第1部:資本の生産過程

第4篇:相対的剰余価値の生産

第12章:分業とマニュファクチュア

第3節
マニュファクチュアの二つの基本形態――
異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア



マルクスは、マニュファクチュアという協業形態の要素の考察から、この節でその「全体の姿」の考察に移る。まずマルクスは、その基本形態を二つに大きく分類することができるとし、その要因がマニュファクチュアによって生産される製品に依存していることを指摘している。

独立した部分諸生産物を単に機械的に組み合わせることによって形成されるか、または、一系列の関連する諸過程および諸操作によってその完成した姿態が得られるか[362]

異種的マニュファクチュア

上記の引用で「独立した部分諸生産物を単に機械的に組み合わせることによって形成される」製品として、マルクスがあげている典型例が「時計」。ここで取り上げられている、独立した部分生産物の製作にたずさわる「部分労働者」の名前は、主なものだけで実に34種類。

最後に、時計全体を組み立ててそれを動くようにして引き渡す“最終仕上げ工”。時計の諸部分のうちでごくわずかのものだけが、さまざまな人手を経るのであって、これら“引き裂かれたる四肢”のすべてがはじめて集められるのは、それらを最終的に一つの完全な機械に結合する人手のなかにおいてである。[363]

このような製品の場合には、それぞれの部品を生産している部門が、同一の工場内にある場合とない場合と、さまざまなケースがありうる。むしろ、とくに時計のような製品の場合、部品生産のそれぞれが個別に各々の特殊な形態と作業工程をもっているために、共同で使用される労働手段が限られる。マルクスはこの点を、「一般的」マニュファクチュアと比較して、つぎのように特徴づけている。

この場合、結合されたマニュファクチュア的経営は、例外的な諸関係のもとでのみ、有利である。なぜなら、自宅で作業したがる労働者たちのあいだで競争がもっとも激しいからであり、生産が多くの異種的過程に分裂しているため、共同の労働手段をほとんど使用しなくてすむからであり、また、資本家は、この分散した製造においては、作業用建物などの支出をはぶくことができるからである。[363]

マルクスはこの節のはじめに、マニュファクチュアの編成の基本形態のちがいをめぐって、つぎのように述べていた。

あとでマニュファクチュアが機械経営の大工業に転化するさいに、まったく異なる役割を演じる。

この「異種的マニュファクチュア」の項の分析を読んだときに、私の脳裏にうかんだのは、「大工業」が発展している現代日本における、トヨタ自動車の“看板方式”であった。

有機的マニュファクチュア

マルクスはこの形態を「マニュファクチュアの完成された形態」とよぶ。

マニュファクチュアの第二の種類、すなわちマニュファクチュアの完成された形態は、相連関する発展諸局面、すなわち一連の段階的諸過程を通過する製品を生産する。[364]

それぞれが独立した「作業」ではあっても、まったくことなる部分製品をつくるわけではなく、それぞれの独立した諸段階を経なければ完成しないような製品の場合――ここでは「縫い針」が例に取り上げられている。ここでもその部分労働者のたずさわる特殊労働の種類は実に「72種から92種」にわたるという。

形態も作業過程も異なる諸生産物の組立作業によって製品化される「異種的マニュファクチュア」とちがい、一連の諸段階を経て完成される製品の場合、それが個別に分散されて生産されるよりも、それらが結合され、同じ作業場で同時により大きな規模で一連の「部分労働」段階が展開されるとき、生産力が増すのはなぜか。マルクスは、その要因を主に

製品の個別的な生産諸局面のあいだの空間上の分離を少なくする。製品が一つの段階から他の段階に移行する時間が短縮され、これらの移行を媒介する労働も同様に短縮される[364]

という点にもとめている。同時にマルクスは、マニュファクチュアという協業形態がもつ二面性にもとづいて、つぎのように分析している。

こうして、手工業に比べ、生産力が増大する。しかもこの増大は、マニュファクチュアの一般的な協業的性格から生じるのである。他方、マニュファクチュアに固有な分業の原理は、さまざまな生産諸局面の分立化を生じさせ、それらは、同じ数の手工業的な部分労働として相互に自立化したものとなる。分立化させられた諸機能のあいだの連関を確立し維持するには、製品を一つの手から別の手に、また一つの過程から別の過程に絶えず運ぶ必要が生じる。このことは、大工業の立場からすれば、特徴的な、費用のかかる、マニュファクチュアの原理に内在する、限界性として現われる。[364]

「物流」雑感

この「物流」管理の問題は、この先どの辺りで考察されることになるのだろうか。現代資本主義においても、この物流、運送は、原料、中間的加工原料、そして完成製品などなど、いずれの段階でもたいへん重要な要素である。大量輸送交通網の発展や、それとならんで小規模な分散型輸送網の発達は、現代の複雑に多様化した生産システムのなかで、たいへん大きな役割を負っている。

