2000.07.20

日本古代史・事件解説

〜推古朝〜


事件の概要、人物の生没年等は基本的に『日本書紀』をベースにしていますが、他の説が有力な場合は、そちらを参考にしている場合があります。
人物によってはいくつかの名前(役職名等含む)があります。即位した人物は諡号を、それ以外については妥当とわたしが判断したものを採用しています。
参考にあげているのは関連の論考がある書籍です。本HPに取り上げられている書籍は、リンクを張ってあります。


推古天皇の即位

推古天皇(すいこてんのう 554-628)は、この時代では生没年がはっきりしている数少ない人物である。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)または炊屋姫皇女(かしきやのひめのひめみこ)。欽明天皇の子で、用明天皇の同母妹。敏達天皇の皇后となった。

592年、崇峻天皇が暗殺された後、蘇我馬子に請われ即位した。日本史上初の女性天皇である。

女性の即位について、男性候補をひとりに絞れなかったために「つなぎ」として即位したというのが一般的な解釈である。即位は、敏達天皇の皇后であったことから認められたと見られる。古代にはこの後も、皇極・斉明天皇、持統天皇などの女性天皇が存在しているが、いずれも舒明天皇、天武天皇の皇后だった。

593年には、廐戸皇子(うまやとのみこ=聖徳太子)を摂政とした、と『日本書紀』にある。そこで女性である推古天皇の補佐として、廐戸皇子が実権を握っていたとの説もあるが、590年代当時「摂政」という官職はなかったと見られ、廐戸皇子がそのような立場だったか疑問が持たれる。とはいえ、廐戸皇子は一定の政治力を持っていたと解釈されている。

参考)『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』

 


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