2000.07.20

日本古代史年表


この年表の特徴について


西暦年

事 柄 な ど

572(敏達1)

4

.

訳語田皇子、即位(敏達天皇)。 大連に物部守屋、大臣に蘇我馬子。

575

1

.

息長真手王のむすめ広姫を皇后とする

575

11

.

広姫、逝去。

576

3

.

炊屋姫皇女を皇后とする。

585

8

.

敏達天皇、逝去。

585

9

.

橘大兄皇子、即位(用明天皇)。

586(用明1)

1

.

穴穂部皇女を皇后とする。

586

5

.

穴穂部皇子が炊屋姫皇女を犯そうと、敏達天皇の殯宮に入ろうとするが、三輪君逆に阻止される。穴穂部皇子は物部守屋と手を結び、用明天皇の宮・池辺双槻宮を軍勢で囲む。穴穂部皇子は逆の居場所(海石榴市宮)を知り、守屋を遣り、逆を殺す。

587

4

.

用明天皇、病に倒れ、仏教に帰依することと表明。仏教反対派の物部守屋は、別荘(河内国阿都)に篭り、軍勢を整える。同じく反対派だった中臣勝海は、彦人皇子と竹田皇子を呪い殺そうとするものの果たせず、寝返って彦人皇子につこうと彦人の宮(水派宮)を訪ねるが、門を出たところで暗殺される。用明天皇、逝去。

587

5

.

守屋は穴穂部皇子を即位させようとする。馬子は炊屋姫から詔を得、穴穂部皇子と宅部皇子を討つ。

587

7

.

馬子は守屋討伐連合軍を編成。泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子らが参加。守屋、自ら兵を率い戦うも、戦死。

587

8

.

泊瀬部皇子が即位(崇峻天皇)。

588(崇峻1)

.

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592

10

.

崇峻天皇が怪しむのを知り、馬子は兵を集め警戒する。

592

11

.

東国の調をおさめる儀において、馬子の命を受けた東漢直駒により崇峻天皇暗殺される。のち駒は、馬子のむすめ河上娘を拉致したことにより、馬子により殺される。

592

12

.

炊屋姫皇女、即位推古天皇)。

593(推古1)

4

.

廐戸皇子を皇太子とし、摂政とする。

600

.

.

遣隋使が隋に到着する(『隋書』による。『日本書紀』に記載なし)。

601

2

.

廐戸皇子、斑鳩に宮を立てる。

603

10

.

小墾田宮に遷都。

603

12

.

冠位十二階を制定。

604

4

.

廐戸皇子、憲法十七条を作成。

605

10

.

廐戸皇子、斑鳩宮に居住。

606

.

.

廐戸皇子、天皇に勝鬘経を講義。また岡本宮にて法華経を講義、褒美に播磨の水田を与えられる。

607

7

.

小野妹子を隋へ派遣(『日本書紀』によればこれが第一回遣隋使)。

608

4

.

小野妹子、裴世清を連れて隋より帰国。 裴世清は隋帝からの国書を届ける。

608

9

.

裴世清が、小野妹子らを伴い返礼の国書を持って隋へ帰国。

609

9

.

小野妹子が帰国。

611

5

.

菟田野にて薬猟。

612

1

.

宴を催す。

613

12

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廐戸皇子、片岡にて乞食に出会い、食料と衣を与える。翌日、人を遣って様子をうかがうとすでに死んでいたため埋葬する。数日後、「あれは聖人だったに違いない」とまた人を遣ると、墓に屍体はなく、衣服だけが棺のうえに畳んでおいてある。人々は、聖人には聖人がわかるものだと噂し合った。

614

5

.

薬猟。

622

.

.

廐戸皇子、斑鳩にて逝去(通説による。『日本書紀』では621年)。

624

10

.

馬子が、蘇我の本拠であるとして葛城の地を推古天皇に要求するも、「後世の人が愚かな女が領地を手放したと笑うでしょう」と断られる。

626

5

.