マニュファクチュアの諸特徴

マルクスが「完成されたマニュファクチュア」とよんだ、この第二の種類「有機的マニュファクチュア」のもっている特徴が、いくつか指摘されている。

同時性

ある製品一つをとってみると、その原料から完成品にいたるまで、それぞれの段階でそれぞれの部分労働者の作業過程を経ているわけで、そうして見るかぎりでは、時間的経過にそくして、製品ができあがっていくわけである。しかし、

その作業場を一つの全体機構として見るならば、原料は、そのすべての生産諸局面に同時にそろって存在している。……さまざまな段階的諸過程が、時間的継起から、空間的並存に転化されている。それゆえ、同じ時間内により多くの完成商品が供給される。[365]

そしてこのことは、つぎに指摘されている特徴と関連している。

労働相互の直接的依存

一方の労働成果は、他方の労働の出発点をなす。それゆえこの場合、一方の労働者は、直接に他方の労働者に仕事を与える。それぞれの部分過程で目的とする有用効果を達成するために必要な労働時間は経験的に確定されるのであって、マニュファクチュアの全機構は、与えられた労働時間内に与えられた成果が達成されるという前提に立っている。この前提のもとでのみ、相互に補足し合うさまざまな労働過程が、中断することなく、同時にかつ空間的に並行して、続行できるのである。労働相互の、それゆえ労働者相互のこの直接的依存は、各個人にたいし自分の機能に必要な時間だけを費やすよう強制するのであり、そのため、独立の手工業の場合とは、または単純な協業の場合とさえも、まったく異なる労働の連続性、画一性、規則性、秩序、とりわけ労働の強度までもが、生み出される。[365-366]

与えられた労働時間内にどれだけ多くの製品を市場に供給できるか――これがマニュファクチュアの段階では否応なしにもとめられる。このことがつぎに指摘される特徴に関連する。

労働過程の量的規制と比例性の発展

指摘されてみれば確かにその通りである。マニュファクチュアによる分業は質の異なる労働の有機的連関からなりたっているのであるから、それぞれの部分労働の段階で供給される生産物の分量は、それぞれの部分労働すべてで必ずしも一様ではない。むしろ、労働時間もちがえば、供給される加工製品の量もちがう。

したがって、もし同じ労働者が毎日同じ作業だけを絶えず行なうとすれば、いろいろな作業にたいし、それぞれ異なる比例数の労働者が使用されなければならない。たとえば、ある活字マニュファクチュアで、鋳字工は1時間に2000個の活字を鋳造し、分切工は4000個を分切し、磨き工は8000個を磨くとすれば、このマニュファクチュアでは、1人の磨き工にたいし、4人の鋳字工と2人の分切工が使用されなければならない。ここでは、多数の人たちが同時に就業し同種のことを行なうという、もっとも単純な形態における協業の原理が復活する――ただし、いまや一つの有機的関係を表現するものとして。……マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程の質的編制とともに、その量的な規制および比例性をも発展させる。[366]

このあとに指摘されている、「監督労働」および「運搬部門労働」の「自立」をめぐっては、今後どのへんまで考察がすすめられるのだろう。楽しみだ。

全体機構の要素としての労働編制

同じ部分機能を行なう労働者たちの個々の群、小集団は、同質な諸要素から成り立っており、全体機構の一つの特殊な器官を形成する。とはいえ、さまざまなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編制された労働体であり、他方、全体機構は、これらの生産上の要素的有機体の反復または倍加によって形成される。[367]

実例としてあげられているのが「ガラス壜」マニュファクチュアである。このマニュファクチュアでは大きく3つの作業過程に分かれている。第1は、「ガラスだね」をつくる準備段階。第2は、液状のガラスだねを加工する段階。第3は、完成したガラス壜の取り出し、分類、荷づくりの段階。とくに、ここでは、「本来のガラス壜製造」の過程である第2の段階について考察されている。

1つのガラス窯の同じ口のところで1つの群が労働しているが、この群はイギリスでは「穴」と呼ばれていて、“壜製造工”または“壜仕上工”1人、“吹き細工工”1人、“集め工”1人、“積み上げ工”または“磨き工”1人、および“搬入工”1人から構成されている。この5人の部分労働者は、単一の労働体の5つの特殊器官を形成しており、この労働体は、ただ統一体としてのみ、すなわち5つの特殊器官の直接的協業によってのみ、機能を果たしうる。もし5つの部分からなる労働体の1つの部分が欠けると、この労働体は麻痺してしまう。しかし、同じガラス窯は、いくつかの口、たとえばイギリスでは4つないし6つの口をもっていて、その各々は、液体状ガラスのはいった1つの土製の溶融坩堝をそなえており、その各々のところで、同じ5つの部分から編制された形態の独自の1労働者群が就業している。[367]

