運動となんら変わらなくなってしまう。長靴という、革よりも多くの価値をもつ商品の再販売によって貨幣所有者の手に還流するのは、長靴と等価である貨幣量であるにはちがいないが、貨幣所有者自身の労働の苦労は、革の価値量とそれに彼自身が加えた労働量との総体と等価で交換される貨幣量でむくわれるにすぎない。これは、価値の自己増殖とはまったく異なる流通運動である。
やはり、貨幣所有者は、自分とは異なる人格の「労働力」を市場で、すなわち、商品として見いだし、購買し、消費しなければならないのだ。つまり、自分で生産した商品を再販売するのではなく、自分が買った商品に他人の「労働力」という商品の消費による加工をへたのちに、その商品を再販売しなければならないのだ。
この商品が、商品として市場で見いだされるには、これまで私たちが見てきた商品生産者とは別の人びとを想定しなければならない。これまで私たちが見てきた商品生産者たちは、さきほどの長靴製造者のような人びとであり、みずからの労働力を分化する必要のない人びとであった。私たちがここで出会う人びとは、自らの労働能力を商品として意識的に分化して、市場に投入することのできる、人格と環境との自由を前提とする人びとだ。
商品としての労働力は、ただ、労働力がそれ自身の所有者によって、すなわちそれが自分の労働力である人によって、商品として売りに出されるかまたは売られる限りにおいてのみ、またそのゆえにのみ、市場に現われうる。労働力の所有者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって自分の労働能力、自分の人格の自由な所有者でなければならない。労働力の所有者と貨幣所有者とは、市場で出会って互いに対等な商品所有者として関係を結ぶのであって、彼らが区別されるのは、一方が買い手で他方が売り手であるという点だけであり、したがって両方とも法律上では平等な人格である。この関係が続いていくためには、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売ることが必要である。というのは、もし彼が労働力をひとまとめにして全部一度に売り払うならば、彼は自分自身を売るのであって、自由人から奴隷に、商品所有者から商品に、転化するからである。人格としての彼は、自分の労働力を、いつも自分の所有物、それゆえまた自分自身の商品として取り扱わなければならない。そして、彼がそうすることができるのは、ただ、彼がいつでも一時的にだけ、一定の期間だけに限って、自分の労働力を買い手の処分にまかせて消費させ、したがって労働力を譲渡してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないという限りのことである[182]
貨幣所有者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的条件は、労働力の所有者が、自分の労働の対象化された商品を売ることができないで、自分の生きた肉体のうちにのみ実存する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならない、ということである[183]
貨幣を資本に転化させるためには、貨幣所有者は商品市場で自由な労働者を見いださなければならない。ここで、自由な、と言うのは、自由な人格として自分の労働力を自分の商品として自由に処分するという意味で自由な、他面では、売るべき他の商品をもっておらず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいの物から解き放されて自由であるという意味で自由な、この二重の意味でのそれである[183]
貨幣所有者と「自由な」労働者とが市場で対等に向き合うことができるためには、それ相応の歴史的発展が必要であった。
自然は、一方の側に貨幣または商品の所有者を、他方の側に単なる自分の労働力の所有者を、生み出しはしない。この関係は自然史的関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的関係でもない。それは明らかに、それ自身、先行の歴史的発展の結果であり、幾多の経済的変革の産物、すなわち社会的生産の全一連の古い諸構成体の没落の産物である[183]
それゆえ、資本の運動が存在できる条件も歴史的なものだ、ということになる。マルクスは、これまで第1章から考察してきたさまざまな商品流通形態が、歴史的発展の実際に裏づけられているものであることを概括しながら、「資本の実存諸条件」が歴史的なものであり、資本主義の時代が、あくまで、社会的生産の歴史的発展過程のある一時期であることを指摘している。
生産物量の圧倒的大部分が直接に自家需要に向けられていて商品に転化していなくても、したがって社会的生産過程がその全体的な広さと深さの点でまだまだ交換価値に支配されているというにはほど遠くても、商品生産および商品流通は生じうる。商品としての生産物の出現は、社会的分業が十分に発展して、直接的交換取引においてはじめて始まる使用価値と交換価値との分離がすでに完成されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的にはなはだしく異なる経済社会諸構成体に共通のものである。
他方、貨幣を考察するならば、貨幣は商品交換の一定の発展程度を前提する。貨幣の特殊な諸形態――単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣――は、いずれかの機能の作用範囲の違いと相対的優越とに応じて、社会的生産過程のきわめて異なる諸段階を示している。にもかかわらず、経験によれば、これらのすべての形態が形成されるためには、商品流通の比較的わずかな発展で十分である。資本については事情は異なる。資本の歴史的な実存諸条件は、商品流通および貨幣流通とともに定在するものでは決してない。資本は、生産諸手段および生活諸手段の所有者が、みずからの労働力の売り手としての自由な労働者を市場で見いだす場合にのみ成立するのであり、そして、この歴史的条件は一つの世界史を包括する。それゆえ、資本は、最初から社会的生産過程の一時代を告示する[184]
さて、では、この、人間の労働力という独特な商品の価値は、どのように規定されるのだろうか。
労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じく、この独特な物品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。労働力そのものは、それが価値である限り、それに対象化された社会的平均労働の一定分量を表わすのみである[184-5]
労働力は、それがそれを所有する個人の全人格とは分化された形態で、商品として市場に投入されているとはいえ、生きた個人の資質として、その人間の存在自体とわかちがたく存在しているものである。