蘇我馬子、死去。

628

3

.

推古天皇、病に倒れる。彦人皇子のむすこ田村皇子に、「天皇となり政治を行うのはたやすくなく、重みのあることだ。慎んで行動せよ」と伝える。廐戸皇子のむすこ山背大兄王に対しては、「まだ未熟なのだから心に望んだことを口にせず、群臣のいうことを聞いて従いなさい」と伝える。天皇、逝去。遺言により竹田皇子の陵に葬る

628

9

.

次期天皇について、阿倍麻呂・大伴鯨ら四人は田村皇子を推挙。他の三人は山背大兄王を推し、蘇我倉麻呂は保留。大臣の蘇我毛人は決められない。これより前、毛人は蘇我境部摩理勢に相談したが、摩理勢は山背大兄王を推し、山背大兄王じしんも毛人に働きかけていた。毛人があらためて、阿倍、中臣、摩理勢に問うと、摩理勢は「それは以前に話した」と怒り、建設中の馬子の墓近くのじぶんの宿所を壊してしまう。そのことに毛人が怒り、ついに兵を挙げて摩理勢を討つ。

629(舒明1)

1

.

田村皇子、即位舒明天皇)。

630

1

.

宝皇女を皇后とする。十月に岡本宮に遷る。

631

7

.

大派皇子が蘇我大臣毛人に「最近朝参を怠る者が多い。今後は卯の刻(午前六時)に始め、巳の刻(午前十時)に終るとし、鐘で時間を知らせるようにせよ」と進言するも、毛人従わず。

641

10

.

舒明天皇、逝去。殯のとき中大兄皇子が十六歳で誄した。

642(皇極1)

1

.

宝皇女、即位(皇極天皇)。

643

10

.

蘇我毛人、子・入鹿(鞍作)に大臣の位を譲る。

643

11

.

蘇我入鹿、巨勢徳太・土師娑婆を遣り、山背大兄王の一族を滅ぼす

645

6

.

三韓の調をおさめる儀の最中、蘇我鞍作が暗殺される(乙巳の変)。続いて、毛人も討ち取られる。中臣鎌足に相談した中大兄皇子が王位を軽皇子に打診するが、軽皇子は古人大兄皇子を推す。しかし古人が即位を辞退し、出家して吉野へ行ったため、軽皇子が即位する(孝徳天皇)。

645

9

.

古人大兄皇子、殺害される。

646(孝徳1)

1

.

改新の詔。

649

3

.

蘇我倉山田石川麻呂、謀反の疑いをかけられ、山田寺で自殺する。

651

9

.

孝徳天皇、難波長柄豊碕宮に遷都。

653

.

.

中大兄皇子、宝皇女(皇極天皇)・間人皇女らを伴い、飛鳥河辺行宮に移る。

654

10

.

孝徳天皇、難波宮にて逝去。

655(斉明1)

1

.

宝皇女、重祚(斉明天皇)。

657

9

.

有間皇子、狂人を装う。有間皇子、天皇に紀温湯を薦める。

658

10

.

天皇一行、紀温湯へ。

658

11

.

有間皇子、謀反で処刑される。

661

5

.

天皇、朝倉橘広庭宮へ遷宮。

661

7

.

斉明天皇、朝倉宮で逝去。中大兄皇子が称制。長津宮へ遷都。

661

8

.

前軍・後軍からなる百済救援軍を編成。将軍は阿曇比羅夫(あずみのひらふ)、阿倍比羅夫。

661

9

.

中大兄皇子、長津宮にて余豊璋を百済王に任じる。

662(天智1/称制1)

3

.

高句麗に進軍していた唐軍、新羅軍は撤退したが(2月)、高句麗の要請により軍を州柔(つぬ)に駐留させる。

662

5

.

阿曇比羅夫の軍170艘が、余豊璋らを百済まで護送。百済にて、余豊璋の百済王任命式。

662

12

.

豊璋とその臣・福信は、州柔が農耕に適さず貧しいと、避城(へさし)へ移ることに決める。朴市田来津(えちのたくつ)は反対した。

663

2

.