ガラス壜マニュファクチュアは、このガラス窯の共同使用を中心に、先に分類された、第1段階、第3段階の設備とそれにたずさわる労働者群が配置され、編制されているのである。

マニュファクチュアの結合によるマニュファクチュアの形成

ここであげられている実例はひきつづきイギリスのガラスマニュファクチュアである。ガラス壜製造の過程で主要な生産手段となる溶融坩堝を製造するマニュファクチュアと、さきに例にあげられたガラス壜製造作業場が結合されるという例である。

生産手段のマニュファクチュアが、生産物のマニュファクチュアと結合される。[368]

つぎに例としてあげられているフリント・ガラスとは、『広辞苑』によれば

フリント【flint】火打石。―−ガラス【―硝子】鉛を含むガラス。主に酸化ナトリウム・酸化カリウム・酸化鉛・珪酸を成分とする。屈折率が大きく、光沢に富む。光学ガラス用のほか、装飾・工芸用。鉛ガラス。

だから、ここであげられているのは工芸ガラス製品としてのフリント・ガラスマニュファクチュアだと思われる。ここでは、ガラスマニュファクチュアに、完成されたガラス壜あるいはガラス製品を研磨する「ガラス磨き業」とガラス製品に金属をはめ込む「真鍮細工業」とが結合する例があげられている。

生産物のマニュファクチュアが、この生産物そのものをふたたび原料としているマニュファクチュアか、あるいはあとでそれを自己の生産物と一体のものにするマニュファクチュアと結合されることもありうる。[368]

マニュファクチュア時代の機械設備

マルクスはこれまでの考察の節々で、マニュファクチュアにおける分業の発展と限界について指摘してきた。マニュファクチュアという協業形態において、分業が、その限界をこえて発展してゆく契機ははたしてどこにあるのか。

マニュファクチュア時代は、商品生産に必要な労働時間の短縮を、やがて意識的な原理として表明するのであるが、それはまた、機械の使用をも散在的に発展させる――ことに、大きな力を用いて大規模に行なわれるべきある種の簡単な準備的諸過程のために機械が使用される。[368]

商品生産一般にはたらく「競争の外的強制」が、どのようにマニュファクチュアに働くかということを、マルクスはすでにつぎのように指摘していた。

一商品にたいし、その生産のために社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般にあっては、競争の外的強制として現われる。なぜなら、皮相な言い方をすれば、個々の生産者たちはいずれも商品をその市場価格で売らなければならないからである。これに反して、マニュファクチュアでは、与えられた労働時間内に与えられた分量の生産物を供給することが、生産過程そのものの技術的法則となる。[366]

「競争の外的強制」はマニュファクチュアのなかに機械設備を導入させたが、ここで、マルクスは、たいへん興味深い考察を行なっている。たとえば、機械設備の「使用」や労働用具の「分化」に貢献したのは、たしかにマニュファクチュアの部分労働者たちだったが、機械設備の「発明」に貢献したのは、「学者たち、手工業者たちであり、農民たち」などであったという指摘。また、

機械設備の散在的使用は、17世紀にきわめて重要となったが、それは、この機械設備が当時の大数学者たちに近代力学をつくり出すための実際の手がかりと刺激を与えたからである。[369]

という考察である。訳注によれば、ここでいう17世紀の「大数学者たち」というのは、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei 1564-1642, 投げ出された物体が放物線を描くという発見)、ケプラー(Johannes Kepler 1571-1630, 惑星の軌道が楕円になるという発見)、フェルマ(Pierre de Fermat 1601-1665, 解析幾何学の創始者)、パスカル(Blaise Pascal 1623-1662, 数学的帰納法を確立)、ニュートン(Isaac Newton 1643-1727, 微分積分の発見者)らをさす。生産様式の発展とそれにともなう技術の発達、そして、それと相乗的に関連している人類の知的発展という観点は、たいへん大事だと思う。

しかしながら、マニュファクチュアにおける機械設備の使用は、さきにマルクスが分析しているように、まだ一般的系統的なものではない。それはなにより、マニュファクチュアという協業形態の分業システムそのものに要因がある。

マニュファクチュア時代の独自な機械設備は、依然として、多数の部分労働者たちから結成された全体労働者そのものである。[369]

だから、この機械設備の導入そのものは、マニュファクチュアがつぎの章で考察される分業段階に飛躍するための直接的な契機ではないらしい。マルクスがこの先考察をすすめているのは、マニュファクチュアにおける作業内容の進展である。やはり、この部分労働の形態の変化そのものに、つぎの段階への契機があるのだろうか。

