2000.07.20

日本古代史・事件解説

〜用明朝〜


事件の概要、人物の生没年等は基本的に『日本書紀』をベースにしていますが、他の説が有力な場合は、そちらを参考にしている場合があります。
人物によってはいくつかの名前(役職名等含む)があります。即位した人物は諡号を、それ以外については妥当とわたしが判断したものを採用しています。
参考にあげているのは関連の論考がある書籍です。本HPに取り上げられている書籍は、リンクを張ってあります。


穴穂部皇子の謀反

穴穂部皇子(あなほべのみこ)は欽明天皇と蘇我小姉君(おあねのきみ)の子で、用明天皇(ようめいてんのう)の皇后・穴穂部皇女(あなほべのみこ)の同母弟。

穴穂部皇子は、585年の敏達天皇没後すぐから次期皇位を狙っていたようで、586年に、炊屋姫皇女と会おうと敏達天皇の殯宮(もがりのみや。遺体を安置し祀る場所)に押し入ろうとしたところを、敏達の忠臣・三輪君逆(みわのきみさかう)にとどめられた。炊屋姫と無理矢理結婚を迫ろうとしたとも、脅して即位しようとしたとも解釈はできるが、不明。

とにかくこの一件で、逆を恨んだ穴穂部皇子は、逆を匿っている用明天皇の池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)を、物部守屋(もののべのもりや)とともに軍勢で囲んでしまう。

逆はここは逃れたが、結局は穴穂部皇子の命で守屋の手により殺されてしまう。逆は敏達天皇の忠臣で、穴穂部皇子は、敏達皇后だった炊屋姫に完全に敵視されたようだ。

587年、蘇我馬子の要請により、炊屋姫皇女は穴穂部皇子討伐との詔を下し、穴穂部皇子と彼に親しかった宅部皇子(やかべのみこ)は殺されることになる。

 


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