2000.07.20

日本古代史・事件解説

〜敏達朝〜


事件の概要、人物の生没年等は基本的に『日本書紀』をベースにしていますが、他の説が有力な場合は、そちらを参考にしている場合があります。
人物によってはいくつかの名前(役職名等含む)があります。即位した人物は諡号を、それ以外については妥当とわたしが判断したものを採用しています。
参考にあげているのは関連の論考がある書籍です。本HPに取り上げられている書籍は、リンクを張ってあります。


敏達天皇と皇后

敏達天皇(びだつてんのう)の本名は、訳語田皇子(おさだのみこ)。欽明天皇(きんめいてんのう)の子で、572年に即位し、575年に広姫を皇后とした。

皇后は単なる天皇の正妻を意味するのではなく、特別な地位である。『日本書紀』上、皇后は11例あるが、ほとんどが皇女(=天皇のむすめ)なのも、その地位の高さと重さ故と考えられる。豪族・息長氏の子の広姫が皇后になるのは異例で、そのため、実は皇后になっていないと考える向きもある。

広姫は皇后に立てられたあと数ヶ月で逝去。翌年、炊屋姫皇女が皇后となった。炊屋姫は、欽明天皇と蘇我堅塩媛のむすめで、敏達天皇の異母妹にあたるが、当時の皇族では異母兄妹の結婚は珍しくない。577年に炊屋姫に私部という服属の領地領民が認められている。他の天皇のミメ(妻)とは明らかに違う扱いで、しかも、のちに炊屋姫皇女が即位(推古天皇)している。そこから、即位もできるほどの「皇后」という地位は、じつは炊屋姫皇女以降のものではないかとの説もある。

推古以降、女性天皇となった皇極・斉明、持統もまた皇后であった。

なお、天皇制は天武朝以降成立したというのが最近の一般的な見解で、敏達天皇の時代には、天皇は大王(おおきみ)、皇后(正妃)は大后(おおきさき)と言われていたようだ。

参考)『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』

 


[INDEX OF KATSURAGI] [HOME] by 東風