部分労働者の等級的区分

さまざまな諸作業が分離され、自立化され、分立化されたのち、労働者たちは、その目立った特性に応じて、分割され、分類され、群に分けられる。彼らの自然的諸特性が、分業が接木される基礎を形成するとすれば、マニュファクチュアは、ひとたび導入されると、生来ただ一面的な特殊機能にしか適しない諸労働力を発達させる。……習慣としてある一面的機能を営むことにより、部分労働者は、この機能の自然に確実に作動する器官に転化させられ、他方、全機構の連関により、部分労働者は機械の一部がもつ規則正しさで作業するように強制される。[369-370]

全体労働者のさまざまな機能は、簡単なものや複雑なもの、低級なものや高級なものがあるので、その諸器官すなわち個別的諸労働力は、まったく程度の違う訓練を必要とし、それゆえ、まったく違う価値をもつ。したがってマニュファクチュアは、諸労働力の等級制を発展させ、それに労賃の等級が対応する。[370]

マルクスの以下の指摘が、はたして、つぎの章へつながる叙述なのかどうか。

どの生産過程も、どのような人間でもできるある種の簡単な仕事を必要とする。このような仕事も、いまや、活動のより内容豊富な諸契機との流動的連関から引き離されて、専門的諸機能に骨化させられる。[370]

労働者のもつ可能性の全面的発揮をめぐって

上に引用したマルクスの指摘とかかわるのだが、この前後でいくつか印象的な考察が行なわれている。ユア博士の論文で指摘されていることとの対比でもこれらの考察が行なわれているのであるが、マルクスは、労働者の等級づけにかんするユア博士の考察部分を引用しつつ、労働者の等級づけは各々の労働者の「先天的および後天的」「技能の順位」あるいは「熟練度」によって行なわれるというユア博士の考察を否定して、むしろ、分業システムそのものが各々の労働者の機能を「専門的諸機能に骨化させ」るのだと指摘している。マルクスは端的につぎのような指摘さえしている。

部分労働者の一面性が、またその不完全性(46)さえもが、かれが全体労働者の分肢となる場合、完全性となる。

注(46)たとえば、一面的な筋肉の発達、骨の彎曲など。[370]

このさき分業の発達にともなって、それに従事する労働者たちの機能はますます部分的、専門的、特殊的なものに「骨化させられる」ことになるはずである。だとすれば、労働過程においては、もはや人は、その機能の全面的発揮をもとめられることがなくなり、その過程にあるかぎりにおいては、部分労働でもとめられる機能以外の機能の発達は望むべくもないということになる。

上の引用部分のなかの「全体労働者の分肢となる場合」というところは、訳注によれば新約聖書と関連しているとのこと。聖書のその部分を読んでみたが、“連関”と“統一”「部分」と「全体」ということについての、古代世界なりの、素朴だが含蓄深い叙述だ。

體(からだ)は一肢(ひとつえだ)より成らず、多くの肢(えだ)より成るなり。

足もし「我は手にあらぬ故に體に属せず」と云ふとも、之によりて體に属せぬにあらず。

耳もし「われは眼にあらぬ故に體に属せず」と云ふとも、之によりて體に属せぬにあらず。

もし全身、眼ならば、聴くところ何れか。もし全身、聴く所ならば、臭ぐところ何れか。

げに神は御意(みこころ)のままに肢をおのおの體に置き給へり。

若しみな一肢ならば、體は何れか。

げに肢は多くあれど、體は一つなり。

眼は手に対(むか)ひて「われ汝を要せず」と言ひ、頭(かしら)は足に対ひて「われ汝を要せず」と言ふこと能はず。

否、からだの中(うち)にて最も弱しと見ゆる肢は、反(かえ)つて必要なり。

體のうちにて尊からずと思はるる所に、物を纏(まと)ひて殊に之を尊ぶ。斯く我らの美(うるは)しからぬ所は、一層(ひときは)すぐれて美しくすれども、

美しき所には、物を纏ふの要なし。神は劣れる所に殊に尊栄(たふとき)を加へて、人の體を調和したまへり。

[新約聖書 コリント人への前の書 12.14-24]

機能の単純化と不熟練労働者層の発生

手工業経営が支配的だった時代には排除の対象だった「半人前」労働者が、マニュファクチュアの一定の発達にともなって、生産機構全体にとって不可欠の構成要素となる。不熟練労働者の機能は「どのような人間でもできるある種の簡単な仕事」にまで単純化された労働過程の部分を担うから、「修業」費用はほとんどかからない。また、一方、「ベテラン」中堅労働者にとっても、ますます部分労働の内容が特殊化され単純化されてゆくから、手工業経営と比較して「修業」にかかる費用は減少する。

どちらの場合にも、労働力の価値は低下する。……修業費が不要になるか、または減少することから、労働力の相対的な価値減少が生じるが、これは資本のより高い価値増殖を直接に含んでいる。なぜなら、労働力の再生産に必要な時間を短縮するすべてのものは、剰余労働の領域を延長するからである。[371]



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