労働力はその発揮によってのみ自己を実現し、労働のなかでのみ確認される。しかし、労働力の確認である労働によって、人間の筋肉、神経、脳髄などの一定分量が支出されるのであって、それはふたたび補充されなければならない。この支出の増加は収入の増加を条件とする。労働力の所有者は、きょうの労働を終えたならば、あすもまた、力と健康との同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない[185]
だから、「労働力の生産に必要な一定の社会的平均労働量」ということの内容は、労働力を所有しているその個人の維持、または再生産に必要な一定の社会的平均労働量ということにある。ということは、その個人の維持、または再生産に必要な、一定量の生活手段の生産に必要な社会的平均労働量こそが、労働力の価値の大きさを規定するということになる。
生活諸手段の総量は、労働する個人を労働する個人として、その正常な生活状態で維持するのに足りるものでなければならない。食物、衣服、暖房、住居などのような自然的欲求そのものは、一国の気候その他の自然の独自性に応じて異なる。他面では、いわゆる必需欲求の範囲は、その充足の仕方と同様に、それ自身一つの歴史的産物であり、それゆえ、多くは一国の文化段階に依存するのであり、とりわけまた、本質的には、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、それゆえどのような慣習と生活要求とをもって形成されたか、に依存するのである。したがって、労働力の価値規定は、他の商品の場合とは対照的に、歴史的かつ社会慣行的な一要素を含んでいる。とはいえ、一定の国、一定の時代については、必要生活諸手段の平均範囲は与えられている[185]
人間は個体としては永遠に生存するわけではないが、種としては、自然環境がゆるすかぎり、生殖によって永遠に存在する。
したがって、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子どもたちの生活諸手段を含む[186]
第1章のなかで、マルクスは、労働の生産力を規定するさまざまな要因をあげていた。労働者の熟練度、科学の発展と技術応用度、生産過程の社会的結合度合い、生産手段の規模の大きさやその作用能力、自然環境の変化。労働力がそのときどきの「科学とその技術学的応用可能性との発展」度合いに応じた、生産手段の作用能力に適応するには、労働者の知識や技能の向上が必要になる。
一般的人間的な本性を、それが特定の労働部門における技能と熟練とに到達し、発達した独特な労働力になるように変化させるためには、特定の養成または教育が必要であり、それにはまたそれで、大なり小なりの額の商品等価物が費用としてかかる。労働力の性格がより複雑なものであるかないかの程度に応じて、その養成費も異なってくる。したがって、この修業費は、普通の労働力についてはほんのわずかでしかないとはいえ、労働力の生産のために支出される価値の枠のなかにはいっていく[186]
さて、労働力の価値が、一定の生活手段の価値量に相当するとすれば、このさまざまな生活手段の生産力の変動とともに、あるいは、生産に必要な労働時間の変動とともに、労働力の価値もまた変動することになる。
生活手段には、さまざまなサイクルをもって消費されるものがあるが、たとえば、ある一定期間、1日とか1カ月とかの、生活手段の価格の平均額が算出可能である。貨幣所有者が、それが、日割りであろうと、月割りであろうと、平均額と同価値を支払えば、労働力という商品を等価交換することを実現するわけである。
労働力の価値の最後の限界または最低限界をなすものは、日々その供給を受けなければ労働力の担い手である人間がその生活過程を更新しえないようなある商品総量の価値、すなわち、肉体的に必要不可欠な生活諸手段の価値である。もし労働力の価格がこの最低限にまで下がるならば、それは労働力の価値以下への低下である。というのは、その場合には労働力は、ただ萎縮した形態でしか維持され発揮されえないからである。しかし、あらゆる商品の価値は、その商品を標準的な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである[187]
ここでマルクスが指摘している内容のシビアさは、今日、私たちの眼前で、いたるところで実証されているわけだ。
労働能力が売れないならば、それは労働者にとってなんの役にも立たないのであり、彼は、自分の労働能力がその生産のために一定分量の生活維持諸手段を必要としたこと、そしてその再生産のために絶えず繰り返し新たにそれらを必要とすることを、むしろ冷酷な自然的必然時として感じるのである[187]
労働力を市場で売ることができなかった、その商品所有者を、今日も私たちはハローワーク、あるいは公園や橋げたの下で目にしている。
買い手と売り手のあいだに契約が結ばれても労働力の使用価値はまだ現実に買い手の手に移行していない……労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、それが流通に入るまえに規定されていた……が、労働力の使用価値は、そのあとで行なわれる力の発揮のなかではじめて存立する……販売による使用価値の形式的譲渡と買い手へのそれの現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣は、たいてい支払手段として機能する……労働者はどこでも、資本家に労働力の使用価値を前貸しする。労働者は、労働力の価格の支払いを受けるまえに、労働力を買い手に消費させるのであり、それゆえ、どこでも労働者が資本家に信用貸しする[188]
いまや私たちは、等価交換の運動のなかにありながら、その消費によって価値をつけ加え、等価交換による商品の再販売が新たな価値を含んだ貨幣量を貨幣所有者の手もとに還流させることのできる商品を見いだした。マルクスの提起した矛盾の解決の突破口は切り開かれた。
われわれは、いまでは、労働力というこの独自な商品の所有者にたいして貨幣所有者から支払われる価値がどのように規定されるかを知っている。この貨幣所有者自身が交換で受け取る使用価値は、労働力の現実の使用、すなわちその消費過程においてはじめて現われる。貨幣所有者は、原料その他のようなこの過程に必要なすべての物を商品市場で買い、それらに価格どおりに支払う。労働力の消費過程は、同時に、商品の生産過程であり剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じく、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。それゆえ、われわれも、貨幣所有者および労働力所有者と一緒に……流通部面を立ち去って、この二人のあとについて、生産という秘められた場所に……はいっていこう。ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけでなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもまた、明らかになるであろう[189]