新羅が百済の南部から進軍。豊璋ら、守りに弱い避城を捨て、州柔に戻る。

663

3

.

前軍(上毛野稚子かみつけのわかこ)・中軍(巨勢訳語こせのおさ)・後軍(阿倍比羅夫)の3軍計27000人を百済に派遣し、新羅攻撃へ。*かっこ内は将軍名。

663

6

.

豊璋、福信に疑いを抱き、処刑する。

663

8

13

17

新羅が州柔を攻略するのを知り、豊璋は白村江へ向かう。その後州柔は包囲される。また唐軍170艘が白村江に集結。

663

8

27

28

唐軍と日本軍が白村江にて合戦。日本軍は1000艘を出し(『三国史記』)、400艘が焼かれ(『旧唐書』)、敗北。朴市田来津は戦死、豊璋は高句麗へ逃れる。

663

9

.

州柔城降伏。日本軍、帰国。

664

2

.

冠位二十六階、制定。

664

5

.

唐の百済占領軍の将軍・劉仁願、郭務ソウを日本に派遣(12月帰国)。*ソウは、りっしんべんに「宗」

664

.

.

対馬、壱岐、筑紫に防人とのろしを置く。筑紫に水城を築く。

665

2

.

孝徳后だった間人(はしひと)皇女逝去。

665

8

.

長門城、大野城、椽城を築城。いずれも山城。(『日本書紀』では670年2月に同内容が重出)

665

9

.

唐より劉徳高・郭務ソウら254人が派遣される(12月帰国)。

667

2

.

斉明天皇・間人皇女を合葬。その側に大田皇女の墓を作り埋葬。

667

3

.

近江遷都。

667

11

.

大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築城。

668(天智7/天智1)

1

.

中大兄皇子正式即位(天智天皇)。翌月、倭姫王(古人皇子の子)を皇后とする。

668

5

5

蒲生野にて狩り。

668

.

.

百済より兵法を習い、牧場を多く作り馬を飼う。越後より石炭・石油が献じられる。

669

8

.

天智天皇、高安城を視察。民が疲れているのを見て、工事を中止した。

669

10

.

天智天皇、鎌足を見舞う。数日後、大織冠と大臣位を授与し、藤原の姓を賜う。その翌日、藤原鎌足死去(56歳)。

669

.

.

高安城を修造、畿内の税を収納。

669

.

.

遣唐使派遣。百済から700人移住。

唐の郭務ソウら2000余人が派遣される。*同じ内容が671年11月にもあり、これは671年11月の出来事と考えられる。

670

2

.

戸籍を造る。また、高安城を修造、籾と塩を納める。

670

4

.

法隆寺、出火。

671

1

.

大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣に。また御史大夫に蘇我果安、巨勢人、紀大人。

冠位、法(令?)を定める。(一般に近江令とされる)

671

4

.

漏剋(ろこく=水時計)を作り、はじめて鐘で時刻を知らせる。

671

9

.

天智天皇、病に倒れる。

671

10

.

天智天皇、大海人皇子を枕元に呼び後事を託すが、大海人皇子は、天皇位を皇后・倭姫に譲り、大友皇子を太政大臣として執政に当たらせることを進言し、自らは出家し吉野へ。

671

11

.

対馬国司の使いが大宰府に、「法師・道久ら四人が唐より来て言うには、"郭務ソウら2000人が47隻の船で比知島(比珍島?)で停泊中。日本に向かいたいが、数が多いため防人が驚いて攻撃を仕掛けないか心配なので先に連絡しておきたい"」と伝える。*672年3月に一行は筑紫で天智天皇逝去の報を聞く。

671

11

23

大友皇子と蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人の六人で、仏像の前で天皇の詔を守ることを誓う。

671

11

24

近江宮にて出火。

671

11

29

大友皇子と五人、天智天皇の前で誓う。

671

12

3

天智天皇、逝去。


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